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手のひらを 02  










 ずっと――ずっと瞳を閉ざしたままだったならば、後悔なんてしなかっただろう。

 ただ、愛も知らぬままに。


***


 白。そこに光が射しているのかも分からないほど、辺り一面は白かった。ユエリアはぼんやりとその世界を宛てもなく漂う。ふと、温もりを感じて――。
 瞳を押し開く。

「……ん」

 今度は、白ではない。見慣れた造りの小屋。嗅ぎ慣れた薬草の匂い。そして、椅子に座り顔を伏せ、自分の手を握る誰かの手。

 手――?

 まだぼんやりとしつつある思考では定まらず、ユエリアは鈍い動きで上半身を起こした。その僅かな衣擦れの音が伝わったのか、はたまた偶然だったのか。ユエリアの手を握っていた青年が肩をぴくりと揺らし、面を上げた。
 青年も眠っていたのだろう。彼はユエリアと目を合わせると一瞬にして笑顔になり、次にものすごい勢いで眉を吊り上げる。

「まだ起き上がってはいけません!」

「は……?」

 怒鳴られたことの意味が理解できず、ユエリアは何とも間抜けな表情のまま固まった。誰だ、この男は。
 彼はユエリアが動かないと知るや否や、彼女の頭を支えながら肩を優しく寝台に押し戻す。されるがままになっているのは、この状況にまだ頭が混乱しているからだ。

「頭がはっきりしないのも仕方ない……あなたは丸三日間眠り続けていたんですよ」

「三日間も……」

「そうです。それに、僕はあなたに助けられた者です、思い出せますか?」

 助けた? この金髪の男を?
 ユエリアは眠る以前の一連の行動を、じっくりと振り返っていった。次第に彼女の脳裏に泡のような記憶が幾つも浮かんでくる。そして、弾けた。

「そう、そうだったわね。あたしはあんたを村に連れて――連れて?」

 村へ帰る途中で、発作を起こした。

 そこまで思い出し、ユエリアの記憶は糸が唐突に切られてしまったように、プツリと途切れている。
 しかし彼女は冷静だった。この部屋全体に満ちる、嗅ぎ慣れた薬草の匂いから推測する。ここは恐らく――

 ぐるり、と思考が回転し始めたその時。不意に部屋の扉が開かれる。

「クルスさん、ユエの様子はまだ……」

 声音が普段より少しだけ震えている。部屋を訪れたのは。

「ミシェーナ?」

 ユエリアは驚いて目を丸くさせる。上体を起こそうと腕に力を入れた。
 が、その途端に横で座っているクルスに再び手を掴まれる。彼は言葉にはしなかったが、暗に『体を起こしてはならない』と牽制しているのだろう。

 ユエリアは軽くクルスを睨んでやると、ふいと顔を彼から逸らした。何故だか腹が立ったのだ。

「ユエ、ユエリア! ああ――よかった、いつもならすぐ目を覚ますのに、ずっと覚まさないでいたから……」

「この通り。大丈夫よ、ミシェーナ」

 半ば涙目になっている親友をどうにか宥めようと、ユエリアは軽い笑みを浮かべる。もちろんそれはミシェーナを安心させるためのものだったが、長い付き合いである彼女には無意味どころか逆効果だったらしい。
 ミシェーナは足音荒く寝台に近寄ると、腰を屈めてユエリアと目線を合わせる形をとった。

「ユエ、顔色が悪いようだけど、少しだけ質問させて。あんた――本当にこのひとを助けようとしたの?」

 ミシェーナはちらりとクルスを一瞥する。どうやら彼は今一信用されていないようだ。この村では、それも仕方のないことだが。

 ユエリアは一度瞼を閉じ、そして今度は確かな光を瞳に宿してクルスを射ぬくように見つめた。彼はきょとんとした様子で、ユエリアを見返す。

「ええ。私はこのひとを『確かに』助けようとした。そして今は逆に助けられた」

 ユエリアは長い睫毛を伏せ、さらに目を細める。

「だから『大丈夫』よ、ミシェーナ」


 大丈夫。
 そう言ったユエリアの言葉を真摯に受け止めたのだろう、ミシェーナは部屋を後にした。
 残された二人は、唐突な沈黙に何をするでもなく宙を見つめていた。

 そして。

「話があるわ」

「お話を、いいですか」

 見事に声が被って。ユエリアとクルスは同時に押し黙った。しかしそれも長く続く訳が無く。

「お先にどうぞ」

 今度は言葉までも重なった。ユエリアは言い様の無い焦れったさと苛立ちから、顔面を手のひらで覆う。ため息が漏れ、脱力感に苛まれる。
 否、脱力感は元々のものだろう。ベッドで仰向けになったまま、ユエリアはぼんやりとそう思う。

「ユエリアさん、」

「『さん』なんていらない」

「……ユエ、ぼ」

 不自然な形で彼の声は途切れる。ユエリアはクルスをじろりと睨んでいた。
 彼は少し青みがかった紫の瞳を存分に瞬かせてから、困惑を示す。

「な、何でしょう」

「敬称もいらないけど、愛称なんて以ての他よ。ああ、もう面倒だからあたしから話を進めるわ」

 ユエリアは顔面を覆っていた手を外し、自分の髪を弄ぶ。そこで初めてこの翠髪が、シーツの上におおっぴらに広がっていたのだと気がついた。
 普段なら村人以外の者に『これ』を見せるなど、彼女にはあり得ないことだったが――どうせクルスは昔の記憶をどこかに忘れてきているのだ。だいたい、隠したとして今更遅い。

 何より、これが決定的な証拠ではないだろうか。

「あんたが記憶を失ったっていうのは、どうやら本当のことね」

「……はい」

 クルスは殊勝な様子で頷く。彼は恐らく、この数日ですっかり自分の状況に落ち着いてしまったらしい。彼は今も冷静を保っている。
 彼女は虚しいとすら表現できる笑みを口端にうっすらと浮かべた。

 この翠髪は、異端の証。
 そう決め付けるのはこの国。
 この男は、それさえも忘れているのだ――。