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手のひらを  






 
 
 


 死ぬ程苦い薬を飲んだ、その次の早朝。まだ陽も昇らない暗闇で、クルスは覚醒した。暖まり切っていない冷たく澄んだ空気が、心地よく肌を刺激する。

「起きたわね? じゃあ行くわよ」

 どうやら自力で起きたのではなく、彼女に起こされたようだ。そしてクルスは自らの変化に唖然とした様子で上半身を軽々と起こす。さらに傷の部分へ何気なく手をやる。不思議なことに、今まで感じていた痛みが引いていた。なるほど、薬の効き目は確かなようだ。

「その様子だと痛みはないようね。……今から村へ行くわ。準備はいい?」

 だからこんなに早くここを訪れたのだろう。準備と言っても、彼の持ち物なんて端から無い。あるとすれば、準備運動くらいだ。でもクルスは、何故彼女がこの時間へ現れたのか、疑問にも思わなかった。

***

 二人はほとんど暗闇に近い森の中を進む。クルスは辺りを見回し、澄んだ大気を何度も深く吸い込んだ。そうして彼は、元来自分が体力のある人間だと知る。先程から繰り返される坂道にも、肩で呼吸する必要はなかった。
 それにしても、とクルスは思う。一体自分は、何故ここに居るのだろう。真っ白に洗われた記憶に呼びかけても、答えは返らない。だから彼は気付かなかった。目の前を歩く彼女の様子がおかしなことを。

「……うッ」

 突如、彼女は肩を震わせ、地面に屈する。左胸を抱き込むようにして、激しく咳をする。クルスは呆然とするが、一瞬の後に我に返り肩で呼吸をしている彼女の許へ駆け寄った。

「だっ大丈夫ですか!? 何か……」

 しかし青ざめた彼女は、弱々しくかぶりを振る。身は小刻みに震えており、苦しそうな嗚咽が漏れた。

「そうだ、薬! 薬は持っていないんですか」

 青年の必死の問いかけを、彼女は力なく否定する。声を出すことさえも辛いのだろう。クルスは彼女の上半身を抱き起こしたまま、助けを求めようとして森中を見渡す。しかし記憶が無い彼に、この辺りの地理が分かるはずもない。

 ただ目の前に、一本の道が続いている。

 クルスは一人頷くと、彼女の体を抱き抱え、近くの木を補助にしながら彼女を背中に負ぶさった。その衝撃で少女のフードが外れる。青年は驚いてそれを見た。
 ――翠。かつて自分は、こんな色に出会ったことがあるのだろうか。だが、今はそれ所ではない。背中でぐったりとしている彼女に向けて言葉を紡ごうとして、愕然とする。
 まだ、彼女の名前も知らない。『知らない』人間とは、どうしてこうも無力なのだろう。クルスは奥歯を噛み締めた。介抱されていたあの小屋に、生活感は感じられない。だとしたら、彼女の言う村に行くことが出来れば、薬か何かがあるに違いない。そうすれば少女を助けることが可能だと思えた。

(今度は僕が彼女を助ける番だ)

 彼は一度深呼吸をすると、しっかりとした足取りで歩き出す。この道が村へと導いてくれることを信じて。

***

 一歩進むたび、彼は背負っている彼女のことを思わずにはいられなかった。険しい道。人が一人通るためだけに作られたような道は、薄暗く足元さえおぼつかない。登ったり下ったりの繰り返しは、人を背負ったクルスにもさすがに辛かった。
 しかしクルスが妙に感じたのは、その森の気配だった。ひっそりとしているのに、誰かに見られているようでならない。時折風が一陣吹き抜け、その度に木々は噂話をするようにざわざわと葉を揺らした。まるで生き物だと思わせられる。
 だいぶ時間が過ぎたのだろう。今まで息を潜めていた太陽がゆっくりと姿を現す。そこで彼は安堵の息をついた。視界に、望んでいたものが目に入る。
 ――村だ。小さな、それでいてどこか安らぎを与える村。
 村へと続く古びた縄橋を渡り終えると、ちょうど一件の小屋から、背負っている少女と同じ年ごろと感じさせる女が桶を手に出てきた。彼女はこちらを見るなり、心底驚いたような顔をして、薄茶の瞳にクルス達の姿を認めた。途端に持っていた桶を投げ出し、駆け足で寄ってくる。

「ユエ……っ!?」

 クルスもまたその様子に驚き、だか同時に安堵を覚えた。これで彼女に薬か何かが与えられる。クルスはそろりと気遣うようにして、背負っていた彼女を降ろし、まだ目を覚まさずにいる少女を、今度は横抱きにする。

「あなただったのね、ユエを誑かしていたひとは……!」

 やっと傍まで駆けてきた女は、クルスに向かって怒りの限りをぶつけてきたが、彼も負けじと言い返した。

「そんな事よりも、今はこの娘に休息と、それから薬を用意してください!」

 冷静な青年の言葉に、少女もハッとして『ユエ』と呼ばれた女を見る。彼女が今どんな状態なのかを悟った少女は、クルスの方を一瞥し、それから薄い茶色の髪を翻らせた。

「……こちらへ。私についてきて」

 クルスは素直に従った。何件か小屋を進んだ所で、薄茶の髪がまた揺れ、彼女は振り返る。

「私はミシェーナ。……そちらは?」

「クルス……というらしいです」

 今はそうとしか言えない。先を歩くミシェーナは少しだけ妙なものを見るような表情をして、肩を竦める。

「ユエに一体何をさせたの? ここ最近、その子無理をしているようだったから、きっと何か隠してるんだと思ってたわ」

 ミシェーナはまだ怒っているらしい。どうやらそれはクルスだけに向けられているのではないようだ。
 彼女は、翠の髪を持つこの少女のことを余程心配していたのだろう。

「僕は彼女に、助けられたんだと思います」

 意識が戻った時、既に記憶は無かった。自らが負っている傷は、白い清潔な布で覆われている。とても、丁寧に。傍には『ユエ』がいた。たったそれだけだった。
 彼の一言に呆れたのか、はたまた言葉すらも出なかったのか、ミシェーナは何も言ってこない。クルスは辺りの景色をなるべく目に入れるようにした。
 村はとても質素な造りをしている。柔らかな枯れ草で作られた屋根に、しっかりとした木の、温もりを感じさせる壁。そんなこじんまりとした家ばかりがポツポツと続く。
 風が静かに大気を揺らす。牧草の柔らかな匂いに彼は瞼を伏せた。

 前を行く彼女が、一件の家で足を止めたのはその時だった。

***

「おじさま、ユエは大丈夫なんですか」

 ミシェーナは『ユエ』が横たわる寝台の傍らで、家主の男に尋ねる。男は白い髭に、薄い頭をしている。服の裾から覗く腕は余分な肉などなく、枯れ木のように細い。さしずめ初老を迎えるといった所か。
 彼は蓄えた髭を一撫でし、頷いた。

「直に目を覚ますだろう……。何をしていたかは知れんが、相当体に負担がかかっていたようだ。時にお主、名は何という」

「クルス……らしいです」

 ミシェーナの時と同じような言葉でクルスは返す。彼にはそれしか、言えなかった。
 様々な薬品の匂いが家中を漂う。自然とクルスの心は落ち着きを取り戻した。

「彼女に負担をかけさせたのは、まず間違いなく僕の所為でしょう。彼女はずっと僕の傍にいてくれましたから」

「……そうか。あのユエリアが」

 どうやら彼女の本名はユエリアと言うらしかった。『ユエ』というのは愛称だろう。
 初老の男は再度白い髭を撫で、クルスを見据える。品定めをされているかのようで良い心地はしなかったが、何かを言える立場ではない。

「クルスよ。お主は何故この娘と出会った? ……街から気紛れで訪れたというのなら、悪いことは言わん、ここから去りなさい。それがお主の為にもなる……」

 だが、クルスの出した答えはとうに決まっていた。

「いいえ、お願いです。僕をしばらくこの村に置いてください。働いて、この少女に……いや、ユエリアに恩を返したい。どうせ僕には記憶が有りません。役に立たないのなら追い出していただいて構いません。でも……せめて彼女が普段通りの体力に戻るまでは、僕をここに居させてください」

 森を歩きながら、何度も何度も決意した思いだ。ユエリアが助けなければ、この命はきっと光を失っていた。
 細い目をさらに細めて、彼はミシェーナを振り返る。

「ミシェーナよ、村の男達は今何人居るのだ」

「……五人もいないと思いますけど。皆出稼ぎに行ってしまったから」

 男はやがて静かに息を吐き出し、疲れたように言った。

「そうか……。ではクルスよ、記憶が無いというその言葉が真実かどうかは、ユエリアから聞くとしよう。それまでは好きなように働いてくれて構わん」

 クルスは途端に頬を弛ませ、心底安心して微笑する。ミシェーナが驚いたような顔をしてこちらを見つめてくるが、今の彼には関係のないことだ。
 初老の男はふしくれだった指先でユエリアの眠る寝台をコツコツと叩く。

「だが、せめてこの娘が一度目覚めるまで傍にいてやってくれ。働くのはそれからでいい」

「分かりました。ではそうさせていただきます」

 クルスは眠るユエリアを一瞥し、彼の意見を呑んだ。

***

 成り行きで夕食を分けてもらい、今はユエリアの寝台の傍らで椅子に座っている。その間も記憶の糸を暗闇から手繰り寄せようとするのだが、上手くは行かない。とはいえぼんやりするだけというのも情けない。
 彼はユエリアの顔を覗き込む。日に焼けることを知らない白い肌は、熱の所為か朱色に染まっている。
 ふいに、彼女は吐息と共に小さな呻き声を上げた。苦しそうに眉が寄せられている。クルスは微かに息を吸った後、ゆっくりと彼女の手のひらを自らの手で包み込む。すると僅かにユエリアが握り返した――ように感じた。ただの、反射反応だろう。

 クルスは知らず内に入っていた肩の力を抜き、彼女に握られていない方の手で、ユエリアの頬を優しく撫でた。