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悲しみの消えた空で 01  










 彼を暗闇から守ったのは、儚い月の光だった。
 それに近づくための鍵は真実を知ることだと。そう、思っていた。
 だが、身体中が張り裂けんばかりに叫んでいる。

 ――――思い出してはいけない。



***



 クルスが宿屋の扉を開けると、薄茶色の目を丸くさせたロッダが出迎えた。
 既に日は暮れていたために、宿屋の中は燭台に光を灯している。

「おかえりー。どうしたの顔が真っ青なんだけど」

「え、ああ……少し歩き疲れただけですよ」

 否定してもロッダは訝しげにこちらの様子をうかがっていたが、クルスが部屋へ戻りたいと言うとその場を退いた。
 笑みは浮かべていたがぎこちなかったのかも知れないという考えが、ぼんやりと頭の片隅をよぎった。階段を上る一歩が鉛のように重たい。

 古い木製の蝶番を捻り、部屋へ吸い込まれるように足を踏み入れると、彼はよろめいて壁に背を預けた。
 肩に提げていた荷物が鈍い音を立てて床に転がる。中身は、ヒアから礼のついでにと渡された壺。何が入っているかは分からない。
 クルスはのろのろと立ち上がり、それをすぐ傍にある机の上に置き、自分はさらに斜め前の寝台に倒れこんだ。
 ひどく眠い。何も考えたくない。
 ふと、伸ばした腕の先に揺れる、硝子の鈴を瞳に映した。

(ああ……ヒビが、…………)

 それは気付くことも危うい程の、僅かなもの。
 どこかで傷を付けてしまったのだろうか、と思う間もなく彼は紫の瞳を閉ざしていった。

 その夜、クルスは夢を見た。
 翠の少女が声もなく泣いている。けれど彼は少女に近づくことも名前すら呼ぶことも出来ずにいた。
 ――出来るはずがない。彼は少女の喉元に剣を突き付け、あの濃紅色の装いで少女を見下ろしていたのだから。



***



 寒気を感じて、クルスは目を覚ました。暖かくなってきたとはいえ、毛布も掛けずに寝れば風邪を引いてしまう程には冷える。
 首だけを動かし、窓の外の、狭く切り取られた空を見上げた。
 真夜中――というわけでもないが、夜明けもまだまだ遠い。星々の煌めきは既に消え去り、薄雲の羽衣を纏う月のみが寂しく佇んでいる。
 刹那、夢の残像が蔓草のようにクルスの心臓を締め付けた。

「ユエリア……僕は……」

 気持ちが悪かった。自分が何者かはまだ定かではない。少なくとも彼の中では。
 神経が冴え切ってしまい、もう一度眠ることは出来そうにない。クルスは暗闇に目を凝らしながら階下の食堂へ向かった。

「あれぇ、クルスさん?」

 声を掛けられて初めて気付く。眠っているとばかり思っていた宿屋の主は、燭台に火を灯し一人で椅子に腰掛けていた。手には種類の違う蔓のような草が何本か握られている。

「ロッダさん。こんな陽ものぼらない内に一体どうしたんですか」

「それはこっちが聞きたいってー。疲れたとか言ってたからさぁ、俺はてっきり昼まで寝てるもんかと」

 話す間も器用に手を動かしながら、ロッダは草を難なく編んでいる。クルスは苦笑して、斜向かいの席に座った。

「ひどいですね。さすがに昼までは寝たりしませんよ。ロッダさんの作る朝食は美味しいですしね。ところでそれは?」

 暗闇に目が慣れてきた頃、ロッダの編んでいる草がそれぞれ種類の違うものだということが分かった。
 余計な思考は、今は広げたくない。彼は目の前にあるもので、心を悪夢から引き剥がす。

「ん? この草輪のこと?」

「はい。ロッダさんが真剣にやっているので」

 思い出せないということは、知らないことなのかもしれない。
 ゆっくりとした瞬きを一つ、ロッダは草を編む手を休めて、テーブルに肘を突いた。

「……。もうすぐ《陽月》の豊穣祭だからねぇ。これは、まぁ何て言うかー、お守りみたいな?」

 《陽月》(ようげつ)、《栄月》(えいげつ)、《涙月》(るいげつ)。ガーディン王国ではこれら三月を一つの軸に捉え、年を数える。
 ロッダは人の良さそうな笑みを浮かべて、豊穣祭に向けて草輪を作っているのだと付け加えた。

「ところでクルスさんて、さぁ」

「はい?」

「あー、何ていうかなぁ。ゴメン……やっぱなんでもないデス」

 もごもごと呟きながら、彼はクルスから目を逸らした。再び編みかけの輪に手をつける。不自然な態度にクルスは首を傾げつつも、それ以上追究はしなかった。
 自分だってロッダに詳しい事情は話していない。彼がどう思っているか分からないが、ロッダも深く関わってこようとはしない。
 そしてクルスは、この浅い関係をどこか心地よくさえ思っていた。

 ぼんやりとロッダの手先を見つめながらクルスがそんなことを考えていると、不意にロッダの手が動きを止める。そこには見事に編み込まれ完成した草輪があった。ちょうど手首に納まりそうなそれを、ロッダは丁寧にテーブルの端へ除ける。
 凝ってしまったのか、腕を伸ばしていたロッダは、小さなため息をついた。

「もうそろそろ嵐が来るんだよねぇ」

「嵐が過ぎたら豊穣祭はその三日後――でしたよね?」

 クルスは少しずつ戻り始めた記憶を確認する。ロッダは静かに頷いた。

「うん、まぁそうなんだけどさ」

「何か気になることでも?」

「いや実はね――――」



***



 窓から差し込む柔らかな光。背の低くなった燭台の蝋燭。
 朝の訪れと共に、街も少しずつ目を覚ましていく。クルスはロッダの話を聞くのに飽きなかったし、ロッダは草輪を編みながら転寝をせずに済んだ、と二人は笑いあう。

「ああ、そう言えば一つうかがいたいことがあるんでした」

「んー、何?」

 クルスは手首を顔の高さに持ち上げ、皮紐で括った鈴を見せる。

「どこでぶつけてしまったのか分かりませんが、鈴にヒビが入ってしまって。直すことはできるのでしょうか」

 ロッダは眉間に人差し指をあてて唸る。斜め上を見上げ呆れたような表情をした後、彼は鈴の真実を語った。

「クルスさんてもしかしてユエリアから何も聞いてナイ? ……あーそっかやっぱり。その鈴は大地の、つまるところユエリアの魔力ね。それが籠められて創られたものだからさー、いずれ壊れちゃうんだよ」

 ロッダによれば、籠められた魔力に耐え切れずに最終的には鈴が砕け散ってしまうのだという。彼女はそんなことは一言も漏らしていなかった。

「もし壊れてしまったら?」

「村に戻るのは止めた方がいいよ。《森の王》にぺろっと食べられちゃうのが関の山だと思う。……ごめん、今の俺じゃ力になれないや」

 宿屋の主人は目を伏せる。ミシェーナの仕草とどこか似ているのは、やはり兄妹だからだろうか。

「クルスさんはこれからどうするの?」

 思案を巡らせていたクルスは、朝の涼やかさとよく似た微笑みで答える。

「もちろん、村に戻りますよ」