どうしてよりにもよって、こんな日に。光沢のある長い執務机の上に腰掛けて、バーボンを一口、ゆっくりと煽った。今日は満月。絶好の月見日和。毎年この日は、どう過ごしていたんだっけ。日々蓄積する膨大な仕事によって隅に追いやられた記憶を注意深く手繰り寄せてみる。…だめだ。全くもって思い出せない。思い出す程大した事もしていなかったような気もして、俺は早々に思考を手放すと再び美しく光る満月へと視線を戻した。

「大将」

出発のお時間です。…ああ、そうか。もう、そんな時間なのか。迎えの知らせに俺はゆっくりと腰を上げた。この執務室とも今日でおさらば。長い間世話になった。代々偉人達が腰掛けた黒い皮張の椅子をするりと一撫でして、がらんと人気が無くなった広い部屋を見渡す。俺は金色のドアノブを引いて重厚な扉を開くと赤い絨毯が引かれた廊下へと一歩踏み出した。ぱたん。扉が閉まる。俺はもう、この部屋に戻ることはない。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

見るからに厳つく重たそうな制服を着た運転手が、これまた黒塗りの外用車の扉を開けて待ち構えていた。入口は俺には少々窮屈だが、それでも中は広々としている。車内には女がひとり。黒のシルクで出来たドレスを華麗に着こなしている。オートクチュール、一点物だろう。バタン。ドアが運転手によって閉められると、静かに佇んでいた彼女が漸く口を開いた。

「…へえ」

黒服、似合うじゃない。そう口にした彼女に、呼び寄せてしまって申し訳なかったな。そう謝罪を述べると、どうしたの?今から雹でも降るのかしら?と軽口を叩かれた。彼女の口元は緩やかな弧を描いていて、俺の反応を愉しむように、瞳には親密な関係にある人間にしか見せない親愛の色が浮かんでいた。出して。彼女が短く一言発すると、緩やかに車体が動き出した。

ガープ中将の元で鍛えられていた中佐時代に、俺は彼女に出会った。彼女もまた中将の愛弟子であり、有能な海兵の一人として将来を嘱望されていた。いわゆる幹部候補生だ。口には出さなかったが、彼女もまた自身の理想を強く掲げ、抱いている人間だった。理想を実現する為には力を持たなければ。上へ上へと這い上がろうとする海兵なら誰でも抱く合理的な思想を、彼女もまた抱いていることは彼女の言動の端々から伺い知れた。そして彼女にはこの組織を這い上がるだけの理想と、忍耐力と、実力があった。しかし、人生はそう簡単にはいかないものだ。順風満帆と思われた彼女の人生にも、運命のささやかな悪戯が忍び寄る。出世争いには常、人間の嫉妬心ほど醜く、恐ろしいものはない。彼女の処遇に嫉妬した同僚に陰湿な横槍を入れられて、彼女は程なく本部から程遠い島に配属されてしまった。単刀直入にいえば左遷だ。巨大な、しかし閉鎖的なこの縦割社会の中では、一度道を違えると再び戻ってこれる可能性は限りなく零に近しい。中将のはからいによって何とか偉大なる航路に帰還こそすれ、本部に彼女は戻ってこなかった。理想も、忍耐も、実力もあった彼女には皮肉にも、ほんのすこしだけの運が足りなかったのだ。長い人生の中では爪の先程と言ってもいい、ほんのすこしの、運が。しかし、彼女は決して腐ることなく、不満を漏らすようなこともなく、眼前に降りかかる職務をこなし続けてきた、今も昔も変わらずに。きっと彼女は彼女なりに、自身の理想の本質を模索し、もがきながら、あるべき形を探し求めていたのだろう。海兵となった者なら誰もが一度は直面する壁であり、そして誰もが足を取られて抜けられない深い深い沼のようなその難題。その答えを、俺もまた、長らく探しあぐねている。

「同伴が必要だなんて知らなかったよ」

「正式な式典に出席するなら常識よ」

昔から貴方はそういう式には出席したがらなかったから。貴方の同期で結婚していないのって、クザン、あなたぐらいよ。

「いいじゃない。人は人。自分は自分。そういうnameも人の事をいえないでしょう」

「まあね」

おれの言葉は嘘だ。人は人だなんて、思えるはずがない。どんなに年を重ね、経験を積んでも答えなんて見つからないのだ。一見堅牢なように見えても、そのじつ陽炎に揺れる蜃気楼のようにゆらりゆらり、何もかも不安定なままここまで来てしまったように思う。今日俺が彼女を呼び寄せたのも、きっとその不安を、ひとりでは埋め切れそうになかったからに、違いなかった。

「元帥はほっと胸を撫で下ろしたのではないかしら」

「…ああ。返事をするのが随分と遅れてしまったからな」

あの戦争が終わって、また新しい時代が幕を開けた。来たる新時代に、海軍もまた変わらざるを得ない。英雄と謳われた二人の海兵は去り、白羽の矢が立ったのは、俺だった。

「正直なところ、ボルサリーノだと思ってた」

…本当に?彼女は耳触りの良いメゾソプラノの声で俺に返事を返す。ボルサリーノは少々自由すぎる。逆にサカズキは極端に過ぎるわ。それも一つの形ではあるけれど。クザン、貴方が選ばれる事は海兵全員が予期していたことよ。

道路沿いに光る数多のネオンライトが線を引いては消え去っていく。青、赤、黄色。頬をついたまま彼女の方に顔を向けると、口元に描いた半弧はそのままに、彼女もまた、窓から流れる夜景をぼんやりと眺めていた。…貴方はこの話を受けないと思ってた。斜めに向けられた横顔はゆっくりと俺の方へ向き直り、彼女は俺の眼を見据えてそう呟いた。

「…俺も受けるつもりはさらさらなかった」

何故センゴクさんが俺を指名したのかは彼女が言った通りだ。中立。組織の上に立つ者に求められるのは、極端な自由性でも、極端な厳格性でもない、バランスだ。何故ガープ中将じゃなくて、センゴクさんが元帥になったのか。彼の姿を見ていれば分かる。分かる、けれども。

「中立に立つ人間は時として傍観者と謗られる。傍観者で在り続けてきた俺は、蠢く強大なこの組織を率いていけるほどの'正義'をまだ見つけられていない」

彼女の背後の窓からはすでに煌めくネオンライトはぷつりと消えて、その代わりにランプで辺り一面を照らされた巨大な建物が見えてきた。代理石で出来た白い壁がぼんやりと橙色に照らされている。周りを取り囲む木々が風に吹かれてざわざわと揺れ動く。ランプの灯りが届かない隅には、一段と深さを増した影が不気味に渦巻いている。

「同伴が必要だなんて嘘をつかなくても、私は此処へ来るつもりだったのに」

今度は身体ごと俺に向けたnameが、少し顔を伏せて言葉を繋いだ。背景の暗闇の所為で彼女の表情を正確に伺い知る事が出来ない。ゆっくりと白い腕が俺の首元へ伸びてきて、そっと解けた結び目に添えられる。

「クザン」

ネクタイのよれを綺麗に整えた彼女が顔を上げて俺の目を真っ直ぐに見据える。真っ白な肌に映えるその双眼は静かに水を湛える泉のように済みきっていて、思わず息を呑む程美しかった。

「この職に就く事がどれほど重いことなのか、それはきっと実際に背負うことになった人間にしか分からない。だから、安易に貴方に『分かるわ』なんて言葉を、私は掛けられない。だけど、」

彼女はそこで一旦言葉を区切ると柔らかく穏やかな笑顔を口元に浮かべて、再び口を開いた。

「これはチャンスなのよ。貴方が思う'正義'を実現する為の。見つけられていないようでいて、でも確かに貴方の奥底で形作られてきた’正義’を実現する為の。確かに様々な障害がこれから先待ち受けていると思う。誰かと対立せざるを得ない状況だってきっと生まれる。取り返しのつかない喪失だってきっとまた経験する。だけど、

 だけど、この機会は誰にでも与えられるものじゃない。だったら貴方が思う通りに、私たちを動かしてみてよ。私はいつだって、」

いつだって、貴方の味方だわ。彼女はそう最後に発するとふわりとその白い華奢な右手で俺の髪を一度だけ撫でた。ほんの少しだけ伏せられた睫毛がランプの淡い照明にてらされて、一段とはっきり影を作る。参った。まさかここまで言われるとは。こんな事を言われて身を引くような男、いるわけないじゃない。

「いってらっしゃい」

ああ、いってくる。ようやく心の底からそう思えた。口に出した言葉にその想いが乗っかったのだろう、彼女は花が咲いたようににっこりと笑って俺を送り出す。

「クザン」

玄関の両脇に今か今かと待ちわびる海兵達のずらりと並んだ人波が、窓からでも垣間見れた。広々としたこの車の中から降りる直前、掛けられた呼び声にゆっくりと振り向く。

「誕生日、おめでとう」

先程の花のような笑みはそのままに、穏やかさを湛えた瞳が俺を見つめている。本当にこの女には参った。今晩、ご予定は?と尋ねると、もちろん空けているわ。小さく笑い声を上げて彼女は笑った。今日は俺のもう何度目かも忘れた誕生日で、俺の人生がほんの少しだけ変わる日だ。









20100921
Happy Birthday Kuzan!
thanx 獣



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