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その少年を連れ去ることも、再び走り出すことも静雄にはできなかった。
ただそこに、根が生えたようにただ立ち尽くしその少年を見る。そうしていると不意にその赤い瞳が静雄を捕えた。
血のような赤。でもすごく綺麗だと思った。どくりと心臓が脈打ったのは、その美しさからなのか、もしくはおそろしさなのか。
少年はただ無言で静雄を見ていた。


助けて、と言ってくれたらどれだけよかっただろうかと静雄は思う。
そうすれば静雄が動く理由ができた。少年を助け出すことができたかもしれない。でも少年は違った。
何かを信じていて、でもどこか諦めたような笑みを浮かべて、音にならない声で呟く。


「ば い ば い」


それは静雄に向けられたものなのか、それともこの世界に向けられたものなのか。
一瞬静雄は悩んだ。が、きっとおそらく両方なのであろうと思った。


冷たい風が木々を揺らす。少年はその風に乱される髪をそっと直したあとゆっくりと静雄から目線を外した。
そうして、.......そうしてこの町で一番大きな屋敷の中へと吸い込まれていった。
金に溺れ、どこまでも欲を追い求める。汚い、汚い汚い汚い汚い.....下劣な、大人。



神が造りしこの現世。
最初の人は禁忌を犯してエデンから追放された。
それから幾年、幾世紀すぎようとも人は過ちを繰り返す。前世から引き継がれしその魂がまるでそうさせるかのように。
この世界に神はいない。
神はきっとこの世界を見捨てたのだ。都合のいいよい時だけ神を頼るくせして、普段は崇めようともしない、そんな身勝手なものたちが仕切るこの世を。

だって、そうでなければ....と静雄はパンを握るその手に力を込めた。


「神様がいるのならよ、なんで俺たち、だけ.....」


俺たちだけ、愛してくれなかったのか。とその言葉は風にかき消された。



あの少年はどうなるのだろうか、と考えるとどんどんとどす黒い感情が静雄を侵す。
音もたてず、侵食する。
美しいあの少年の肌に汚れし手で触れて、舐めまわし、心まで喰らうのだろうか。
彼という人格を認めず、ただ自分の玩具であるかのようにふるまって.....?



「っあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」



静雄は叫んだ。頭が、心が叫べと言うままに。地面に膝をついて空気を振動させる。
そして思う。平等でない世界、理不尽で力なき者たちが地獄を見る。腐り果てたこの世界。
平等にしてくれないのなら、せめて、力をと。
あの少年を救うことができる力をと、それ以外の何かが壊れてもかまわないからと。静雄は天を仰いだ。
涙が頬を伝うのを拭いもせずただ、天を睨む。


やがて静雄はゆっくりと立ち上がり、一歩また一歩と走り出す。
ふらふらと途中途中にたっている木にぶつかりながらも前へと進む。少年を吸い込んだ大きな大きな門へと。
少しの距離のはずなのに、そこまで着くのにすごく時間がかかったような感覚が静雄を襲う。
彼の目が、金で装飾されし門を映す。その瞳は、いつも彼が弟に向けているような優しい色はしていなかった。
そこに映るのは、悲しみと、憎しみと、この世の全てに対する負の感情。殺気を宿ししその双つの眸(め)。


門の前にたつ二人の男が向かってくる静雄に気づき、驚いた表情を浮かべつつも制止にかかる。
相手は所詮子ども。そんな気持ちが彼らの中に確かにあったのだろう。銃を構えることもせずに、静雄の肩に手を置こうとした。



「ちょっと、君...」

「どけぇぇぇぇぇぇぇ」

「な....」


静雄の握りこぶしが門番の鳩尾へと吸い込まれる。静雄という少年はとりわけ力が強かったわけでもなかった。
が、殴られた門番は門へと衝突しそこに僅かな亀裂が入る。
今殴った門番の血なのであろうか、それともここに来るまでにどこかにぶつけたのだろうか。
静雄の掌は血濡れていた。ただ、それを彼はぼんやりと見つめるも気にする様子さえうかがえない。
そしてそのままゆっくりともう一人へと向き直る。狂気を宿したその瞳。その瞳に捕えられた愚かな大人はただ悲鳴をあげることしかできなかった。


「っうわぁぁぁぁ、バ...バケモノ.....」

「黙れ。」


数秒後、その門番も物言わぬ人形と化して地面へと這いつくばった。


一つの大きな扉を壊した。武器を使うこともなくただ手で扉を壊して。
そしてゆっくりと部屋を見渡すと、先ほどの少年が床に倒れていた。白い手首を上で一つにまとめ上げられて、出っ張った腹がなんとも醜い男の荒い息が部屋に反響する。
静雄はゆっくりと部屋の中央へと歩みを進めた。
彼の進んできたあとに残るもの。それは全て廃墟。何人もの大人が重なりあって倒れていた。
そんなことも知らず、この屋敷の主人は少年を今にも汚そうとしていた。その人物の背後に歩み寄って、静雄は小さく呟いた。



「し...ね....」


そしてその男はなんともあっけなく壁へと激突した。



静雄はただそれを冷静に見ていた。ぶつかったときに生じた音も、血濡れた自分の姿も、なにも感じずにただ見ていた。
そんな静雄の手に、暖かい何かが触れた。不思議に思って視線を下げると先ほどの少年が静雄の手をとり、そしてゆっくりと自分の首へと導いた。



「.....ころして。」

「......」

「君なら、わかるでしょ?...こんな世界に生きる意味なんてないんだ。」

「それが、お前の望みか...?」


静雄の問いかけにその少年はなんのためらいもなく頷いた。


「ここから逃げ出したところでどうせ同じ事の繰り返しだ。....なら、君の手で...」

「....俺の手で、」

「俺をこの不浄の地から解放して。」


そう言って少年は、綺麗に笑った。赤い目が優しく細められる。静雄より少し小さな手が、静雄の頬を撫でた。
その手にもう片方の手を重ね、静雄は静かに、でもしっかりと頷いた。


静雄の両手が少年の首へとかかる。ゆっくりとゆっくりと手に力を込める。
意識が薄れていっているはずなのに、その少年は最後まで....最期までその赤い瞳に静雄を映し続けた。
そして、少年の体がびくりと波打って固まる。その瞬間に少年は小さく呟いた。


「...あ...り..が、と.....」



ばき、と骨の折れる音がして、静雄はゆっくりとその少年を横たえ、胸の上で指を組ませた。
願わくば、この少年が次に生を受ける世界で、幸せになれますように、と。静雄は静かに心の中で思い屋敷を出た。



静雄の頬に涙が伝うことも、悲しみが心を蝕むこともなかった。
少年は再び家へとつづく道を歩み始め、思う。


「腹、減ったな....もう夕方か」


別になにも感じていないわけではないのだ。空腹感も、体についた数々の傷による痛みも感じていた。
ただ、その両目に以前のような輝きはなかった。ただ、ただ、客観的に世界を見ていた。



そうして、1人の少年の心が壊れた。醜き、悪し大人たちによって。
数え切れないほどの子どもたちの心が壊された。そんな時代の、お話。遠くて近い、そんな世界のお話。








「ねぇ、シズちゃん。カルマって言葉しってる?」

「あ゛ぁ?」


とある世界のとある場所。対峙する二人の少年。1人の少年は校舎の窓から、もう一人は人が人形のように地面に転がる中庭から、お互いにお互いを見つめていた。
赤い目をした少年が静かに口を開いた。


「日本語だと業、って訳されるらしいよ。」

「何がいいてぇんだ。」

「輪廻転生。魂はひとつで永遠なんだ。生まれても、死んでも俺たちは変わらぬ存在。前世の行いが悪いとね、後世にも影響するんだって。つまり前世の罪は永遠に引き継がれる。」

「...だから何だ...」


ひらりと、少年が金髪の少年の前に舞い降りた。そして、どこに忍び込ませていたのだろうか、ナイフを構え金髪の少年の眼前へとそれを向ける。
そして嫌な笑みを浮かべて、言葉をつづけた。


「シズちゃんのその化け物じみた力ってさ、前世に何かしたからなのかもね。(俺の人に対するこの愛も、そうなのかもしれないけど。)」



数秒後、近くに止められていた自転車が空を、舞った。
高く、青い、空を。


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なんか、ごめんなさい。(逃



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