「大将は入隊したての頃どんな理想を抱いていたのですか」

からからと軽い音を立てて彼女は窓を開けた。緩やかな曲線を描くように、海風が室内へと入り込む。淡い潮の薫りと共に流れ込んだ風は、夏の終わりが近い事を告げていた。

「なんだったかね。もう思い出せないよ」

窓枠に手を触れたまま外を見遣る彼女の背後からそっと覗き込む。砂塵が舞った白い世界は降り注ぐ太陽の光を反射して、ひどく眩しい。

「今日も乾きますね」

振り返った彼女と目線が合う。彼女は決して逸らそうとはしない。良い眼だ。瞳の奥に強い光が灯っている。キリリと締まった線を描く眉も、魅力的な瞳も彼女の奥底にひたひたと眠る意思の強さを感じさせた。おれも彼女の歳の頃には、こんな眼をしていたのだろうか。思い出せない。

「大将、他の将校殿がご覧になられますよ」

「おれは気にしないよ。nameちゃんは気にするの?」

気にします。くるりと身体を反転させると、彼女はおれと自身との間に出来た不可避的空間からするりと脱け出してしまった。乾いた海風が涼しい。窓の外を見遣ると、仰々しい様相を呈して朝礼が始まろうとしているところだった。

「朝から業務を放り出して上司と部下が部屋の中でふたりきりだなんていかにも背徳的な響きがする」

窓枠に両肘を乗せて、おれは目の前に立つ彼女をじっと見据える。遠くから聞き慣れた、腹の底から響くような低い声が聴こえてきた。

「何を仰られる」

おれを見下ろす形になった彼女は形の良い眉を心もち持ち上げて、軽く息を吐く。やっぱり不要でしたね。おれの執務机の上に乗った薄い羊皮紙を、とんとんと人差し指で叩いて尚も彼女は言葉を繋ぐ。

「私は心配です」

大丈夫だよ。
おれはとびきり優しい声で彼女を宥めるように呟くと、珈琲を淹れる為に腰を上げた。自分で何とかするから。おれに注がれた視線にひらひらと片手を振って応える。

「あと20分ですよ」

彼女は例の羊皮紙をじっと見詰めると、意を決したようにびりりと引き裂いた。びりり、びりり。次第に細かい破片へと変容していくそれは最後に殊更大きな音を立てて、机の傍の塵箱に捨てられた。

「分かってるよ」

カランカランと小気味良い音を立ててグラスに氷塊が落ちていく。熱い珈琲に冷えた氷を入れて飲むのがおれはすきなのだ。あと5分もすれば湯も沸くだろう。以前遠征帰りに貰った上質な珈琲豆は何処にやったか…

「クザン」

ノックもせずに扉が開く。こんな事をする人間はだいたい分かる。案の定顔を覗かせた彼に、彼女が声を掛ける。

「おはようございます、ボルサリーノさん」

ああ、おはよう。
いつもと変わらない笑顔を彼は浮かべているけれど、サングラスに隠れた眼は笑っていない。

「もうすぐ時間だよォ。クザン、分かってる?」

分かってるよ。
おれは二度目の言葉を口にしてぽりぽりと頭を掻いた。どうやらアイスコーヒーはお預けらしい。仕方なく火を止めるといよいよ沸騰しようと構えていたヤカンが間の抜けた音を立てて静まった。

「いってらっしゃい」

片手をひらひらと振って彼女はおれを見送る。口角が上がった少し意地の悪い笑顔を浮かべて。それでも彼女の笑顔は滅多に見れるものじゃないから、今日は運が良いのかもしれない。

「あらら…一緒に行かないの?」

「行きません。ここで見守ることにします」

彼女が差し出した見慣れたコートを受け取ろうと右手を伸ばす。今日くらいは着てください。押し付けるように渡されたコートを確かにおれは受け取る。ああ、そうだね…ありがとう。

「クザンいい加減に…」

ああ、待って。今行くから。時計を気にしている同僚に声を掛けながら、おれは少しだけ腰を折るようにしてしゃがみこむ。彼女の意思の強い瞳が一瞬ゆらりと揺れた。

「どうしたんです?」

「ほら、元気がでるおまじない」

おれが自身の頬をとんとんと人差し指で叩くと、彼女は呆れたとでもいうように嘆息を吐いて苦笑を洩らした。

「我が儘なひと」

彼女は爪先を立てて少し背伸びをすると、おれの肩に手を当てて顔を寄せた。ちゅっ。軽快なリップ音はおれの指を通り越して思わぬ場所へと落下した。

「あらら…これは、すごく元気がでた」

そうですか。彼女は変わらず苦笑を浮かべているけれど、今度は嘆息の代わりに優しい声音をくれた。

「いってらっしゃい」

うん、いってくる。窓枠から射す朝日を背後にくっきりと浮かぶ彼女の姿を、おれは暫しの間眼に映して、そして目蓋の裏で再生する。ゆっくりと未だ着慣れないコートを羽織ると、おれを待つ同僚の元へと一歩踏み出した。









2010909

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