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悲しみの消えた空で 05  










 ユエリアが乱暴に扉を閉めると、外では薬草師が静かにたたずんでいた。
 彼は軽く腰を叩きながらユエリアの目の前まで歩いてくると、扉と彼女を交互に見やり小さく溜め息をついた。

「もっと大切に扱ってほしいものだ」

「ごめんなさい、おじさま」

 感情的になってやってしまったことだったので、彼女に弁明の余地はない。
 クルスが再び村へ帰ってきたのは、今朝の日が昇る頃だ。それも彼女が薬草採取へ出かけた途端彼と出くわしてしまったので、彼女としては嫌味の一つくらい言いたくもなる。
 多めに持たせておいた路銀は、少しでも長く王都に彼を滞在させ、壊れゆく鈴から気を逸らすためのものだった。鈴さえ失ってしまえばクルスはもう村へ帰ってこれない。
 だがユエリアは万が一馬が森に取り残されてしまった時に備え、馬にも魔力を籠めた鈴を括り付けておいた。土鈴は彼女の魔力と相性が良く、効果もより高まる。

(――結局、それで彼は帰ってきてしまったのだけど)

 それは馬のためであり、決して彼を帰還させるためのものではなかった。

(でもあたしは試していたんだわ、彼を)

 胸の中では、どうしようもない程彼が憎いのに。憎くて、腹立たしくて、そのような負の感情ばかりが彼女の内側を悪循環している。
 けれどどこかでクルスを信じようとしていることもまた――認めたくないとユエリアが思っていても――事実で。

 じっと薬草師の足下ばかりを見つめていたユエリアだったが、その薬草師が懐から探り出したものを翠の瞳に映すと、一瞬にして彼女は目を丸くする。

「おじさま――それは」

「お前さんの親父さまのものだ。ずっと私が預かっていたが……今が渡す時のような気がするからの」

 骨張った手のひらの上で握られているそれは、古びて黄ばみかけの白い布が巻かれている。ユエリアは言われるままに受け取ると、その重みで布の中身が何であるのかを悟った。

「……お父さん……」

 呟いて、ユエリアは両手にやっと収まる重みを愛しげに抱き締める。しばらくは時を切り取ったように感じられたのだが、それから彼女は籠の中にあった薬草を数枚取り出すと、薬草師に尋ねた。

「ミシェーナのことなのですが、昨日この薬草を煎じて飲ませました。けれど熱は下がらなかったんです。今朝もこっちに寄るよりも先に彼女を訪ねて同じものを与えたんですけど……おじさま、もしこのまま熱が下がらなかったら、どうしよう……!」

 ミシェーナはクルスが帰る一日前に熱を出し床に臥した。村では、この年治りの遅い熱病が広まりつつある。高熱が出て、放っておくと脱水症状を引き起こしてさらに病を悪化させる。ユエリアが幼い頃にも一度同じような症状が村を襲ったことがあるが、ここまで症状が酷いものではなかった。

「ふむ……。私も村の者を診て回ったが、どうやら少々質の悪い病らしい」

「治るんですよね……?」

 縋るように薬草師の衣の裾を握る。彼は目元の皺をより一層深くさせた。

「安心しなさい。今有る薬草の効果が薄いだけのものだ。お前さんが恐れているようなことには、絶対にならんよ」

「本当に?」

「本当だとも。約束しよう」

 ユエリアの後頭部に触れてくる彼の手は、彼女にとって優しい影を落とす木漏れ日だった。焦燥感も鬱々とした気持ちも、みるみる内に丸く小さくなってゆく。

「だがそうなるとやはり《月光白花》が必要になるだろう」

「あたしが採りに行きます」

 それでミシェーナや村人の病が治るのなら、ユエリアは今すぐにでも飛んでいきたい気分だった。

「あれは特殊な場所にしか生えん。お前さん、幼い頃に一度行ったきりだと思うが」

「大丈夫です。『あの場所』なら、覚えています。……忘れたくても忘れられませんから」

「本当に大丈夫なのか。それに雲行きがどうも怪しい。今夜あたりにも嵐がやってくるかも知れん」

「それは――」

 ユエリアは決まり悪く俯いた。そこへ妙案を思いついたとばかりに、薬草師が彼女の肩に手を添えて。

「私からクルスに頼んでみよう。お前さんの様子からしてクルスはそんなに酷くなかったのであろう。薬湯も飲ませていたようだしの。あやつなら、快く引き受けてくれるのではないか?」

「それはだめっ……クルスは、だめです。行けません」

 即答。彼女には珍しく慌てた様子で、薬草師は僅かに眉根を寄せ、ゆっくりと瞬きをしてみせる。ユエリアは編み籠を胸の前でぎゅっと握り締めて、翠玉の瞳を気まずげに彷徨わせる。
 彼女にも分からなかった。「彼」を思うと、自分の胸の奥底で眠っている灼熱が、途端に唸りを上げてユエリアを飲み込もうとするのだ。それは最初、ほんの小さな灯火のようにすぐに消えてしまうものだったのに。

「あたしなら大丈夫です、おじさま。嵐が過ぎるまで待っていられない。近づいてきてるなら、今夜中にでも探しだしてきます」

「しかしのぅ……」

「それに、他の者では《月光白花》の見分けがつかないでしょう。あたしが森に尋ねれば彼らがきっと導いてくれるはずです。――さぁ、おじさまもいつまでもここにいたら疲れるのでしょう? 今おじさまに倒れられては困りますから、ほら」

 ユエリアは少々強引ではあるが、背後に回り薬草師の背を押して彼を小屋の中へ追いやった。

 嵐が来る前に、どうしても行かねばならない。
 強くなり始めた風が辺りの細木から花弁を攫った。ユエリアは風で乱れた翠髪をいつものように肩から背へ払うと、急ぎ足で薬草の小屋を後にする。

 垂れ込める厚き雲から、一粒の涙が零れた。