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悲しみの消えた空で 02  










 もともと荷物が少なかったので、クルスの出立の準備はすぐに整った。馬の鼻面を軽く撫でてやると、嬉しそうに押し返してきた。
 ロッダが玄関から騒々しく飛び出してくる。その手には一枚の封筒が納まっていた。

「ホントに行っちゃうの? せめて朝食だけでも食べてったほうがいいんじゃ……」

 とうの昔に成人したはずの宿屋の主人は、歳に似合わず今にも泣きそうな顔でクルスを呼び止める。しかし彼はやんわりとかぶりを振った。

「鈴がいつ壊れてしまうか分かりませんから。すみません――本当はすごく楽しみにしていたんですが」

 彼はクルスの目の前に封筒を突き出す。そして眉を下げて苦笑した。その眼差しは弟を見守るような、親しみが込められたもので、クルスは自然と胸が温かくなっていくのを感じた。

「そう言うと思ったよ。これ、ミシェーナに渡してほしいんだけど、お願いしてもいい?」

 クルスは封筒を受け取ろうとしたが、あと僅かのところで腕が宙を彷徨う。

「もちろん。でもいいんですか? もし僕が村にたどり着けなかったら――」

 俯きがちになっていたクルスは言いかけて、肩にかかる重みに目を見開く。いつの間にかロッダが彼の肩を掴んでいたのだ。

「俺さぁ、クルスさんがこれまで何をしてきたかなんて全然知らないよ。――知らないけど、俺、今のクルスさんは好きなんだ。……あ、やっぱいざ言うと照れるな」

 彼はクルスの肩を軽く叩くと、照れ隠しなのだろうか、封筒を今度はクルスの顔面に勢い良く突き付けてくる。
 彼には自分が記憶を喪失しているとは話していないが、感のいい彼のことだ。もしかしたら薄々感づいているのかもしれない、とクルスは胸中で密かに思った。

「ありがとう、ございます。……行ってきます」

 そうして封筒を荷物入れに加えたクルスの顔に、もう迷いは無かった。



***



 ガーディン王国王都の中枢に、その城は腰を据えていた。石造りだが、石ならではのごつごつとした外観ではなく、よく研磨され四角く整った石を美しく積み上げた城壁は見るものを魅了させた。
 城の周囲には様々な草花や木々が季節ごとに区切られて植えられている。中庭も同じく緑に溢れていることから、民には《緑樹の城》とも呼ばれた。
 決して華やかではない。それは城内も一緒で、豪奢な調度品などは王族の部屋や賓客室にしか置かれておらず、廊下やそれ以外の部屋は素朴だが上品な物がほとんどを締めていた。

 そして普段は穏やかな空気に包まれているこの城も、今は兵士達や侍女達が皆そわそわしていたり、或いは他人に険悪な態度を示したりと不穏な匂いが漂っていた。
 その原因が一様に『異端狩り』にあることは既に誰もが承知している。しかし誰もが原因を表立って話題にしない。

 『異端』に無関係であろうとする、人々の心そのものであった。


 王子の側近であるデュリオンは、短い夜色の髪に、少しばかり灰の混じった翠の瞳を持つ、壮年の男だ。彼は王の寝室に入ると、天蓋付きの寝台の前で片膝をついた。

「アーネルス様、お呼びでしょうか」

 恭しく頭を下げれば、寝台の中央辺りから返る声。

「……あれは、やはり死んだのか」

 真っさらな白いシーツに身を埋めたアーネルス――国王はデュリオンの方を見ず、天蓋に描かれた絵をただその瞳に写して、ぽつりと言った。以前は威厳と自信に満ちていた王の声は、今は弱り切っており、威圧感の欠片もなかった。

「まだそうと決まったわけではありません。実際、狩りから生還している者も、僅かですが存在します」

「もうその報告は聞き飽きた。……捜索はまだ続けているのか?」

「――はい」

 嘘だった。とっくに捜索は打ち切っている。だが、病に臥せている王に真実は告げない。
 他の者には『王の身体に障るため』という理由をつけて口を閉ざさせている。
 王は時折乾いた咳をする。慢性的なものだ。体調の優れているときは起き上がったり、中庭に日光浴をしに身体を動かすが、それもだんだんと回数が減ってきている。この頃は日中も夜もこの広い寝室の寝台の上で過ごすことが常となっていた。

 アーネルスはしばらくの間無言だったが、やがて彼の虚ろな紫の瞳がデュリオンを捕らえた。

「デュリオンよ。これら全てが異端人の仕業だと、城の者は思っているらしいな。異端人は《森の王》さえも自在に操れる、と」

「……」

「しかし……そんなことはこの際どうでも良いのだ。あれのおらぬ今、問題は――」

「もしも、王子がこのままお戻りにならない時は、王位継承者を新たに決め直さなければならない、ということですね」

 王は静かに頷く。
 ガーディン王国の王位継承者は、度重なる王族の急死により、今では現王アーネルスの息子である第一王子しかいない。
 正式に継承されるのは、その者が二十の《陽月》を迎えていなければならず、それ以前である場合はごく限られた人物のみが継承者が誰なのかを知る。特に成人の儀を終えていない王子や王女ではその身分さえも隠され、育てられる。
 十六の《涙月》を迎え成人の儀を済ませた後は、城に仕える者のみが王子や王女を把握する。
 だから、正式な継承の儀を行うまで民は王子や王女の顔を知ることがないのだ。

「私は見ての通りだ。このような身体では……。デュリオンお前、確か養子であったな」

 デュリオンは頭を垂れたまま、僅かに身じろぎする。彼は今は亡き王弟の養子。血筋こそ違えど王族の末席には名を連ねる。

「もしこのまま豊穣祭が過ぎ、《栄月》を越えてもあれが戻らぬ時は」

 再び天蓋を仰ぎ見るように首の向きを元に戻し、淡々と語るアーネルスは自らの髭を梳こうとして、その手を止めた。

「その時はデュリオン、お前が王位継承者を名乗るがよい」

「……、御意に」

 擦れた声音でデュリオンは答えた。
 そうして王の寝室を後にし、彼は長く続く廊下でふと立ち止まり、嗤う。まるで野心という牙をむき出しにした獣のように。
 周囲に人気はない。ここは許された者しか通れないから。
 どうしても王の口から言わせなければならなかった。これでようやく彼の準備は整う。残っているのは翠の異端人達。

「王になるのは、この私だ」

 デュリオンは傾く太陽を背に、ただ一人靴音を廊下に響かせた。