つかれた。ぱちんと廊下沿いのスイッチを押すと1LDKの部屋が浮き上がった。がらんどうな、ぽっかりとした、私の部屋。暑苦しい残暑の熱気を振りほどくようにキンキンに冷えた缶ビールに手を伸ばす。髪を乾かすのもままならない。零れ落ちた滴がぽつぽつと廊下に染みを作っていく。

ぷしゅ、と気勢のいい音を立ててアルコールを身体に染み込ませる。戦う一社員からただの女に戻る瞬間。この瞬間が私はたまらなくすきだ。脱皮した紋白蝶のように色んなものを脱ぎ捨てていくこの瞬間が。

私の部屋にある大きな窓からは幸運にも夜空がよく見渡せる。遮るビルも煌々と灯る広告塔もなにもない。べたりと直に床に座り込むと今日は窓からまんまるなお月様が見えた。美しい円の形をした満月。
うん、とても綺麗。

残った一口を口に注ぐと缶ビールはすっかり軽くなってしまった。すぐそばにある透明な硝子机の上に、ことりと無機質な音を立てる。…ん?立てた缶ビールの先に、いつもは気にも留めない物体が今日はやけに気になった。そういやこんな色、買ってたっけ。偶然視界の隅で捉えたのは青色のマニキュアだ。目も醒めるようなアクアマリンではなく、深いターコイズブルー。

爪の先を見遣るとタイミングが良いのか悪いのか、左足の薬指に少しばかりの欠片。丁度良い。テーブルの上に無造作に放られていたエナメル液に手を伸ばす。重ねたティッシュにたっぷりと染み込ませたそれでゆっくりと親指の先を拭うと、薄汚れたショッキングピンクは鮮やかに消えた。先程感じた快感が私の胸の奥に去来する。ひとつずつゆっくりと脱ぎ捨てていく感覚。裸になった甘爪を剥きながら私は思う、背負うくらいなら最初から裸でいたかった。

薬指まで塗り終わった時携帯の着信音が鳴った。今はネオンライトも眠る午前1時。一体誰が?迷惑もいいところだと着信を無視してベッドの上に放り投げる。プルル、プルル。どうやら電話主は私と同じくらい頑固らしい。小指を塗り残したまま、私は仕方なく電話に出た。

「…もしもし」

もしもし。聴き慣れた、低く深い声。元気かよい?場違いな言葉を述べた親愛なる同僚に私は言葉を返す。何の用?今何時だと思っているのよ。

『午前1時』

分かってるんじゃない。なじる私の声に被せるように彼の柔らかい声が重なる。元気みてェだな。なら、いい。

私は彼がこんな時間に電話を寄こした理由をなんとなく分かっている。これでもう何度目になるのだろうか。彼はいつも、決まってタイミングを見計らったように電話を寄こす。午前1時。会社で気張った気持ちが解けて、ゆっくりと裸のわたしに戻るときに。

「…あのひとから、聞いたの?」

『あァ聞いたよい。罪悪感の欠片もなく、な。お前は本当に懲りねェな』

だから止めとけっていったろい。呆れと苦笑が入り混じった苦い声が耳元で響く。仕方ないじゃない、好きになってしまったのだから。強がりを纏い始める私に彼は言い放つ。だからって既婚者に手ェ出すとどうなるのか、お前もう分かってんだろい。だから懲りねェ奴だと言ってるんだ。

放っておいてよ。
喉元まで込み上げた反論を辛うじて私は飲み込んだ。喧嘩したいわけじゃないし、そんな気力、私にはもう残っていない。何故だか分からない、分からないが惹かれる男はみな既婚者ばかりなのだ。いや、…分からないわけじゃない、怖いのだ、私は。妻が、女がいると、遊びに過ぎないと最初から分かっていればむやみに傷つかずに済む。いつからだったのだろう。いつしか若かったあの頃のように、全身全霊を傾けて『恋愛』など出来る歳では無くなってしまった。得るものよりも失うものを数え始めた。それでも同僚からの叱責を耐え忍んで聞いていられる程、私は忍耐強くない。

「明日も仕事なのよ。もう遅いわ。マルコももう寝たら?」

いつもならそこで途絶えるはずだった電話。途切れる通話音の代わりに鳴ったのは、玄関のベル。

『出ないのかい?』

電話越しに彼が囁く。午前1時。こんな時間に尋ねてくる人間を私はひとりしか知らない。思わず立ち上がって廊下を急いだ。おそるおそる覗いた小さな窓越しに見えたのはただただ鮮やかな青。

「こんばんは」

ゆっくりと差し出された溢れんばかりのブルースター。おずおずと開いた扉を携帯を握りしめた片手で留めて、淡いグレーのスーツに身を包んだままの彼が玄関で待っていた。濃い目のネクタイは結び目が緩まり、シャツの襟は少しだけ曲がっている。上着に付いた三つのボタンはすべて外されていた。仕事帰り。咄嗟に思い浮かんだのはそんな他愛もない事だった。

「今は青い花も売ってるんだなァ。青い薔薇も売っていたが、お前は薔薇はもう貰い飽きてると思ってこの花にした」

ねえどうして…?驚きで言葉が出てこない私を見下ろして彼は後手に玄関のドアを閉めた。パタン。柔らかな音と共に訪れた静寂。電気を付け忘れていたせいで玄関は薄暗い。部屋から伸びる淡い電球の光だけが頼りで、私は手に握り締めたそのブルースターの花束を俯いて眺めているだけだ。顔を上げられない。狭い玄関は大の大人がふたり佇むにはあまりにも狭くて、おのずと私と彼の距離は詰められる。

「そろそろおれという選択肢を考えてみてもいいんじゃねェのかい」

握り締めた花束を軽々と私の手から奪い直して、彼はそっと私の耳元で囁いた。優しく引き寄せられた身体に、しっかりと胸元の暖かさを感じる。頭上から降り注ぐ低く深い声に、私が必死に纏った鎧のような硬い何かがゆっくりと剥がれ落ちていくのをはっきりと感じた。裸のわたしに、ゆっくりと私が戻っていく。

「おれは悪い男だよい。お前が傷付いて必死に強がってるのをすぐ傍で見て来ていながら、それでもお前のかさぶたを剥がしたくて仕方ない」

薄暗い玄関に彼の声だけが響く。しっかりと抱きすくめられて、私の視界は彼のシャツの色でいっぱいになる。そしてそれは次第に輪郭を揺らし、滲む。どうして泣くのか、何が私にそうさせているのか分からぬまま涙が溢れて頬を伝う。両手の拳でドンドンと彼の胸を叩くと、今度は力を入れて彼は私を抱き締める。

「でももうそれもおれひとりで十分だろい?」

こくこく、私は数度頭を縦に振って頷く。頬に伝った涙を彼は親指で拭って、優しい微笑みを浮かべた。ブルースター。私はこの花がすきだった。可憐で繊細で、そのくせ強く逞しく生きるこの花が。この花が告げる想いは…幸福な愛。

「そのマニキュア、」

おれがやったやつだろい?お前はこの色は趣味じゃないと零していたけれど。私の足元に目線だけ落として彼は呟いた。あ、私が小さく声を上げるとなんだ、覚えてなかったのかよい。少しだけ声を落として彼も呟いた。寄せられた唇が掻き上げられた私の前髪を縫って額に落とされた。優しいリップ音。

「明日はお前の分の休みも取ったから。朝までゆっくり眠るといいよい」

思わず顔を上げた私に彼は悪戯を思いついた子供のように笑って、私の身体を両腕で持ち上げた。マ、マルコ…!慌てて腕を彼の首に巻き付けるも、自分のその所為にすら私は動揺を隠せない。そんな私をからかっているのか喜んでいるのか、処女じゃあるまいし。楽しそうに笑って彼は再び私の頬に唇を寄せた。流れた涙の跡を拭うように舌を這わせて、彼は臆面もなく口にする。

「やっと手に入った」









2010911
thanx 幽繍

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