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翠の香り 02  









 鬱蒼と繁る木々が囲むのは、さほど広くも深くもないが清らかな恵みを生み出す泉だ。
 身体の隅々にまで行き渡る森のしっとりとした香り。頬に時折降りかかる雨粒が体温と溶け合い、生温かい。
 ユエリアは足元に注意を払い、一歩一歩慎重に進んでいった。今にも落ちてきそうなけだるい雨雲の所為で元々薄暗かったのだが、日が沈めば辺りは一層闇が立ちこめた。

 月の隠れている夜は、獣油を固めて作った小さな灯火だけが頼りだ。雨で濡れて消えてしまわないよう金属の傘がついた籠に入れてある。彼女自身は雨よけの外套を纏っているが、それはとっくに水分を吸って重く、冷えてしまっている。
 ユエリアは平らな岩の傍まで来ると、灯火をその上に置き、膝をついて手探りで草や花を掻き分けた。《月光白花》は清らかな泉の近くで、しかも月の光がよく降り注ぐ場所でないと自生しない。
 加えて、彼の花と非常に似通った形のものも必ず近くに咲く。それは毒草で、誤って口にしてしまえば人間を殺してしまう程には威力がある。普通の者ならばまずそれらの区別がつかない。
 しかし大地を朋とするユエリアならば、それはさほど問題ではなかった。彼女は柔らかな地面に片手を添え、もう片方は胸に当てて問いかける。

(お願い……あたしの大切なひとのために、応えて。《月光白花》はどこ?)

 それはすぐに反響して、辺りで草木の囁き声がわっと溢れだす。大地の言葉は翠髪を持つ者でも聞き取ることが困難であるが、それさえもユエリアにとっては息をするのと同じことだった。
 彼女はだんだんと暗がりに慣れてきた目を凝らし、すぐ手前にある白い花と、同様に白い花をつけて岩陰に自生する野草を確認する。

(そう、やっぱりあれも毒草だったのね。本物は――え?)

 草木の言葉を危うく聞き逃しそうになる。彼女は静かに立ち上がった。

(泉の中央部に咲くあれね。皆、本当にありがとう)

 まさか泉に入らなければならないとは。深さは彼女の腰程しかないはずだが、服を着て入るとずぶ濡れになる上、邪魔に思えた。
 冷たい雨の降りしきる中、全身水浸しになるのはあまり頭のいいことではないが、服ごと濡れてその後に消費する体力を考えれば脱いだ方が賢明なのかも知れない。外套以外はまだ無事だと言える。

 ユエリアはまじない程度の結界を泉の周辺を取り囲むようにかけると、迷うことなく自分の服に手をかけた。
 暗闇に浮かび上がる白い肌の、陶器のごとき滑らかさ。僅かな衣擦れの音をたてて地面に落ちた服を外套で包むと、少し考えてからユエリアは裸足になった。

(水底の草は踏まれることに弱いこともあるもの。仕方ないわね)

 泉の端から中央部の岸までだいたい十五、六歩といったところか。指先で水に触れると、思いの外ひんやりとして冷たい。
 そろりと片足を水につける。冷えるが凍えるものではない。彼女は両足を沈めて足元の感触を確かめると、少しずつ《月光白花》を目指した。
 順調に進みあと数歩の所で彼女の身体が唐突に傾いだ。間もなく均衡を失って派手な音と水しぶきを撒き散らす。普段出さないような悲鳴が口をついて、ユエリアは慌てて口を手で覆い隠した。
 何ということはない。ただ足場が急に深みに捕われただけだ。走る鼓動を宥めながら、ユエリアは腕を伸ばして中央部の岸に手をついた。
 人一人が立つのがやっとの広さしかない中央部には、点々と《月光白花》の透き通る白い花弁が風にそよいでいる。

「《月光白花》。あなたが咲いていてくれて良かった。どうか力を貸して。――皆の良き糧になりますように」

 風習の祈りを捧げ、ユエリアは一つの《月光白花》の生えている場所をぐるりと指で円を描く。大地の力を使えば、その部分だけが容易く地面と離れた。
 この薬草は熱にも弱いため、持ち帰る時は土ごとでなければ薬湯にした時の効能が薄れてしまうのだ。
 安堵の息を吐いて《月光白花》を持ち上げる。と、空が機嫌を損ねた猛獣のごとく低い声で唸った。身体中が強ばる中、ユエリアは必死に自分を叱咤する。

(大丈夫。あれは雷じゃない。だから大丈夫。その前に村に戻るのよ)

 ほんの少し手を伸ばせば届きそうなくらいには、嵐は迫っている。その事実よりも今は彼女の内を占める確固たる意志が打ち勝っていた。
 戻らなければ。
 《月光白花》を取り落とさないように胸に抱く。五歩ほど進んで、ユエリアは弾かれたように遠くを見つめた。結界に何かが引っ掛かった。その存在を悟り、ユエリアは眩暈を感じた。
 声が。
 彼女を呼ぶ声が近づいてくる。

「ユエリアっ!? どこですか、返事をしてください!」

 出来るわけがない。こんな、身体を曝け出した状態で。
 それに、彼をここへ来させてはならなかったのに。彼女が悩む暇も与えず、クルスは泉の向かい側に姿を現した。反射的にユエリアはしゃがみこみ背を向ける。
 その水音で気付いたのだろう。彼の視線が自分に定まるのを感じて、身体の奥が熱くなる。

「な……にをしてるんです、こんな雨のなか寒いでしょう。早くこっちに」

「見ないで!」

「え?」

「こっち見ないでって言ってるのよ変態」

 肩ごしに睨みつけてやると、さすがの彼もばつが悪そうに顔を背けた。

「すみません、必死だったんです。あなたが中々見つからなくて」

「そこ邪魔なのよ。もっとあっちに行って」

 ユエリアは半ば乱暴に岸へはい上がると、外套を広げ、全身濡れているのも構わず服を身につけていった。
 クルスが来なければ何も纏わぬまま近くにある浅い洞穴――今は使われていない獣の古巣――で整える手筈だったのだ。
 《月光白花》は確保した。これでミシェーナ達の熱が治るはずだ。ユエリアが密かに脱力する最中、離れていたクルスが再び彼女の方へやってくる。そこにはほんの僅か、彼にしては珍しい怒気を含んだ眼差しがあった。

「さっきはすみませんでした。その、あなたがあんな姿だとは思わなかったもので。……でも、どうして一人で来たんですか」

「あたし達の村の問題だから。あんたには関係ないでしょう」

 本当はクルスを来させられない理由があった。それを避けたのだが、逆に彼を煽ることになる。
 ぐいと強い力で手首を掴まれ、ユエリアは内心びくりとした。

「どうしてそういう事ばかり……。分かりました、はっきり言います。僕は今怒ってます」

 だから何なのだ、とユエリアは眉根を寄せる。

「どうしてだか分かりますか」

「知らないわよそんなの。あんたが勝手に首突っ込んでるだけよ。いいから手を」

 離して、と彼を突き放す前に、クルスが一歩踏み込んでくる。ユエリアは身を退こうとしたが、手首を絡めとられているために動けない。

「違うでしょう。勝手に手を差し伸べたのはあなたが先だ。あなたは僕を助けた。だから僕があなたを助けることも勝手にさせていただきます」

「――なっ」

「ユエリア。あなたは以前僕に言いましたね。僕達がユエリア達の、大地の力を怖れていると。けれど少なくとも僕は違う。ここにこうしてユエリアと共にいます。――拒んでいるのは、ユエリアの方じゃないですか」

 彼女は唇の僅かな隙間からも、何も言葉が出なかった。 全てが霧散している。一瞬前まで働いていた思考も、立ちこめていた感情も。

「僕達、あなた達なんて哀しい区別はもうやめましょう。だってほら」

 クルスは両手をそっとユエリアの手に重ねて、

「あなたと僕の手は、大きさや肌の色こそ違いますけど……こうして温もりを伝えあうことはできるんです。同じ、ひとですから」

 微笑んだ。