ss4 | ナノ




分裂と回帰
[晶馬→冠葉]


 不安定な地面を一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
 霧だらけで何も見えない、何も聞こえない。
 どこまで続くのか、終わりはあるのか、そもそもどこから始まっているのか、わからない。
 足がすくんでしまいそうになるのをこらえて歩き続ける。
 やがて眼前に開かれた扉が現れる。そこからは明るい光が差し込み、ようやくここから出られるのだと安堵した瞬間、霧がさあっと晴れていく。
 足下には色のない人間が、何十、何百と折り重なるようにして転がっている。その中の一体と目が合った。にごった瞳は何も写しださない。ただ己の罪を自覚させるだけだ。
 この人々を踏み台にして、生きているのだ。
 ようやくそれを理解すると、足をもつれさせながら全速力で光のもとへ走った。扉の先がどんなに辛いところであっても、今こうして誰かを踏みつぶし、傷つけていることに耐えられなかった。
 逃げ出すように駆けると、呼応するように人間たちが後を追った。捕まえようと手を伸ばしてくる。
 罪悪感と恐怖でいっぱいになりながら助けを求める。誰かが反応してくれることはないと知っている。この夢を何十回見ただろうか。あの扉まで行けば、この夢は終わるのだとわかっていた。
 それでも、助けてと叫ぶ声は止まらない。





「冠葉」
「なんだ」
「いつも、ごめん」
「気にするな」

 そう言って冠葉は僕の髪を撫ぜてくれる。
 一つの布団の中で向かい合い、兄の胸の中にすっぽり収まるとだんだん身体が感覚をなくしていった。生まれる前、僕たちはこうして羊水の中をたゆたっていたんじゃないかと思う。静かで、あたたかで、二人だけの世界。誕生した瞬間に罪を抱えることになるのだったら、生まれてこない方がきっと僕たちのためにはよかったのだろう。ずっとあの場所で幸福に浸かっていられたら、大勢の人を傷つけることもなかったのに。
 そんなことを考えていると、急速に眠気が襲ってくる。まだ寝たくはなかった。この時間を少しでも長く感じていたい。本当は毎日こうして、同じ布団で抱き合って眠りたい。それができたら、僕はもう夢に苦しめられることもないだろう。
 兄貴は僕がうなされていると、必ず僕の布団に入ってきて、あやすように背中を撫でてくれる。だからあの、普遍的な脳から生まれたありがちなイメージの夢を見させられるのはたいしたことじゃない。辛いことは確かだけど、その後に抱きしめてもらえれば全てが吹っ飛び、僕はただ満ち足りた気持ちになる。
 記号のような陳腐な悪夢。あれは見させられているんじゃなく自分が見たいと思っているのかもしれないと考えると、自分が人間としての資格を有していない、おぞましいものにしか見えなくなりそこで思考を閉ざしてしまう。
 永遠に朝が来ないことを祈りつつ目を閉じた。


 きっと僕は生きているだけで他の誰かを傷つけている存在だ。
 通学路を歩いていたり、野菜を包丁で刻んでいたり、テレビのチャンネルを変えたり、シャープペンシルの芯をかちかちと出していたり、誰かと笑い合っていたり、そういうふとした瞬間に頭によぎるのは変えようのない、生まれたときに既に決められていた事実だった。

 他人と触れ合うことを潜在的に怖がっていたのだと思う。相手を不快な気持ちにさせないようにへらへらと振る舞い、毒にも薬にもならない存在になろうとしていた。こんな自分と仲良くなろうとしてくれる人もいたけれど、僕は彼の顔を正面から見られなかった。いつか彼を傷つけてしまうときが来るくらいだったら、初めから目をそらし続けているほうが楽だった。
 結局僕には、冠葉しかいないのだ。同じ罪を共有している兄こそが、すがりつけるたった一人の存在だった。

「お前は本当に陽毬を救う気があるのかよ」
「あるに決まってるだろ」
「俺にはそうは見えないけどな」
「どういう意味だよ」
「自分の手を汚したくないって考えてるのが気に入らないってことだよ」

 これだけの会話で僕と兄貴は喧嘩をした。以前にも同じようなことを言われたが、確かその時は向こうが折れてくれたのだ。昔から変に大人びたところがあり、お互いが口も利かないような状態になったとき、均衡を破るのはいつも兄だった。そのたびに僕は自分勝手な次男坊であることを自覚し、自身の子供っぽさに情けなくなったものだった。
 兄貴にきつい言葉を浴びせられ、彼にも余裕がないのだと悟ってようやく僕は焦り始めた。
 いつも飄々とした態度で、指先一つですべてをひっくり返してしまえそうな兄。子供のころ、よくからかわれていた自分を守ってくれた背中が鮮明に浮かび上がる。
 僕は今の今まで、兄貴に頼り続けていた。兄貴なら何とかしてくれるだろうと心の底で思っていた。
 ―――甘えるな。
 そう言われた気がした。


 休日の昼下がり、商店街は人の行き来も多く皆めいめいに食料品やら、生活用品やらが詰まったビニール袋を提げて歩いている。それはとても幸せそうに見えた。自分が自分でなく、彼らとして人生を過ごしていけたら。僕は首を振った。また現実から逃避している。僕であることに、僕は一生付き合っていかなくてはならないのだ。
 強くそう思いながらも家に帰るのはためらわれた。ケンカをした勢いでそのまま家を飛び出してきたのだ。バカ兄貴。今日に限って女の子と遊びに行かないなんて。
 そうだ。このまま駅に行って、電車に乗って東高円寺まで行き、あの子から日記を奪ってしまおう。頭の中で組み立てた計画とも呼べないものは、とても簡単そうに思えた。あれさえ盗ってしまえば、陽毬も冠葉も僕も、日光が降り注ぐ明るい未来を三人で一緒に歩いていける。
 でも、僕が日記を奪い取ったら、あの子はどうなってしまうだろう。
 陽毬を死なせたくないという気持ちと、また他人を傷つけ踏み台にすることへの嫌悪感がない交ぜになって、めまいがした。駅へと向かう足が止まる。呼吸がうまくできない。いくら息を吸っても酸素が足りずに、死にかけた魚のように空気を求めて口を開く。やがて喧騒がすうっと離れていってひどい耳鳴りがした。とっさに耳をふさいでも、えぐるような高音が脳を刺した。焦点がずれていき、視界は波打つ。こんがらがった頭で、世界が壊れたみたいだと思った。壊れているのは僕のほうだというのに。

「どうかしました?」

聞こえる声に我に返ると、心配そうに僕の顔をのぞきこむ女性がいた。年齢は四十代くらいだろうか。ゆったりした口元と目じりに薄く刻まれたしわが人柄の良さをそのまま映し出しているようだった。

「具合が悪いんだったら、どこかに座って……」
「大丈夫です。ちょっと、立ちくらみがしただけですから」
「そう? なんだか顔色もよくないし、早くお家に帰って休んだ方がいいですよ」
「ありがとうございます、あの、本当に平気なんで」

 女性は真偽を測りかねるように僕の顔をじっと見ていたが、これ以上はお節介になると判断したのだろう、「それならいいんだけど」と言葉を濁すと、にこりと笑って去っていった。何となくその姿を目で追っていると、どうやら女性は足が悪いらしく、右足を少し引きずって歩いているのがわかった。そのまま彼女は地下鉄の入り口へと向かい、器用に階段を片足で降りていき視界から消えた。
 地下鉄の構内や電車で、けがや傷跡がある人を見ると僕はいつもこの思考に捉われる。
 彼女の足をああさせた原因が十六年前の事件だったら?
違うかもしれないし、もしかしたらそうかもしれない。本人に聞くわけにはもちろんいかないから、そんな時僕はその人から懸命に目をそらし続ける。心では早く降りてくれと祈りながら、ただただ耐える。
 こんなことを考えてしまうのは僕だけなのかもしれない。僕が冷や汗を流している隣で、兄貴はいつもの気だるげな雰囲気をまとったまま吊り革を掴み、車窓から真っ暗な闇を見つめている。

 陽毬が一度死んだとき、僕たちにのしかかる罪を改めて気付かせたのは他でもない兄貴だった。
「これが俺たちに課せられた罰なんだ」と、諦観して裁きを受けようとしていたのだ。動転し逆上していた僕よりよっぽど冷静だった。
 今の兄貴は自分が見えていないし、見る必要もないと思っているのだろう。自身を省みず、陽毬の命を繋ぐためならなりふり構わないでそれこそ何でもするに違いない。僕は、そんな兄貴を怖いと思っていた。僕がこれまで知らなかった兄の姿が少しずつ見えてきて、違う誰かに変わってしまったような気がしたのだ。
 
 僕だって陽毬をちゃんと生かしてあげたいと思っている。帽子の有無で簡単に生死が決まってしまう不安定な状態を、一刻も早く脱したい。やさしくてかわいい僕の大事な妹。
 でも、そのために他人に危害を加えたり、心を傷つけたりすることはできない。これは偽善ですらなくただの保身だととっくに自覚している。これ以上罪を重ねれば、その重さに僕は耐えきれないだろう。だからやりたくない。僕の弱さがいつだって何もかもを排斥する。
 兄貴にしたって良心の呵責に苦しんでいるに違いないのだ。あのポーカーフェイスの下はいつだって苦痛で歪んでいるはずで、それを耐えて陽毬のために全てを投げ打っている。
 僕は兄貴のようにはできない。自分を守るのに必死で、これ以上他人も、そして自分も傷つけたくなくて、殻にこもってのうのうと生き続け、ずっと清廉潔白であろうとしたのだ。神さまにいい顔をして、僕だけ許しを得ようとしていた。
 思わず笑ってしまった。
 僕って、最低だ。


 どこをどう歩いていたのかあまり記憶にないが、つまずいて転んだり、誰かにぶつかったりしたような気がする。周りの視線は当然のことながら冷たく、それとは対照的だった足の不自由な女性を僕は思い出していた。彼女は家に帰り、あたたかい食卓を囲んでいるだろうか。ああいう人こそ幸せになるべきだ。あの人が事件の被害者じゃなければいいと願った。
 あたりはすっかり暗くなっていて、気付けば見なれた我が家が目の前にあった。どうやら僕は中に入ろうか迷っているようだった。
 磨りガラスから漏れる明かりにふらふらと近づいていく。光に寄ってたかる虫みたいだ。
 戸を引くと、すぐにはじけるような陽毬の声と足音が聞こえてきて身体から力が抜けた。

「晶ちゃん、おかえりなさい!」

 ただいま、とつとめて明るく言い、靴を脱いで上がると陽毬は待ちきれないように僕の背を押して居間へと連れていく。背中の小さな手は陽毬そのもので、なぜだかほっとした。

「な、なに? 陽毬、どうしたの」
「今日ね、冠ちゃんと一緒にロールキャベツ作ったんだよ!」
「兄貴と?」
「ほら冠ちゃん! 晶ちゃん帰ってきたよ!」

 居間にはちゃぶ台に肘をついて、テレビをじっと見つめている兄貴がいた。
 こちらに振り返ると、僕と目を合わせづらいらしく視線があちこちをさまよった。やがて覚悟を決めたように立ち上がり、そばにやってくる。

「悪かったな。言いすぎた」
「いや、兄貴の言うとおりだ。僕が……」
「さっきは俺がいらいらしてただけだ。俺は、お前にはお前でいてほしいんだよ。本当だ。だからあれは忘れろ」
「でも」
「あー、もうやめようぜ。早く晩飯食おう」

 兄貴は会話を打ち切ると台所へ行き、鍋に入ったロールキャベツを温めはじめた。僕たちが仲直りしたと思っているらしい陽毬が笑顔で茶碗にご飯を盛っている。手伝おうとすると、「今日は私と冠ちゃんが全部用意するから、晶ちゃんは座って待ってて」と言われてしまったので大人しく二人を眺めていた。
 兄と妹は、これ以上ないくらい幸福に包まれているように見え、そしてもろく崩れ落ちそうだった。

 僕はこの先、兄貴が陽毬のために何かしらの禁忌を犯すだろうと確信していた。女神さまの火の灰を盗み出すことだって、それがひずみをますます広げ、理不尽な罰をまた誰かが受けることになると知っていたって、兄貴はそれをするだろう。僕にはできない。冠葉を、陽毬を、いくら愛していても、僕は自分を一番大切に思っていて、もうこれ以上罪の重さにも罰の苦しさにも耐えられそうになかった。

 ごめんなさい。

 口の中で呟く。
 ずっと一緒だった自分の半身が離れていくのはどういう心地になるのだろう。それこそ、僕は決定的な何かを失うことになるはずだ。

「おっまたせー、いっぱい作ったからたくさん食べてね!」

 陽毬が弾んだ声をあげ、てきぱきと茶碗や料理とちゃぶ台の上に並べていく。
 いっぱい作ったという言葉通り、相当な数のロールキャベツが器に盛られていた。これは明日の朝も夜も、いやお弁当にも小さく切って入れるくらいでないと消化しきれない。二〜三日ロールキャベツデーになるのは必至だ。

「あ、晶ちゃん笑ってる」

 陽毬がおかしそうにくすくすと笑った。兄貴も僕を見てほっとしているようだった。そうやって嬉しそうな二人を見ると僕も嬉しくなる。僕たちはいびつで曲がっていても、こうやって家族を形作っている。
 三人揃っていただきますをして、仲直りの印であるロールキャベツに箸を伸ばした。

 
 
 僕は最低な人間だと思う。もはや人間でないのかもしれない。
 それを認めているからこそ、言えることがある。
 あの悪夢をもう一度見たい。できるだけ早く見たい。
 冠葉は僕の身体をそっと抱き寄せてくれる。眠りながら僕たち二人は元の場所へ還っていく。
 そのためだったら、どんな罪悪感も喜びに変えることができる。

 冠葉がどこかへ行ってしまわないうちに、僕が自我を保っていられるうちに、早く、早く悪夢を見なければならない。
 体温で満ちた、心臓の音が聞こえる胸の中。腰に置かれる手、耳に届くささやき。
 あそこが僕のたった一つの居場所だった。



「どうした晶馬、ぼーっとして」
「ううん、なんでもない」

首を振って、にっこり笑ってみせる。
まだ、僕は正気だ。
大丈夫。もう少しの間は、きっと耐えられる。
早く元の場所に還らなきゃ。全てが崩れてしまう前に。僕たちが離れてしまうまでに。







back


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -