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太陽に透ける  










 大陸から隔てられた島国であるガーディン王国。その西の一帯に広がる森に、人々は寄り付かない。
 ただ人は呼ぶ。
 閉ざされた辺境の地。或いは『異端人』の住まう森、と。


 一滴、また一滴と雫が葉末から滴る。それらは朝の神々しい太陽に透ける自然の宝石。
 森に薬草となる植物を採りに来たユエリアは、この雨上がりの景色が清々しくて好きだった。
 陽の光を吸収して淡く輝く翠の瞳に、長い睫毛が影を落とす。陶器のように滑らかな白い肌。艶やかな唇は果実のように熟れている。すらりと伸びた四肢は、彼女が少女から大人の女性へと変わりつつある証だ。

 ユエリアは被っていたフードを取り外した。周囲の木々の葉よりも浅く柔らかな色合いの、長い翠の髪が光にさらされる。
 大きく深呼吸をする。とても澄んだ大気。――が、しかし彼女はピクリと眉根を寄せた。

 微かな声を聞いた。
 大地の、囁きを。

 表情を険しくしたユエリアは、再びフードを目深に被り、その翠の髪を隠すと、大地に呼ばれるまま用心深い足取りで向かった。
 自然の奥深くで育ったユエリアにとって、大地の声を辿る事は容易なこと。難無くその源へ向かう事が出来た。

「なんだ、馬じゃない」

 馬は力無く四肢を投げ出している。傷は浅いのだが、打ち所が悪かったのだろう。既に死んでいた。

「でも、どうしてこんな場所に…………っ!」

 彼女は目をみはり息をする事も忘れて『それ』に見入った。――人だ。昨夜の雨に打たれてグシャグシャになった金髪。青白く生気の感じられない腕。恐る恐る近づいたユエリアは、びくりと肩を揺らす。

 生きている。――だが。

 このまま放っておけば、一日が終わるよりも早く命は絶たれるだろう。そしてそれは、見てみぬふりをするという事で。彼女は唇を噛み締める。その手に下げている編み籠の中には、人間一人を治療する事が出来る薬草が十分に有る。森と村を繋ぐ中継地点として、小さな木造小屋も付近に在る。

 まだ、間に合うのだ。

 彼女には、弱々しく脈打つ生命を絶つ事が出来なかった。例え、見ず知らずの人間でも。


***


 彼女に委ねられた命は、奇跡的にこの世に繋ぎ止められた。
 あれから二日がたった。ユエリアは苦労してその人間を森に建てられている小屋へ運び込んだ。勿論応急手当てを施した後に。村人達にこの人間の事は知らせていない。彼女は薬草を採取しに行くのが日課だったので、毎日森へ出掛けても誰も何も言わなかった。

 人間はユエリアと二、三歳ほどしか変わらないであろう若い男で、細身だが均等についた筋肉が逞しさを感じさせる。加えて女にはない鋭い骨格。ユエリアが何とか手当てを続ける内に、青白かった肌はだんだんと血色が戻ってきたように思えた。

 今日もまた小屋の中で男は静かな寝息を立てていた。二日の間に男が目を開いた事は一度もない。彼女は寝かせている男の脇を通り抜けると、薬草を磨り潰す作業に集中する。そうしながら、ユエリアは時々男の様子を伺っていた。

 不意に、男が低い呻き声を洩らす。ユエリアは慌ててフードを被ると、男に向かって身を固くし、睨むように視線を送る。

「ん……」

 男の意識が戻った。二、三度瞬きを繰り返し、その瞳が重たげに持ち上げられる。ユエリアは息を殺してそれを見つめていた。しばらくぼんやりとして天井を見ていた男は、彼女の気配に気付いてそちらを向く。彼の瞳は、透き通った紫だった。この国では滅多に見られることの無い色。何故か男の方もユエリアをずっと見つめていた。
 言葉なき時が永遠に続くのかと思われた頃。

「すみません。……僕の名前、知っていますか」

 彼は少ししゃがれた、小さな声でそう言った。


***


 男は声を――水を与えたのでもうしゃがれてはいない――発する事は出来るものの、まだ体を動かせないようだった。その間、彼は幾度と無くユエリアに話し掛けてくる。

「あの、あなたの名前は?」

「…………」

「すみません、食事から薬、何から何まで」

「…………」

 しかしユエリアはそのどれもを敢えて黙殺していた。理由ならちゃんとある。村人以外の者に深入りはしない。それが村の者達における暗黙の了解だったからだ。ただ、それには少し条件があるのだが。

 男は諦めたのか、急におとなしくなった。背を向けていたので、ユエリアは少しだけ彼の方を見る。瞳が閉ざされ、胸辺りが規則正しく動いている。おそらく、まだ体がついて行けていないのだろう。
 それにしても、とユエリアは思う。この男を見つけた辺りは、大きな岩や土砂がたくさんあった。仮に馬が足を滑らせたとして、何と悪運の強い。それに横腹から背中にかけて一直線に刻まれた傷跡。急所はギリギリの位置で避けられていたが、やはり酷いもので、ユエリアの発見がもう少しでも遅れていたならば……。

 彼女は一つ息をつくと、部屋の隅に丸めてあるボロボロの、引き裂かれた服に視線をやる。それは男の物で、泥に塗れているので尚の事臭う。
 ユエリアは服をつまむようにして持ち上げ、外の土に埋めて処分してしまおうと立ち上がった。――が、目についた紋章らしき物を見て足を止める。泥に汚れ、さらにひび割れてよく読めないが、そこには文字が記されていた。

「く……クル、ス?」

 肝心な真ん中辺りが損傷しているので、そうとしか読めない。彼女は小さな咳をする。欝陶しそうに口元を拭い、ゆっくりと思考をめぐらせ始める。

 国の名前ではないはずだ。
 この国の名はガーディン王国だ。ではやはり何か別の名だろうか。彼女はしばし考え込み、閃いた答えに口を開いて背後を振り返る。
 そう、もしかするとこの男の名前ではないだろうか。彼は自分の名前をユエリアに聞いてきた。あの時は男が何故他の人間に自分の名前を尋ねるのか分からずに聞き流した。

「まさか、記憶が無い?」

 ユエリアは一人呟くと手に在る泥に汚れた、衣服だったものをさっさと処理した。そして数日後、彼女はある決心をする。


***


「あんたの名前は、とりあえずクルスよ」

「はぁ……。いえ、ありがとうございます。それで、その……手に持っているのは何ですか」

 男の問いに、ユエリアは真昼の太陽のごとく笑った。勿論それは上辺だけのものだ。

「ただの水よ。あんた何回も飲んだでしょ」

「そうではなくて。反対の手に持っているその、丸い茶色の……何ですそれは」

 男は上半身を起こしている。これだけの日数で、よくここまで回復したものだ。ユエリアが手に持っている『もの』は、その仕上げと言っても良い。

「丸薬よ。これを飲めばあんたの痛々しい傷の痛みもすぐに消えるし、さらに腰痛、肩凝り、目の霞みも晴れるって聞くわ」

 丸薬、と呼ばれる茶色の丸は濁った色をしており、所々から怪しげな緑色が浮かんでいる。見ているだけでもげんなりとさせる薬は、何よりとても強力な匂いを放っていた。何かが発酵したような、鼻の奥をツンとさせる匂い。クルスは顔を引きつらせる。ユエリアはさらに迫った。

「さぁ、飲んで」

「いや僕は遠慮します。ほら、あなたに世話になってばかりですから」

「ああっ、あんたの上!」

 クルスは瞬間、言われた通りに天井を見上げる。不覚にも、口を開いて。彼女は素早く丸薬を彼の口へ放り込むと、吐かせないように水の容器を無理矢理押しつけた。男はこれほどまでに無く瞳を見開く。おそらく、薬はそうとうに苦いはずだ。持たされた水を一気に飲み干すと、クルスはユエリアの方を信じられないものを見るように睨んだ。

「何するんですか! こんな、死ぬ程苦い……」

「あんたを村に連れていくためよ」

 簡潔に答え、彼女はクルスから水を入れていた器を取り上げた。先程の笑みはさっそうとどこかへ消え、代わりに疲労を固めたようなため息が零れた。ユエリアは立ち上がり、小屋を後にしてその足先を近くの清流へ向ける。風が強い。しかし彼女は本当に疲れているのだろう、フードから僅かに覗く髪に気付かない。
 翠の髪。クルスは薬の苦ささえ忘れて、不思議そうに、その変わった色を見つめていた。