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翠の香り 01
薬湯が効いたのだろう。おとなしく寝台に横たわっていたクルスだが、その日の夕方頃には体のだるさがすっかり抜け切っていた。彼は上半身を起こすと、部屋の隅で投げ出されたままの荷物を見やった。
(しまった、ミシェーナさんの手紙をまだ預かっているままだ)
ふらつくことなく立ち上がると、彼は荷物の中から手紙を取り出し、そして上着を羽織ると小屋を飛び出した。
灰色の空からポツリポツリと弱足で雨が降り始めていた。濡らしてしまわぬよう手紙を懐にしまうと、クルスは駆け足でミシェーナの家へ向かう。
村はせいぜい二十人弱の人間が住んでいるのみだが、家畜も含めるとそれなりの広さが必要だった。けれどそれでも村は王都の一区よりも狭い。
ミシェーナの家に入る前に彼は頭と肩を軽く払って雨粒をできるだけ落とす。だがその時、扉の前にいたためか彼女の家の内側から微かな声が響いてくるのが聞き取れた。ミシェーナの声だ。それも何やら怒りを通り越して癇癪を起こしているようで。
彼は意を決して扉に手をかけた。
「失礼しま……」
「どうしてユエを一人で行かせたんですかっ」
耳に飛び込んできた名にクルスは嫌な予感を覚える。部屋では寝台から一刻も早く抜け出そうともがくミシェーナと、それを何とか押さえつける薬草師の姿があった。
「だいたい! 今日は嵐が来るかも知れないんですよ。あの子、それだけは駄目なのに――」
そこまで叫んでから、彼女はようやくクルスの存在を認めて目を丸くした。急におとなしくなったその様子から、薬草師の方も彼に気づいたらしい。
薬草師は疲れたのか腰を数回叩くと、自分はすぐ傍の椅子に腰をおろす。
「……クルスさん」
「一体どうしたんです? ユエリアが何かあったんですか」
薬草師が肩を竦めて答えた。
「ユエリアは流行病に効くであろう薬草を採りに行ったのだ」
「薬草を? 何故ですか。僕の所へ来た時は、籠いっぱいに薬草が入っていたのを見たんですが」
「お主の熱病ぐらいのものならば、それで事足りとるさ。……だがの、今村で広まりつつある病にはそれらが効かん」
「だからユエリアに行かせたのですか? そんな、それなら僕の方が探す体力だってあるのに」
クルスは以前彼女の体が生まれつき弱いことをその目で感じていた。彼の不安を見透かしたように薬草師は一つ頷いて続ける。
「私もそう思ったよ」
「では何故……」
「ユエリアが、お主はだめだ、ときっぱり言いおったからの。ユエリアは理由も無くそのようなことは言わん。だから私はユエリアに行かせたのだ」
断言されて、クルスは奥歯を噛み締める。まただ――彼女との間に引かれた境界線。
(ああ、せめてもっと記憶が戻っていれば、この村との関係も少しは掴めたかも知れないのに)
ミシェーナが起き上がろうと体をよじるが、そうすればするほど彼女は体を寝台に埋めていった。無駄だったと理解するとミシェーナは腕を伸ばしてクルスの袖を引く。
「ちょっと、何してんですかクルスさん」
熱の所為で上気した頬に汗ばんだ額。ミシェーナは声を張り上げるのも億劫なはずだ。しかし彼女はクルスを挑むように見上げてくる。
「クルスさん……私に言いましたよね。『いつもユエリアの気持ちを考えてる』って」
「ええ、言いましたが」
「だったらこんなとこでぼぅっとしてないで、さっさとユエを捜しに行ってください」
クルスは瞬間、躊躇った。
「でも彼女は僕に来てもらいたくない、と」
しかしそれさえも塗り替えてしまうほどの――例えるならそう、王都にある《時知らせの鐘》の音が響き渡るような。力強くはない。だがどこまでも染み込むように。
「意気地なし」
彼女は笑っていた。笑おうと、していた。
「今まで散々ユエに付き纏ってあの子を悩ませた挙げ句、ユエに来るなと言われたから行かないんですか」
「それは違います! 僕が行って彼女が傷つくのなら意味がない……」
「は。あなたどんだけあほなんですか。ここまでしておいて。せっかく少しは見直そうかと思ったのに」
「あの……ミシェーナさん?」
布ごしに、ミシェーナが爪を立てるようにして彼の腕を強く握り締めてくるのが分かった。熱を持った手のひらは小刻みに震えている。
ミシェーナは凄絶な笑みを浮かべ、クルスを思い切り睨んだ。
「『僕が行くと傷つくから』? 何言ってんですか。それは単なるあなたの勝手な解釈だわ。あなたが自分を傷つけたくないための理由に過ぎないの。いいですか、一度しか言いませんからね。……ユエがあなたを行かせなかったのは、そこでクルスさんの記憶が戻るかも知れないからなんですよ」
彼は胸を一振りの槍で一息に突かれたように息が出来ずにいた。紫の瞳を瞬きもせずにミシェーナの言葉を受けとめる。
そして顔つきが変化する。穏やかそうな瞳は鋭く理知に富んだものとなる。クルスはミシェーナの腕をそっと引き剥がすと、寝台の高さまで屈み込んだ。
「僕は確かに意気地なしですね。でしたら一つお願いしてもいいですか」
「私に出来ることなら」
彼は、ミシェーナが思わずどきりとしてしまうほどの極上の笑みで、言った。
「僕を殴ってください」
間髪入れずに乾いた音が部屋に響いた。ミシェーナが、彼の要望通り頬をはたいたのだ。
彼は満足そうに「ありがとうございます」と言いながら、自分の懐から一枚の封を取り出す。それをミシェーナの手に握らせてやる。
「今ので思い出しました。ロッダさんから預かったものです。ぜひあなたに、と」
「兄さんから?」
「はい。では、時間が惜しいので僕はこれで」
急いで踵を返したクルスに、それまで沈黙を保っていた薬草師が手招きをした。
「これを持っていきなさい。それと、薬草のある場所は限られておるから、今ここで私が言う場所を覚えることだ」
クルスは場所をしっかりと暗記すると、薬草師から渡された赤い染め布を手に、あっという間に森へ身を投じるようにして向かって行った。
残された二人はどちらからともなくため息を漏らす。
ミシェーナは兄からの手紙を胸に掻き抱き、やがて独り言のように呟いた。
「クルスさんなんて嫌い。……大嫌いよ」
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