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人は謡う
二日後の朝だった。
ユエリアは質素な朝食を済ませてから、少し離れた場所にある、なだらかな丘の上に建つ親友の家を訪ねることにした。
小屋の外で作物に水やりをしていたミシェーナは、珍しいものでも見るように茶色の瞳を瞬かせる。
対してユエリアは表情を動かすこともせず、ミシェーナが何かを言う前に口を開いた。
「おはよう、ミシェーナ」
「あ、おはようユエ……ていうかあんた、何か怒ってる?」
ユエリアは無表情だった。しかし、長年付き合いのあるミシェーナは、その奥に潜む僅かな怒りに気付いていた。
「ミシェーナ、これお願い」
両手に抱えていた外套を、ユエリアは親友に半ば無理矢理押しつける。
「は? え、ちょっと待ちなよ!」
すぐに踵を返してこの場を去ろうとする少女の肩を、ミシェーナは咄嗟に掴んだ。ユエリアの進行を妨げるように先回りし、ミシェーナは立ちはだかる。
彼女は渡された外套をユエリアに突き付けた。
「これ、あんたのじゃないね。大きいし。あたしにどうしろって言うのよ」
「クルスのなの。それミシェーナから返しておいてくれない?」
ユエリアはどこか困ったような、疲れたような表情をして片手を腰に当てた。ミシェーナにはさらに訳が分からない。
「何で? ユエから返したらいいじゃない」
「あいつと顔会わせたくないの」
ユエリアは決まり悪そうに長い睫毛に縁取られた翠の瞳を伏せる。彼女がそのような態度を見せるのは、滅多に無い。
「あんた……二日前からあたしにクルスさんの食事当番頼んできたけど、まさかそんな理由?」
「…………」
ミシェーナは、彼女の沈黙を肯定と受け取った。まじまじとユエリアの瞳の奥を覗き込み、外套を持ったまま腕を組む。
「クルスさんと何かあったわけ?」
「別に、何も」
「あんたは無いって言い張るだろうね。そういう性格だもん」
これだから、ミシェーナに隠し事が通じないのが痛い。ユエリアは諦めたように肩を竦めた。頬を撫でる風がユエリアを慰める。
「とりあえずウチに入りなよ。長話するにしても、まず冷えを避けないとね」
有無を言わせないミシェーナに腕を掴まれて。ユエリアの微々たる抵抗も虚しく引きずられる形で彼女の小屋へ招かれた。
***
ミシェーナには家族が多い。だが今は両親とすぐ下の弟が王都へ出稼ぎに赴いており、兄はすでに王都で自立して暮らしていた。
《涙月》の季節は、ミシェーナが一人村に残り作物の世話をするのが、いつしか常となっていた。
ユエリアの家よりもだいぶ広いそこは、だが、立ち並ぶ棚や居間の真ん中に陣取る丸く大きな食卓、部屋の隅の所々に置かれている壺などがある所為か、実際にはさほど広々とした空間ではない。寧ろそれらによる圧迫感で窮屈と感じるほどだ。
ただ、生活臭の漂うそこが、ユエリアには居心地の良い場所であり、また羨ましくもあった。
席を勧められ腰を下ろしたユエリアは、二日前の出来事を淡々とミシェーナに語る。
クルスが今、過去と現在の間で揺れ動いていること。彼が王都に行きたいと言ったこと。王都へ赴いたとしても、またこの村へ帰ってくること。そして、あの夜クルスが放った最後の言葉も――。
ただ、それらの話があまりにも呆気なく終わってしまったため、折角ミシェーナがいれてくれた香りの良い茶も、まだ半分以上残っている。
食卓を挟んで正面に座っているミシェーナは、何やら非常に複雑そうな顔をしていた。視線はユエリアを素通りしてその奥の窓に向けられている。
彼女は今にも溜め息を吐きそうな声音で言った。
「それで、ユエはその後何て返したの?」
「分からなかったから、何も」
分からなかったのは、嘘ではない。ユエリアは茶を一口啜り椅子の背もたれに身を預けた。不思議と先程までの苛々とした感情は収まり、すっかりと心は落ち着いている。
「で、あんたはそのまま家に帰ったのね。それで気まずくなって、あたしに食事当番を押しつけた挙げ句、今日になってクルスさんに外套を渡してくれ、と」
「お願いよ、ミシェーナ」
意識した訳ではなかったのだが、ユエリアは上目遣いでミシェーナに懇願していた。
滑らかできめ細かな肌。瞬きをする度に長い睫毛が良く分かる。鼻は小さく、だが形は整っている。頬よりも鮮やかな桃色の唇は、いつも艶やかで。腰辺りまで伸びた翠髪は、触れれば柔らかく、気持ちが良いのだ。
ユエリアは同性であるミシェーナから見ても、美しかった。容姿にあまりこだわらないユエリアは曖昧にしか受け止めていないが、その美貌は時に武器となる。
勝手に頷きそうになる体をどうにか抑えて、ミシェーナは厳しく彼女を叱る。
「――駄目よ。ダメダメ! 全く、馬鹿らしくなってきたわ。服ぐらい自分で返しなよ?」
抱いていた希望にあっさりと打ち捨てられ、ユエリアは恨めしそうに目を半眼にさせた。しかし覆されない答えにユエリアは諦めて従うことにする。
「……分かったわ」
「ちゃんと、自分で、手渡しで、返すのよ」
ミシェーナは打ち終えた釘をさらに埋め込むように、一言一言を強調する。これも、普段の成り行きだった。
辺境の村中で、二人は姉妹同然で育ってきたのだということ。またミシェーナがユエリアを妹のように扱うのは、ユエリアが両親を亡くしてから、さらに強まった。
少し温くなってしまった茶を一口、二口と味わい、ユエリアは過去を振り返ろうとする思考を閉ざす。これは、今思い出しても埒が明かないのだ。
真正面に座っているミシェーナは、茶の水面をしばらくぼんやりと見つめていたが、意を決したように翠髪の少女を瞳に捉える。どこか闇を湛えた目。
「それであんたは――クルスさんを王都へ行かせるのね?」
ユエリアは静かに頷いた。
***
夜明けの、ほんの少し手前だった。行き止まりなどどこにも見当たらない、突き抜けた深い藍。太陽が遠くの山からうっすらと現れたかと思うと、まばゆい光と共に空を薄紅に染め上げる。
冴え渡る大気。植物達に託された夜露。凛とした世界の中で、ひっそりと漂う甘い香りが鼻をくすぐる。
ユエリアは村の入り口付近で、柵を背もたれにしてクルスを待っていた。
それなりに日数はかかったものの、王都へ向かうための準備は整った。本人に知らせているので、後は彼を見送るだけという時になって、ユエリアは妙な緊張感を覚える。
外套を彼に返しに行った時もそうだったのだが、不思議と心が定まらずにいた。とはいえ、原因は一つしか考えられないのだが。
「すみません、遅くなってしまいました」
耳に馴染んでしまったその声は、すぐ近くから聞こえた。クルスは、手を伸ばせばユエリアに届く距離に立っている。
「……別に、あんたが思ってるほど待ってない」
彼女は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐにクルスを見上げる。柵に預けていた背中をピンと伸ばす。
そんな少女の仕草を、目を細めて眺めていたクルスがふいに頬を緩めた。
「嘘を、」
彼は、儚い花びらに触れるかのようにそっとユエリアの頬を撫でて。
「ついていますね?」
ユエリアは動かない。ただその濁り無き翠の瞳を大きく見開いている。
やがて唇がほんの僅か薄く開いた。
「あたしが嘘を? ……根拠がないわ」
「ありますよ。あなたの頬は、今こんなにも冷たいです」
「いつもの事よ」
「いいえ」
彼はかぶりを振って、頬に触れていた片手を優しく顎の下へ、喉の辺りへと順に滑らかに下ろしてゆく。
その行為に、ユエリアはまるで悪夢から目覚めたかのようにはっとして身を強ばらせる。
「いいえ。ユエリア、脈も速いですよ。やっぱりあなたは嘘をついています」
それは、師である薬草師が病人に対してよく行なっていたものだった。
訝しげに彼女は眉をひそめる。
「何でクルスがおじさまの技を」
「ユエリアが寝込んで目を覚まさなかった時に、薬草師に教えて頂いたんですよ。その時に測り慣れていますからね、あなたの脈は」
要するに、クルスは彼女の正常を知っており、また触れ慣れているのだ。
屈託の無い笑みを浮かべる彼は、そう言ってユエリアの首元に触れていた手を離した。そして、ふと彼は首を小さく傾げて。
「あの、ユエリア?」
再び俯いてしまったユエリアを不思議に思ったのだろう。
当のユエリア自身は、だいぶ狼狽していた。頬が無駄に火照る。せっかく順序立てていた思考が空回る。
クルスは物腰が柔らかで、表情も常に穏やかな方だろう。しかし案外、強引だったり他人に流されにくいといった内面性も、この短い期間にユエリアは感じていた。
彼女は生唾を飲み込み、無意識の内に利き手を強く握り締める。と、その中に硬く小さな存在を認めて本来の目的を思い出す。
そう、今日はクルスを王都へ送り出すために、わざわざ早朝から待ち合わせていたのだ。ここでまごついている場合ではない。
「何でもないわ。で、本題に入るけど」
「王都へ行く道について、ですね」
「そう。あんたがここから普通に馬に乗り、王都へたどり着くには、まあ……だいたい三日はかかるわ」
彼が少しだけ困ったように眉根を寄せたのに彼女は気付いた。ユエリアは片手を前に突き出し、人差し指だけを真っ直ぐに突き立て、クルスの顔面付近でちらつかせる。
「でも、あんたが望むなら一日で王都へ行く事もできる」
「どういう事ですか?」
少女は今度こそクルスから視線を逸らさずにいた。彼もユエリアの瞳を真摯に見返す。
桃色の唇から言葉が零れ始める。
「どういう事か教えてあげる。あたし達が何故、『異端』と呼ばれているかも含めて――」
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