パラパラと頁を捲る音を立てる。漂ってくる紙の匂いがやけに鼻に付いた。淡青色の丁寧な装丁をじっと眺めていると、突然頭の中に思い浮かんだのはマルコの顔だった。

この淡く美しい本をわたしにくれたのは、マルコだった。




もう随分と時を遡る。わたしはまだあどけなさが残る小さなこどもで、一方で彼はもう静かに新しい衣を纏ってしまった後だった。その時のわたしには、彼が纏う深い深いその雰囲気を言葉で現すことは出来なかったけれど、今ならすこしだけ言葉に置き換えることが出来るかもしれない。彼は泥臭く纏わりつく幼少時代の衣を脱ぎ去って、そして今度は清らかで、そのくせ混沌とした青年としての殻を纏い始めている途中だった。それは彼の横顔や首筋やわたしの手を包み込むかくばった手や、ふとした瞬間に見せるひどく落ち着いた瞳の中に潜んでいた。わたしの中に残るものを清らかな水でまっさらに洗い流してしまったように、じっと羽ばたく時を静かに静かに待っている蛹のようにわたしには見えた。思えば、わたしと彼は幼い時から常に一緒だった。




わたしは学校が苦手なこどもだった。勉強は得意な方だった。毎時間毎時間緑色の板と白色の石灰によって描かれる未だ知らない世界が、わたしの目の前で繰り広げられるのがすきだった。わたしは教師の口から洩れるものは、一音足りとも聞き逃すまいと耳をそばだてていたし、頭の中は小宇宙よろしくぐるぐるとめまぐるしく情報の断片達が廻って、そして次第にひとつの形を織り成した。それでもわたしは学校が苦手だった。

マルコもまた学校が苦手だった。彼はわたしより遥かに自由を愛していて、遥かに束縛を嫌う人だった。昼休みには寂れた屋上でひとり煙草を燻らせていたし、そもそも学校に来る日数よりも学校に来ない日数の方が遥かに上回っていた。それでも彼は勉強が得意だった。彼はわたしとは正反対で、人に教えて貰うことが何より苦手で、自ら興味を示したことしか覚えられない性質だった。時にはわたしには全く理解の及ばない数式の世界を描いてみたり、かと思えば写真そのもののような風景画を軽々と描いてみせたりした。




「もし、」
「ん?」
「もしもこの世の中でひとつだけ望み通りになるとしたら、お前は何を願う?」

それは、いつのことだったろうか。羽織ったカーディガンだけでは寒さに耐えきれなくて、身を縮めていた。あれは11月も終わりかけの時期だった。とっくの昔に日は沈んでしまって、校庭では運動部の学生達が後片付けをしながら遊んでいる、そんな時期だった。

「マルコは?」

質問に質問で返すな。面倒だろい。ぷかりと吐き出した白煙は紺色の中にゆっくりと溶け出していた。彼の左手には、淡い布で装丁された文庫本が握られていて、時折頁をめくるかさついた音が夕闇に融けていった。

「金」

うそだ。わたしは彼の右手に握られている細いニコチンの塊をひったくると、無機質なコンクリートにぎゆっと押し付けた。押し付けた力が強すぎて、中に詰められた苦々しい葉が覗いていた。

「お金そのものに何の価値もないもの」

じゃあ、自由。
摘まみ上げられたのが気にくわなかったらしく、少し不機嫌な様子で彼は新しい煙草を口にくわえた。

「完全な自由は望めばどこにだってあるよ」

わたしがそう呟くと、彼はそっと顔を左に動かしてわたしにじろりと視線を寄越した。わたしはそうして結局火を着けた彼をじっと見つめて、そして足許に転がっていた小石のようなものを精一杯蹴り上げた。

「お前は?」

蹴り飛ばされた小石は軽やかな音を立てて、そっと屋上の柵を越えて真っ逆さまに転落した。

わたしは、その時口にした答えを覚えていない。もしくは何も口にしていなかったかもしれない。群青の夜を照らす金星を、マルコが吐き出した煙が曇らせていく。

マルコが吐き出す白い煙の匂いが、わたしはすきだった。




あれほど得意だった勉強は、苦手に変わった。学校は、相変わらず苦手なままだった。わたしは高校三年になった。

その頃のわたしといえば、授業中も帰りの坂道の間もお風呂に浸かっているときも夜眠る前も、いつだってひとつのことしか考えていなかった。どうしたら解き放たれるのだろう。何者からなのかすらわからなかった。だからぐるくるぐるくるととめどなく考えて考えて考え続けた。受験から。狭っ苦しい箱庭のような教室から。蜘蛛の巣のように絡み付いて離さない人と人との関係性から。すべてが正解であるような気もしたし、また正解ではないような気もした。もやもやと貼り付いた黒い塊を追い払いたいが為に没頭した。わたしには、するすると自分の纏うあさはかで薄っぺらい衣を脱ぎ去って、生まれたてのままの姿を見せることが出来なかった。誰にも、誰一人として、わたしの心の奥深く脆い部分を晒すことは、出来なかった。それはあのマルコとて、例外ではなかった。

それはなんということでもない、平均的に並ぶ毎日から抜き出したようなよくある一日だった。マルコはまた左手で薄い頁を開きながら、屋上でいつものように白煙を天に向かって燻らせていて、わたしはいつものように頭をからっぽにする遊びに興じていた。師走も押し迫る、年の瀬だった。屋上はおろか教室も校庭も、誰一人として姿はなかった。三年間着古したカーディガンだけでは、既に寒さを誤魔化すことは出来なかった。

わたしは、その頃ようやく薄々と気がつきはじめた。わたしが鉛筆を動かす意味。数字を操る意味。青白い教室の中で生きる意味。周りの人間達と自分の間に線を引こうとする意味。認められたかった、ただそれだけだということにわたしは薄々気がつきはじめていた。

「あの日みてェな夜だな」

わたしは学校が苦手だった。嫌いだったわけじゃない。苦手だった。あの頬に纏わりつく生温い人の熱気や、甲高い笑い声、刺々しく若く、鋭い視線、逆立つ意識、すべてが苦手だった。思えばそれは、あの頃にしか経験することは出来なくて、思えば今は通り過ぎてしまった若く虫酸が走る程強烈な自意識の連なりでしかなかったのだろうけれども、今になってわかる、あの時マルコが放った問いの答が。わたしはあの時こう言ったのだ。

「たったひとりでいい、頭の先から足の爪先までわたしのすべてを分かって、受け入れて、そして、背中をそっと押してくれる人がいればそれでいい」

布が擦れる微かな音がして、風がぱらぱらと頁を捲っていった。マルコは苦い笑いを顔に貼り付けて、そしてそっとわたしの頭を撫でた。苦い若さを身に纏った青年の瞳が、微かに揺れていたのがわたしにはよく分かった。文庫にしては珍しく丁寧に装丁された本の裏表紙を、わたしははじめて眺めた。淡いクリーム色のその裏表紙のように、何度も何度も読み返してきたせいで、擦れて剥き出しになった安っぽく白い台紙のように、わたしは曖昧で、我が儘で、それでも必死になってその、いるのかいないのかすら分からない誰かを求めていたのだということに、ようやく気がついたのだった。








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