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星は煌めき 02  










 この男が傍にいると、自分はあまり理性が働かなくなる。
 ユエリアは無意識にそう理解していた。だから、早くこの場を離れなければ。

 一歩踏み出そうとして。
 ぐらりと世界が揺れた。視界があっという間に群がる黒で埋め尽くされ、膝の力が抜ける。
 ユエリアは地面に崩れるようにして倒れた。草の葉が衝撃を緩和してくれたお陰で、痛みを感じることはほとんど無い。

「ユエリア!?」

 斜め後ろで固まって彼女を凝視していたクルスが、慌てて腰を浮かせる。傍まで寄ってきて片膝をつき、ユエリアを上から覗きこんでいる。

「一体何が……?」

 仰向けになったユエリアに、太陽が嫌味のように肌に日射しを突き刺した。つまるところの原因はこれだ。

「ただの貧血よ。日に当たり過ぎたの、かもね……。ああ、気にしないで。よくあることなの」

「いいえ気にします! とにかく、日陰で一度休みましょう」

 彼は言うが早いか、片腕をユエリアの脇に差し入れ、もう一方の腕で膝の裏を支え、抱き上げた。
 彼女は眉根を寄せたが、その腕が想像していたものより安定していたため、飛び出そうとする言葉を喉の奥に押し込める。

 普段外出する場合、彼女は頭まですっぽりと覆えるフード付きのローブを羽織る。しかし今回はすぐに家に戻る予定で、ローブを着ていなかったのだ。

 木漏れ日が地面に斑点模様を作っている。すぐ傍で頬を撫でる風は、霞んでいた思考を冴えさせるように冷えていた。
 近くに生えていた木の根元で、二人は再び座る。彼女は幹に寄り掛かったまま黙っていた。クルスも落ち着かない様子でいたが、押し黙っている。
 しかしこのような沈黙は、二人の間では珍しくない。

「もう戻るわ……ありがとう」

 結局ユエリアはしばらくして貧血が治まると、足早に家に帰ってしまった。




***



 その夜。
 太陽の隠れた暗闇の世界では、下弦の月がくっきりと姿を現わしている。星は煌めき、瞬いては自己の存在を主張する。

 クルスは薬草師の小屋で毎晩過ごしていた。薬草の漂わせる匂いにも慣れてしまったもので。
 彼はいつも寝るまでの間を、借りている部屋に一つだけある窓から、夜空を眺めている。この広く果てしない空。かつて記憶を失う以前にも、見ていた空は同じなのだ。

 しかし今日は、どうしてもユエリアのあの言葉が忘れられないでいた。
 彼女はひたとクルスを見つめて。

『あたし達を、』

 冷たいとも温かいとも感じられない、無感情な声音で言い放った。

『殺しにきたのかもね』

 だが今は、感傷に浸っている場合ではない。
 彼は頭の奥底で感じていた。村人の態度はどこかよそよそしい。否、何かを怖れていると表現した方が良いかも知れない。
 そんな考えは、自分の思い過ごしではないのか。これまではそう思えた。しかし、今日ユエリアと話して彼の疑いは尚一層深みを増す。

 この村と自分は、何か関係があるのではないか。

 クルスは窓枠に乗せていた肘を折り曲げ、腰を屈めて顎をその拳の上に納める。そうすると、窓の外に広がる景色がより眺めやすくなるのだ。
 とはいえ、実際は頭ばかり働かせているため、外の様子など微塵も気に掛けてはいなかったのだが。

 いつだっただろうか。夜の闇に、見慣れた翠が映る。翠髪はこの村に何人か居たが、あのように鮮やかな色をもっている者を、クルスは彼女しか知らない。

 クルスは寝台の傍に畳んでいた外套を素早く掴み取り、考えるよりも早く小屋を飛び出していた。



***



 ユエリアは結っていた髪を解き、通り過ぎてゆく冷たい風に遊ばせた。風が止むと、髪先は彼女の腰辺りにゆらり、と流れる。
 夜は身体の負担が軽減される。だから彼女がこうして時々暗闇を散策するのは、習慣であって。決して特別なことではない。

 ユエリアは背後を振り返った。

「あんたも散歩?」

 十歩程離れた場所で、クルスが立ち止まる。彼は今し方走っていたのだが、ユエリアに追いつく前に、彼女が彼の気配に気付いたのだ。足音が荒かったので気付くなと言われる方が難しい。

「いえ、窓からあなたの姿が見えたので……」

 彼はどこか言い辛そうに頭を掻いた。それでもゆっくりとした歩調でユエリアの隣に並ぶ。

「理由はどうでもいいんだけど。あんた、いつから見てたの」

「? あなたを見つけたのは今さっきですね。ちょうど窓から見える範囲内の一瞬でしたが」

「……そう」

「ユエリアこそいつから外出していたんですか? 風邪、引きますよ」

 確かに、気候は穏やかになってきたが風の冷たさは基本的に変化に乏しい。
 彼女はついに歩くのを止め、こめかみを押さえて大儀そうに溜め息をつく。

「あんたには関係ないでしょう」

「あります」

「どこが」

「それは……その、ユエリアはあまり身体が丈夫ではない方でしょう?」

 言い淀んだのも束の間、クルスは実に的確に彼女の脆さを口にした。ユエリアも負けじと言い返す。

「ええ、そうね。でもあんたに気を遣ってもらわなくても、あたしのことはあたしが一番良く知ってるわ」

 乱暴に吐き捨てる。ユエリアは大股で歩みを再開した。クルスは懲りずにまだ追ってくる。彼女は忌々しげにクルスを一瞥したが、彼は怯むことなく黙って後をついてきた。

 高く涼やかな音が、夜闇に静かに響く。ユエリアは硝子で出来た鈴を、腰の辺りに括り付けていた。大きさは親指の爪程で、月光を淡く映し込んでいる。
 彼女はそれにそっと触れたが、やや首を傾げ、新たに歩きだす。やがて村を一周しそうになった頃、根負けしたらしいクルスが声をかけてきた。

「ユエリア、まだ帰らないんですか」

「そんなに帰りたいなら一人で帰ればいいじゃない」

「僕はあなたのことを言っているんです!」

 彼はそこで語尾を荒げた。ユエリアは不思議そうに斜め後ろにいたクルスを見る。彼はしっかりとユエリアと視線を結ぶ。あまりにも強すぎて目を逸らすことが出来ない。
 刹那に苦笑を漏らしたクルスの意図が掴めない。苛立ちが募る。
 彼は夜風に吹かれている、ユエリアの腕を掴もうと手を伸ばして。

「ほら、手だってこんなに冷たくなって――」

「触らないで!!」

 ユエリアは思い切り彼の手を振り払っていた。明確な拒絶。酷く傷ついた様子の彼の表情。
 途端にユエリアは後ろめたさに苛まれる。別に、ここまですることは無かったのだ。が、現実はこの有様だ。

 ユエリアは数歩進んだ所で立ち止まり、前を見据えたままぽつりと言葉を零す。

「……聞きたいことがあるんでしょう。あたしに」

 クルスは息を呑む。それは空気を伝い、ユエリアにも届いた。
 クルスは再び彼女に並ぶ。足取りは思いの外しっかりとしている。

「あたしを見て走って来たのも、ここまでずっとついてきたのも、全てはあたしから聞き出したかったから」

「っ、それは違います! 僕は、」

 ユエリアが図っていたように遮る。

「で、何を聞きたかったの?」

「…………。聞きたかった、というよりは、言いたかったのかも知れません」

 彼女は黙って先を促した。クルスも一つ頷き、心を落ち着けるように深く息を吸い込む。

「これは僕の仮定に過ぎませんが……。あなたが以前話してくれましたね? あの森を抜けると、王都があると」

 クルスは確かめるように一言一言に重みを乗せた。それから彼は何を思ったのか、自分の着ていた外套を脱ぎ、戸惑っているユエリアにそれを羽織らせる。
 ユエリアも先程の態度を思い返し、いきなり払い除けるのはさすがに気が引けた。

「あの森と王都の間に他の村は存在しないそうですね。薬草師に聞きました。ということは、僕は記憶を失う前に、恐らくここを目的地として馬を駆っていた。そして何らかの拍子に崖から馬と共に落ちてしまったのではないか、と」

 一陣の突風が駆け抜けた。ユエリアは外套が飛ばされてしまわないよう、裾を胸の前でかき抱く。
 肌に痛い程の、冴えた風。

「僕を、王都に行かせてください。そこに手掛かりになるものが、きっとあるような気がするんです」

「あんたが望むなら、どこへでも行くといい。あんたは最初から自由なの」

 そう、彼を縛るものは何も無いのだ。ユエリアは指先が白くなっているにも関わらず、さらに裾を掴む力を込める。
 しかしクルスは僅かな微笑を浮かべ、次に彼女を唖然とさせた。

「でもユエリア。記憶が戻ろうと戻るまいと、僕はまたこの村に帰ってきますよ」

「何を、言ってるの?」

「今ユエリアが言ってくれたじゃないですか。僕は自由だ、って」

「まあ……確かに言ったけれど」

 一体何故彼がそこまでこの村に執着しているのか、皆目検討がつかない。突拍子もない彼の宣言に半ば呆れつつも、ユエリアは平常心を取り戻しかけていた。
 だのに。

「それに、ここに居ないとユエリアを知ることは出来なくなるでしょう?」

 彼はいとも容易くユエリアの安らぎを打ち砕いた。俯き気味だった面を、ユエリアは弾かれたように上にやる。一瞬遅れて、彼女は一歩後ずさった。その拍子に硝子の鈴が揺れて、儚い音が鳴る。

 絡まる視線に何の意味があるのか。頬が妙に熱く感じるのは何故なのか。
 ユエリアの意識はどこか遠い場所から、自分とクルス眺めていた。