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人は謡う 03  










 濃い、森独特の木々の香りを、湿気を帯びた霧がやんわりとクルスに伝える。この国特有の気候だからというわけではない。この辺りの土地一帯が特に深い霧に覆われているのだ。
 強弱の差こそあれど風は時折吹き抜ける。が、視界が晴れることは無い。

(何か特殊な霧なんだろうか)

 それでも彼を乗せた馬は迷うことなく山道を進む。彼は馬に全て任せていた。それが出発前のミシェーナからの指示だったから。

 クルスはもう一度、ユエリアが去ってから現れたミシェーナとの会話を思い出していた。



***



 ユエリアにはミシェーナがこちらへ近づいて来ていたのが見えていたのだろう。「後はミシェーナに必要なことを聞いて」と残して唐突に彼女はその場を去った。
 多分彼女は、怒っていた。クルス自身に。近づくなと言われたユエリアを抱き寄せて、あまつさえ拒絶も許さなかった。彼女にとってその行為は耐え難い屈辱でしかなかったのだろう、とクルスは苦笑する。

 何やら複雑そうな表情でクルスを見上げてくるのは、この村で彼に臆せず接してくる数少ない一人、ミシェーナだ。彼女は少し頭を下げる。

「クルスさん、おはようございますと言いたいところなんですが」

「はい、何でしょうおはようございます」

 お互い妙な挨拶を交わす。ミシェーナの出で立ちは薄い寝衣に、厚手の肩かけを羽織っただけの簡素なものだった。普段高くで一つに結っている髪も、下ろしたまま。おおよそ寝起きなのだろう。
 ゆっくりとした口調で、ミシェーナはクルスに問うてきた。

「クルスさん、ユエにまた変なコトしませんでした?」

「変な、とは」

 そこで彼女はまたしばらく考え込む。

「んー、だから、ユエが苦手そうなことですよう」

「触れ合うことは苦手なんですか?」

「はあ、触れ合うことですか。…………触れ合う!?」

 今までの口調から一転、ミシェーナはクルスに掴み掛からんばかりの勢いで間を詰めてきた。

「ふ、触れ合うって、触れ合うって! 一体あなたは何をしたんですか!?」

「そんなに連呼されるようなものじゃ……」

「いいから私の質問に答えてください!」

 こうなると彼女はしつこい。クルスは頬を掻きながら、先程までのユエリアとのやり取りをミシェーナに話した。彼女は話が進むにつれ顔を険しくしていく。

「――で、そこにあなたが現れたんですよ、ミシェーナさん」

 ミシェーナは、どこか思い詰めたように眉根を寄せている。深い溜め息を吐き、意を決したようにクルスを見上げてきた。

「クルスさん、もうこれ以上あの子をからかわないで下さい。私だってこんなこと言いたくないですけどっ。でも、この際言いますから! あなたユエの気持ちを少しでも考えてるんですか」

 その言われように納得がいかず、クルスは感情のままに勢いをつけた。

「ええ、いつも考えてますよ」

「だったら!」

 言葉は吠えるように、噛み付くように力任せ。しかしミシェーナの四肢は、僅かだが震えていた。朝の凍えなどではなく、やり場のない怒り。クルスは本能的にそれを察知した。

「だったら、あの子の両親がいないこともご存知なんでしょう!? ユエは怖いんです、自分の周りから誰かがいなくなるのが。ましてやあなたは今、記憶がぶっ飛んでるんですよ。もし記憶が戻ったとして、それでまた今まで通りに行きましょー、なんて都合良く出来るもんですか! そんなことでユエが傷つくのなんて私は見たくない! それにっ、それにユエリアはあなたのことを――」

「ミシェーナ」

 突如割って入った声に、ミシェーナの唇が悔しげに閉ざされる。彼女の視線を追って彼が振り返ると、去ったはずのユエリアが馬を引いてこちらに足を向けていた所だった。
 馬の首に太い縄で括り付けられている土鈴が、場違いな穏やかな音色を弾ませる。

「……ユエ……」

「もういいのよ、ミシェーナ」

「でも、」

 尚も食い下がるミシェーナに、ユエリアはただ静かに首を振る。込められていた力が解け落ちたのか、ミシェーナは拳を緩めた。
 馬を引きながらクルスの隣に並ぶも、翠髪の少女は彼と一切視線を合わせない。白い頬は硬い表情のまま凍りついている。

 陽が幾分か姿を見せる。朝日に彩られていた空は早くも蒼く遠く広がっていく。風を纏う森から、小鳥達が一斉に飛び立つ。

「ミシェーナさん、ユエリア。鳥達は何故ああも自由に空を舞うのだと思いますか」

 二人の驚いたような、奇妙なものを見るような表情が可笑しくて、自然クルスは笑みを深める。優しい、やさしい、笑み。

「帰る場所があるからだと、僕は思うんです」

「……それで、分かってるの? あんたの帰る場所は、本当は此処じゃない」

「分かっています」

 断言だった。
 クルスは、だから帰るべき場所を思い出しに行くのだ。
 簡単に物事が進むとは考えにくい。だから。

「ただ――鳥は枝無しでは生きていけません。僕は、この枝が好きなんです」

 我ながら勝手だとクルスは思う。けれど彼は言わなければならなかった。
 ミシェーナはユエリアの様子を窺っているようで、こちらを言及することはないようだ。

「……好きにすればいい」

 吐き捨てるように。ユエリアの返事は、ただそれだけだった。



***



 彼はぼんやりと意識を持ちなおす。今朝のやり取りを振り返っていただけなのに、随分長い時間が経ったような、そうでもないような妙な感覚がだけが残る。

 片腕の手首に紐で括り付けた冷たい硝子の鈴と、馬の首に吊り下げられた土鈴の音。馬から伝わる温もりと振動。湿った森の香り。今はそれだけが彼の世界の全てだった。
 時の流れもまるで分からない。辺りは変わらず深い霧と、それらに包まれた木々。まるで何かを阻むように途切れることはない。

 暇を持て余すクルスは、出発の際にユエリアとミシェーナから渡された品々を順番に数えていった。
 国の硬貨、手描きの宿屋への詳しい地図と街全体の大まかな地図、それから――

 光が刺すように注がれる。クルスは反射的に腕で顔を覆う。
 突然、視界が晴れたのだ。