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人は謡う 04  










 長い間さらされなかった強い光に、クルスの視界は白く白く焼けた。
 森を抜けたのだ、とクルスはその時になってようやく理解する。

 空は一面の紅。遥か遠く東の空などは、もう藍色に染まりつつある。出発した頃は夜が明けて間もないというのに、山を下りれば見事な夕闇だ。
 しかしユエリアのふるった大地の力を思い出せば、これもそれほど驚くことでもないような気がして、クルスは首を傾げるだけに止めた。

「さて、街はどちらか……」

 一人ごちて、彼は馬から降りる。落ち着かせるように頭を撫でてやると、馬は鼻を鳴らし、クルスの背をその鼻で押す。まるで彼を急かすように。
 辺りを見渡すと、それほど遠くない場所に、城の尖塔と思しきものが目に止まる。ここまではミシェーナに聞いていた通りである。
 整備されていない砂利道を歩けば、程なくして人々の賑わう音が聞き取れるようになった。彼は一度大きく息を吸い、それから早足でそちらへ向かう。

 この国唯一の城下町であるにも関わらず、門は大きな口を開けてクルスを飲み込んだ。街並みは闇で閉ざされかけているのでよく分からない。しかし中心に向かう程灯りがつけられており、人々も誘われるようにそちらへ足を運ぶようだった。
 陽が登った明日になればまた違って見えるのだろう。

 クルスは底から沸き上がる感情が何か分からない。だが分からないのなら、分かるようになるまでだ。彼は予めミシェーナから渡されていた地図を頼りに、宿屋を探す。だんだんと道が狭くなっていくものだから、馬は少し不満そうだった。

「おや、見かけない顔ですねえ」

 紙面と睨み合っていたクルスは、覚えのない声にふと面を上げる。五歩とも離れていない場所に立つ、柔和な笑みを浮かべた男。歳はクルスより若干上か。
 クルスは腕に括り付けていた鈴を見せ、答えた。何度も彼女が言い聞かせたこの言葉。

「はい。大地の加護を授かりに来ました」

 すると男は心底驚いたような顔をして、続いて薄茶の前髪を掻き上げる。

「へぇ……アンタ俺達の村のこと知ってるんだ。暗号が通じるなんていつぶりだろ。いやー、正直声かけるか迷ったんだけどさぁ。あ、泊まってくよね?」

「よろしくお願いします。クルスといいます」

 男はミシェーナの兄で、この城下町で宿屋を営んでいる。そこで男――ロッダと名乗った――は、すかさず肘でクルスのわき腹を突いてきた。

「で、その鈴誰からもらったの?」

「これですか? ユエリアからいただきましたよ。…………ロッダさん?」

 隣を歩いていたロッダが急に立ち止まってしまったので、クルスは不思議そうに眉を上げる。ロッダはあー、だのうー、だのひとしきり唸ってから、ようやく口を開いた。

「いや、え、ホントにあのユエリアから?」

「同じ名前の方が他にもいらっしゃるんですか?」

「いないよ、いない。そっか、あのユエリアがね。元気そうだった?」

「いつも僕に怒っていたみたいですから、元気だと思いますよ」

「あははっ、そりゃユエリアらしいね」

 陽がだいぶ落ちてきた所為もあり、辺りは薄暗い。ロッダが先行して右へ曲がり、手招きをする。
 彼の軽やかな身振り手振りは、初対面の者の心をどこか柔らかくする作用があることを、クルスは身をもって感じていた。加えて最初を除けば砕けた口調にも気取らない親しみが籠もっている。

「元気なら良いんだー。俺、ちょっと気になってたし。……あ、ここ俺の宿ね。ちょっと待ってて」

 ロッダはクルスから馬を引き取ると、慣れた手つきで隣の厩にに誘導する。
 そのまま宿屋の軋む扉を押し開き、大急ぎでカウンターに着く。それらに呆気に捕われながらも、クルスはゆっくりと足を踏み入れた。

 宿自体、建てられてから相当な年月を経ているのだろう。薄汚れた石造りの壁の隙間を縫うようにツタが数本絡み付いている。
 しかし古びた見た目とは裏腹に、内装は思いの外良く整っている。全体的に白色で統一されており、清潔感がある。鼻孔をくすぐる芳香も小さな野花を思わせるもので。
 クルスが扉を閉め終えると、弾いたような威勢の良い声が降りかかる。

「いらっしゃい! お客さん、一名様で?」

「どうしたんですか急に」

 カウンターから身を乗り出していたロッダが、文字通り肩を落として台に伏せ、かと思えば予想しない早さで顔を上向ける。ミシェーナと同じ薄茶の瞳が、恨めしそうな半眼でクルスを映す。

「どうって。あーもーノリ悪いよクルスさんはー! やっぱお客さんを一番におもてなしするのが宿屋の主人ってもんじゃない? といっても俺一人しかいないんだけどさ」

「そう、ですか。それは悪いことをしました」

「いやいや、大体皆そういう反応だから慣れてるんだけどさー。……ま、そんなワケですから気にしないで。お部屋にご案内いたしマスネー」

 ロッダは歯を見せにやりと笑う。それは到底年齢に似合わない無邪気なもの。クルスもつられるようにして頬を緩める。
 これらが一連した宿屋の主人の意図した狙いと気付かされたのは、クルスがベッドに入り、明日の予定を思い描いていた時だった。



***



 翌朝、窓から柔らかく差し込む陽光で目覚めると、クルスは身なりを整えて部屋を出た。
 部屋は二階にあるため、朝食をとるには階段を下りなければならない。

「おっはよー。早いんだねえクルスさんて」

 釜戸から手作りであろうパンを、専用の金具を使い取出しながら、ロッダはもう片方の自由な手を振った。

「おはようございます。ロッダさん」

「良ーく眠れた?」

「はい。思ったより身体が疲れていたようで。お陰で深く眠れましたよ」

 昨夜と同じく歯を見せてロッダは笑った。

「それは非常によろしいねっ」

 一階の食堂では、既にロッダが朝食の準備を始めていた。二つある木製テーブルの内、窓に近い方の席につく。
 次々にテーブルが彩られる。焼きたての端が少し焦げたパン。新鮮な生野菜には香り付けの薬草が天辺に添えられている。白い湯気がほんのり昇るスープ。見た目も匂いも香ばしいのは薄く切った炙り肉だ。
 ロッダは料理を二人分並べ終えると、自分はクルスの斜向かいに陣取った。

 よく観察すると、料理に使われている材料がユエリアの村と微妙に異なっている。干していない生の肉を炙ったものがあるが、これもその一つだろう。
 村では肉自体貴重なものだったし、日持ちがするよう干して塩漬けにされていた。

「そういえばロッダさんは何故、一人でこの宿屋を?」

「んー、何でだろう。俺昔から爺さんっ子でさー。気付いたら爺さんの後を継いでたみたいな感じ。お客さんもそれなりだし楽しくやってるよ」

「そうなんですか。ところで、良かったらこの街について教えていただけますか」

 ロッダはひょい、とパンの欠片を口に運ぶと、それを水で流し込む。

「あれ、クルスさんてこの街の人じゃないんだ?」

 クルスは静かに頷く。それきり事情を探る様子などは特になく、ロッダは様々なことを彼に話してくれた。
 街のどの辺りにどんな露店が開かれているか。迷わないために目印を決めることや、店での値引き交渉法。城の兵士や騎士が民の憧れの的だとか、最近流行っている噂は何か。

「後は……あ、城の近くには行かない方が良さげだね。ピリピリしてるんだ」

 不味いものでも口に入れてしまったようにロッダは顔をしかめた。

「ピリピリ?」

「ああうん、苛々してるっていうか。いつもはもっと穏やかなんだけどね。まぁ、お城のお偉いさん方の事情なんて俺らにカンケーナイナイ」


 朝食を終えると、クルスは支度を整えて宿屋を出る。驚くことに金銭的な問題はあまり気にしなくても良い程、それらをユエリアから受け取っている。
 クルスは目を細め、外套を羽織ると思うままに街を歩き始めた。