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悲しみの消えた空で 03  









 鈴をめぐるヒビが、また一つ増えた。

 どれ程の道を進んだのか、鈴はいつ砕け散ってしまうのか。クルスはそんな不安をかき消すかのように、ひたすら馬を操り前へ駆けることだけに集中した。だが、それでも辺りの景色の変化にクルスは心を揺さぶられる。

 霧が、薄くなっている。
 王都へ向かう時はそんなに深く考えずにいたクルスだが、ここに来て彼はそれを確信へと変える。

(早くたどり着かないと)

 背中に負ぶさっている荷物の中には、ロッダが書いたミシェーナへの大切な手紙が入っている。何としてでも、彼女に渡さなければ、と彼は思う。
 クルスは無意識の内に、ロッダの手紙に励まされていたのだ。

 馬の息が荒い。クルスは馬の首元を撫でてやり、そして躊躇いを捨て手綱を握る手を緩めると、馬からそっと降りる。しかしさすがに立ち止まっていることは出来ず、彼は汗ばんだ馬の体を二、三回軽く叩いて、綱を引いて歩きだす。

 だいぶ道を歩んだところで、クルスも肩で息をしていた。道はあるが整っているわけではないのだから無理もない。
 皮の水筒から水を口に含み、それから手のひらに水を出し、それを馬の口元へ寄せる。馬はすぐに水を舐め、飲み終わると黒い瞳でじっとクルスを見つめてきた。
 彼は微笑むと、もう一度水筒から水を出してやる。何度かその行為を繰り返し、再び歩み始めた頃には薄まった霧がさらに薄くなっていた。
 意を決して硝子の鈴を顔に近づけた。ヒビはもう少しで鈴を一周してしまいそうな程儚くなっている。

(いつの間にこんな……まずい、急がないと)

 焦りが募る。彼は汗が目にしみてもそれに気付かないくらい、ただひたすら前進することを考えた。

 そうして、雫が岩の上で跳ねるような微かな音を彼は耳にした。
 ドクリ、と心臓が大きく脈打つ。
 鈴は無情にも砕け散ってしまい、粉々になって光を反射することなく風に舞って消えていく。
 そう、光を反射させずに。

 彼は呆然と立ち尽くした。先程までの明るさが嘘のように、辺りは暗やみに覆われていた。さすがのクルスも、血の気が引いていくのを抑えられない。
 幻聴だろうか、獣の唸り声にはっとして、彼は駆けたい気持ちを堪えて足を早める。馬は少し年老いているのか、クルスの思うように歩いてはくれない。
 その内彼の頬を一滴の雫が濡らすと、それを皮切りにクルスと馬に大粒の雨が降り注ぐようになった。

「……雨か」

 一人呟くと、クルスは額を押さえて渋面をつくる。何か鋭いもので突かれたような頭痛。

――ここで隊を留めることは出来ない……

――恐ろしく巨大な怪鳥の巣窟だということを……

 次々に浮かんでは消える情景。過去と現在がない交ぜになったかのような感覚。クルスはもはや自分の頬を伝うのが汗なのか、雨なのか、それとも涙なのか見当さえつかなかった。
 馬の熱い体と、背負った手紙が自分をここに引き留めてくれているのかも知れないとさえ思えた。

 唐突に木の葉が強い突風にざわめく。凄まじい風を顔面に受け、クルスは反射的に腕で顔を隠した。その僅かな隙間から見えたものがある。絶対に見てはならなかったもの。
 一対の紅い眼。

「《森の王》……!」

 全身が心臓になり、ドクリ、ドクリと激しく体中の血液が暴れだすのが分かる。
 逃げなければ、喰われてしまう。
 だが彼の足はおろか、手の指一本動かすことは叶わない。
 クルスは生唾を呑み、悟る。この恐怖は個人的な感情ではなく、弱者が強者に抱く本能的な畏れなのだと。
 彼は動かない体を一旦放棄し、全速力で脳を働かせることに専念する。

 馬に乗り森を駆けることは真っ先に諦めた。馬蹄が響いてしまうし、この暗闇では先がどうなっているのか予想出来ないのだ。過去の過ちを繰り返すほど彼は愚か者ではなかった。
 馬を引いて今まで通り歩こうかとも考えたが、しかしいざ襲われた時に馬が暴れだしてしまっては、こちらの身が危うい。これは最後の手段だ。
 クルスは眉根を寄せた。頭の片隅にこの馬を近くの木に括り付け、囮にしてしまおうか、という非情な案が誘うように転がっていたが、それにはクルスはどうしても頷けなかった。

 ユエリアの村で馬を他人に貸すのは、妙な行為だとクルスは思った。彼が言葉通りに村へ帰らなければ、村は貴重な馬を一頭失ってしまうのだから。

(――いや、もっと重要なことを忘れている気がする)

 ユエリアはクルスを村へ帰らせないように、初めから鈴が早くに壊れてしまうよう魔力を調節していたのだろう、というのは出発前にロッダから聞かされた推測だ。彼女はクルスが無理に村へ帰ろうとすることを予想しなかったのだろうか。
 しかしクルスはすぐにその考えを打ち払った。ユエリアはきっとこうなることも予想していたに違いないと、彼は確信する。彼女は聡い。
 もう一度最初から考え直そうとクルスは息を吐き出し、その時、ふと気になって馬の方を見た。

 馬は平然としていた。久しい休憩に、鼻息も元通り穏やかなものである。目の前の天敵を恐れずに、だ。
 クルスはその事実に体が脱力していくのを感じた。

(何故、今まで気付けなかったんだ!)

 馬の足は元々天敵から逃れるためのものだ。だのに、何故この馬はこのようにおとなしく立ち止まっているのか。しかも相手は巨大な怪鳥。
 過去の記憶では、馬たちは高くいななき、諫められずに落馬してしまった者もいたはずだった。

 《森の王》が去ったのではないか、という希望と共にクルスは辺りを見回す。しかし確かにあの一対の紅い眼は、爛々と月光を反射して光っている。

(おかしい、鈴はもう壊れてしまったのに――)

 鈴。
 彼は体を一直線に雷が奔ったような気がして、成すがままに今一度馬を振り返る。
 馬の首に、硝子の鈴はない。しかし『土鈴』が括り付けられている。
 改めてみれば、クルスは馬に張りつくようにして立っていた。
 試すように、彼は馬から片手を引き剥がし、片方はそのまま、一歩を踏み出す。次の瞬間風が唸った。クルスは素早く元の体勢に戻る。
 どっと全身から汗が吹き出す。

 つまり、クルスには鈴がない。だから《森の王》が見えてしまうし、《森の王》からもクルスが見える。一方、馬は土鈴――これもおそらくは魔力の籠もった――のお陰で《森の王》から守られ、どうやら《森の王》からも認識されないらしい。
 もしクルスが馬を見捨て、自分一人助かろうとしていれば、彼は間違いなく《森の王》に喰われていた。と、そういうことだろうとクルスは思案したところで、思わず身震いした。

 こうして彼が馬に身を寄せていれば、《森の王》は襲ってこない。

 突破口は、開けた――。