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プロローグ〜思い出の木漏れ日〜  








 酷い豪雨だった。

 引き連れて来た十数名程の兵士達の中には、既に泥に塗れて誰が誰だか分からない者もいる。自分も決して例外では無かった。

「隊長、今夜はどうなさるおつもりですか。この雨です。進もうにも、もう……」

 先頭を馬で駆っていた青年は、後ろから追いついて来た兵士の言葉に思考を中断した。

「今ここで隊を留める事は出来ない。知っているだろう。この辺りが、恐ろしく巨大な怪鳥の巣窟だという事を」

 隊長と呼ばれた青年は、自らの馬の様子を見た。さすがに馬達も限界を超している。
 《涙月》(るいげつ)と呼ばれるこの季節の雨は冷たい。早く休ませなければならないだろう。だがここで立ち止まるわけにはいかない。この森を抜けるまでは、まだ。


 彼らを睨む深紅の鋭い瞳に、青年は気付かない。それが瞬き、次の瞬間飛翔する。巨大な翼を羽ばたかせる音は雨を弾く葉に掻き消され、低い唸り声は地面を叩く雨音と錯覚させる。
 鋭利なカギ爪が兵士達を襲った。人間だけでなく馬も驚いて高くいななく。一瞬にして隊列が崩壊する。先頭を駆っていた青年は舌打ちをし、兵士達に向かって大声を張り上げた。しかしそれさえも雨に囚われ、届くことは無く。

 まるで遊ばれているようだった。怪鳥は悪戯に兵士を爪に引っ掛けては、無造作に切り裂いていく。体力の消耗が激しい兵士達は、それでも腰に差していた剣を振り抜くと、怪鳥にそれで斬りつけた。――が、森の覇者はびくともしない。おそらく、羽の一枚一枚が非常に丈夫に出来ているのだ。
 やがて血を流した兵士達は次々と跪いていく。雨だ。雨が彼らの生命を徐々に奪ってゆくのだ。
 怪鳥は一際大きくおたけびを上げ、その深紅の瞳に“隊長”と呼ばれていた青年を映した。……青年しか、映すものが無かった。鳥は動いているものが気になるらしく、地面に倒れている兵士達には興味を示さない。

(それならば……!)

 自分が、あの怪物を引きつけておけば良い。ここは森だ。脇道に逸れてしまえば、あの大きな体躯が仇となる。人間の何倍も巨大な翼は、枝に阻まれるはずだ。
 考えた青年は馬の手綱をきつく握りしめた。馬蹄が激しく鳴り響き、水飛沫が、泥が、降り止まぬ雨が彼に食らいつく。

 怪鳥は唸り声を一つ、馬と青年を襲わんとし、太く鋭いカギ爪を繰り出した。しかしその一撃は空を裂き、青年の残像を掠めたのみだった。

 青年の成すがままに馬は走る。彼は一瞬だけ背後を一瞥し、生死を賭けて運命の博打に挑む。怪鳥が攻撃を仕掛けてきたその時だけが、道を逸れる事が出来る機会だったのだ。
 藪に構わず突き進む。真上は隙間無く木々に埋め尽くされている。雨でさえそれに阻まれ、弱々しく降り注ぐ。大丈夫だ、これならば、なんとか逃げ切る事が出来る。そう青年が確信を固めた、刹那。
 まるで火傷を負ってしまったかのように、熱い何かが彼の背を駆け巡る。鉄の匂いが鼻を掠めた。触れた箇所から紅く滴る鮮血を見て、青年はようやく悟る。
 切り裂かれたのだ。あの恐ろしい怪物は、嗅覚も鋭いのか。この突き刺さるような雨の中、尚。

 意識が朦朧とする。視界が黒く染まり、鉛のように体が重い。傷は背中と横腹にかけて一直線に刻まれている。だが、それさえも今の彼には関係なく思えた。ただ、少しでも遠くに逃げなければと思った。隊のほとんどの者が深手を負っている。あのまま雨に打たれ続ければ、何人かは死を免れないだろう。それでも、生き残る事が出来る者もいるはず。それだけでも良い。この状況を伝えてくれる者が、いるのならば――。

(伝えなければ、『彼ら』に……)

 まだ幼かったころ。
 やさしい思い出の木漏れ日が、無残な惨劇へと変貌したのをただただ見ていただけだった。
 だからこそ、今の彼が伝えなければならなかった。
 怪鳥の叫び声が鳴り止まない。動かない青年を乗せたまま、馬はぬかるんだ地を蹴り進む。遂に森を抜けた。唐突に大地がひび割れる。馬は止まる事が出来ない。身を捩り、最後の抵抗とばかりにもがいた。


 男と馬は暗い闇の中、崩れた岩と同じくして崖に吸い込まれていった。