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人は謡う 05  









 心は霧散してしまっても、体は残っているらしかった。
 というのは、クルスが感じたことだ。『今』知らない道を進んでいるはずなのに、『昔』通ったような既視感。

(僕は、この街を、知っている)

 胸の高揚が。彼の好奇心が。止まることを許さない。そこかしこで響く売り子達の声など、煩わしくも思わない。クルスには届いていないから。彼は思う存分道を踏みしめた。

 多くの家は木造で、石造りのものは少ない。ただ、屋根の色だけは皆質は違えど鮮やかな青。これは敬意を示すもの。

(そうだ、青は忠誠の色――)

 まばらな大きさで敷き詰められた石畳。赤みを帯びていたり、青みがかっている石がふんだんに使われている。

(この石畳は、街の中央へ向かうにつれて形が整うんだ)

 目を凝らせば見える塔の頂上に、青銅の鐘。人が塔に登るには梯子を伝って行くしかない。

(あれは確か、毎日決まった頃合いになると鳴らされる《時知らせの鐘》だ)

 心臓が誰かに鷲掴みにでもされているのだろうか。息が出来なくなるほどに疼く。
 知っている。この街を自分は知っている。
 そしてふと、彼は思い至る。あの時胸の奥底から沸き上がってきた感情は、きっと懐古。

 そうして、疲れて空腹を身体が訴え始めるまでクルスは一歩も止まることはなかった。
 空を仰げば、やや傾いた陽が水色と溶け合っている。もうじき少しずつ紅くなっていくのだろう。思わず見惚れてしまう。ユエリアもこのやさしい空を見上げているのだろうか。

 そうしていつしかクルスは人集りの壁に歩みを阻まれた。中心部では芸を生業とする者達が派手な演出で観客の足をその場に縫い止めている。踊り子が羽のような軽さで舞い、銀髪の詩人は謡う。クルスも足を休めるついでに耳を傾ける。

『思い出の木漏れ日
 太陽に透ける
 手のひらを

 星は煌めき
 人は謡う
 悲しみの消えた空で

 翠の香り
 存在の証を
 未来に踏み出すために

 たったひとつ
 命
 はかなく咲いている

 ゆりかごのなかで』

 どこか引っ掛かりを覚える謡だったが、詩人の謡声は、水が喉を通る時のような心地よさで、クルスの心を潤した。

 踊り子達の舞いはまだ終わりを見せない。クルスが何気なく彼女らから目を逸らしたその時、どこからか争うような声が売り子の声に入り交じる。辺りを見回し空耳だったと思った瞬間、暗い路地で二、三人の男達に囲われている老人の影がちらついた。ああ、やはり自分は目が良い。
 クルスは人々を掻き分け、躊躇うことなく男達に詰め寄る。怒鳴ってもいないのに、クルスの声はよく響いた。

「そこで何をしている!」

 一斉に男達がこちらを向く。老人は悲鳴を上げてさらに縮こまった。顔色が悪い。

「なんだ、てめェは。関係ない奴ぁさっさと去れや」

「あなた達こそ、そのひとに何の用があるんですか」

 相手は三人。クルスは当然一人。
 奥は暗がりで相手の顔はうかがえない。無駄に筋肉のついた男が進み出る。手首から肘までの短いが重量のある斧を、見た目は軽々と肩に乗せている。
 路地はそう広くない。男はクルスを見下ろすと、品なく嘲笑った。

「邪魔すんなよ兄ちゃん。さっさと失せなっ!」

 言い放ってクルスの首目がけて斧を凪ぎ払ってくる。しかし彼は斧が首に触れるより早く片膝をつき、同時に男のがら空きだった右足に滑るようにして足払いを仕掛けた。
 これは気を逸らすため。クルスは瞬きをする間に詰め寄り、続けて男の胸ぐらを掴み投げ飛ばす。
 体格差があれど、クルスが圧倒的に優勢だった。

 斧は男の手に余る得物だったのだろう。使いこなせなければ邪魔な代物。
 お陰で均衡を崩した男は情けない声をあげ、積み重ねて路地に置かれていた木箱へ激突した。
 箱の中身は空だったのか、はたまた斧が重すぎたのか、上から次から次に降り掛かる木箱に男が埋まりかけた時、ようやく後の二人が駆け寄る。

「さぁ、今のうちに」

 怯えて腰を抜かしているらしい老人を抱き上げるようにして立ち上がらせると、老人の手をとってクルスは来た道を引き返す。
 大通りに出てしまえば、後は人の波に呑まれてしまうだけだ。
 路地からだいぶ離れた場所でクルスが老人を振り返ると、彼女は心底疲れ果てた様子で肩で息をしていた。

「す、すみません。大丈夫ですか」

「……ええ……大丈夫だよ。こっちこそ何てお礼を言ったら、いいか。本当に助かったよ。ありがとう」

 彼女は息を整えると、曲がった腰を数回叩き安堵のため息をついた。
 クルスは辺りを見回し、先程の男達がいないことを確認して老人を家まで送ることにした。

「お婆さん、この街であのようなことは日常的なんですか」

「婆さんはやめとくれ。ヒアでいいから。まぁ、ああいう輩が現れたのは最近だねぇ。まったく、城からの警備が手薄になった隙にこれだよ、だらしない」

 小さな背をさらに小さくさせてヒアは言う。余程身に堪えたのか、目元に険を滲ませて。

「前は警備がしっかりされていたんですね」

 しみじみと頷くクルスを、ヒアは怪訝そうに片眉を跳ね上げる。

「お前さん妙なことを言うね。あまり大きな声じゃ言えないけどほら、この間異端狩りに行った兵士達のほとんどが駄目だったって話じゃないか。それからだよ、警備がぞんざいになったのは」

「異端狩り……」

 瞬間、全身に鳥肌が立つ。頭の中で鐘が容赦なく鳴り響くような感覚。

 ――異端狩り。

 嫌な冷や汗。歪む世界。
 クルスは愕然として立ち尽くす。回る回る、世界が回る。膝が訳もなく泣いている。額を手で覆い、焦点の定まらない彼に、ヒアは慌てて次の角を指差した。

「お前さん、大丈夫かい? どうせすぐそこだから私の家で休んでいきなさいな」

「すみません……僕にもよく分からなくて。その話、良かったら少し詳しく教えてもらえますか」

「助けてもらったんだ、そのくらいお安い御用さ。――それに、お前さんの髪はちと目立つからねぇ……」

 最後の呟きは今のクルスには聞き取ることが出来なかった。
 どの道、休憩も含めて寄り道をする予定だったので、クルスは彼女の厚意に素直に従った。



***



 頭痛はしばらく治まらなかったが、椅子に座り、卓上に用意された温かい茶を少しずつ口に含む内に痛みは遠退きつつあった。
 小綺麗に片付いているそこは、客間なのだろう。だが家自体は質素だった。ユエリアの村の家々と異なる要素は、ただ屋根が青いかそうでないかだけ。他は、細部は違えど似たような造りだ。
 隣の部屋からヒアが戻ってきた。その手には漆塗りの壺が大事そうに納まっている。

「痛みの方は?」

「もう大丈夫です。おいしいお茶まで、ありがとうございました」

 心配そうに訪ねるヒアに、クルスは柔らかな笑みで応じる。すると彼女は安心したように尚一層皺を深くした。

「そうかい。じゃあ、礼の代わりにお前さんのお望みの話でもしようか」

 彼女はそう言って自らも真向かいの席につく。壺は卓上の隅に寄せる。

「何から話せばいいかい?」

 思案したのは一瞬で、後は勝手に口が動いていた。

「兵士達を、……狩りに向かわせたのは国王ですか」

「たぶんね。でも庶民は政に関わることは無いから、風の噂ってやつさ。あまり確証はもてないよ」

「それでもいいんです。では、何時行われたんでしょうか」

 それには、ヒアは天井を仰いで唸った。しばらくして月が二回満ちる前だと返ってきた。
 クルスが立てた仮説は、ほぼ成り立つ。後は。

「兵士の特徴などはありますか」

「そりゃあるさ。紺碧の服に肘上までの白い手袋。誰もそんな格好しないから遠くからだって見分けがつくよ。いくら警備が粗くったって、ここよりもっと中心部へ行けば一人か二人は見つかるだろうね」

「濃紅色というのはいませんか?」

 あと一歩で真実に辿り着けそうなのに。クルスは焦れたように聞き返す。ヒアは気分を害した素振りは見せない。ただ妙なものを突き付けられてきょとんとした様子だ。

「濃紅色なんて……兵士は着ないに決まってるじゃないか」

 では、ユエリアが言っていたのは嘘だったのか。彼女が嘘を。それとも、クルスの仮説が的外れなのか。きっとそうなのかも知れない。そうであって欲しい。心の片隅で矛盾が渦巻く。
 黙り込んだ彼にヒアは肩を竦めて、息を吐き出すように一言、呟いた。

「その色は王族のものだからね。庶民や普通の貴族が身につけていいものじゃない。お前さんそんなことも知らないのかい?」