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キスしてるだけ。







「じょ、」

 リビングに久しぶりに響いた花京院の声は、それが言葉に成る前に男に飲み込まれてしまった。
 睫毛を震わせ、瞼を閉ざした花京院の視界を尚奪うように―――もっとも、本人にその意思はなく、その恵まれた体躯のせいで自然とそうなってしまうのだが―――立ち塞がっている男は、花京院が自分の名を呼ぼうとしたことを理解していた。

 ならば最後まで音を紡がせる必要はない。男は与える角度を変えながら思った。
 名を呼ばれたところで返事をするつもりも、その余裕も男にはなかったからだ。
 花京院が自分の名を口にしようとした、その事実だけで十分だった。それが感情の伴わないただの呟きだったにせよ、或いは非難の意味を持つものだったにせよ、である。
 そんなものは花京院の瞳から、自分のシャツを握り締める指先から、たった今フローリングを僅かに軋ませた爪先からでさえ、幾らでも読み取れる気がしていた。
 そして、それらはどれひとつとして自分を拒んではいない。
 男がそうして身勝手に花京院の前歯を舌で撫でた時、だが彼の声は遂に形を成してしまった。

 じょうたろう、と。

 勿体無い、と承太郎は思った。
 花京院の唇から、自分の吹き込んだ熱が漏れてしまったような錯覚を起こす。
 そんな焦燥に気付くことのない花京院は、続けて口を開いた。

「苦しいよ」

 そう訴えた彼の声は乱れた呼吸と弛緩した顎や舌のせいで覚束無く、胸は酸素を取り込もうと忙しなく上下している。
 呼気が乱れているのは承太郎も同じであったが、「鼻で息できんだろ」とぞんざいに返すと直ぐ様花京院の唇に噛み付いた。
 受け止め切れなかった勢いに花京院の脚が負ける。とと、と後退した拍子に、傍にあった低いガラスのテーブルにその右足がぶつかった。

 ―――ガタン。

 その音はきっかけとなった。
 均衡が花京院から崩れたのだ。

 承太郎より一回り小さな花京院の体に、少しの体重がかけられる。
 同じだけの力を擁して承太郎を押し返し、花京院がその場に踏みとどまることができたのは一瞬だけだった。足りないと判断するや否や承太郎は左足を一歩踏み込み、ローテーブルが今度は彼の足によって再び音をたてる。
 背を反らしなおも留まろうとする花京院を承太郎は一層強く抱き締め、踏み込んだ歩幅に合わせて右足を前進させた。

 花京院の左足が、つい、その分だけ後退してしまった。
 思わず、花京院はそれまで固く閉じていた瞼を持ち上げた。
 焦点が合うか合わないか、そのギリギリの近すぎる距離にある承太郎の、信じられないほど端整な顔が視界いっぱいに広がる。それは今まさに承太郎と唇を重ねているのだから至極当たり前のことなのだけれど、花京院の心臓は律儀に反応をみせた。
 承太郎の帯緑色の瞳が、今は熱をも帯びているその瞳が、今のようにずっと自分を見つめていたのだと、分かっていても確かめたくはなかった事実にまた心臓が音を立て頬は色を濃くしてしまう。

 花京院はもはや瞼を下ろすことも、視線を外すこともしなかった。
 ただ、一歩だけ、自らの意思で後退してみせた。

 それがどれほどの羞恥を花京院自身に与えたのか、承太郎には分らない。
 彼にとって確かなのは、花京院に赦されるこの瞬間が、自分をたまらなく幸福にさせるということだけだった。






三歩うしろのソファ
(2011/05/26)
日記に掲載。

(2011/12/10)
ちょこちょこ加筆修正。
アダルティーなふいんき(ry)ってどこで買えますか…
実は承太郎の名前を出さずに仗花とも読めるようにしようとしていたなんてそんなまさか


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