朝八時三十分、新宿御苑前駅入り口。
会社に出勤するサラリーマンやOL、彼と同じように学校に向かう生徒、それぞれが朝特有の倦怠感をまといながら足早に過ぎ去っていく。山下洋介は人が機械的に行き来する様子をぼうっと眺めつつ、ふと振り返って駅の中から次々とはき出されていく人々に視線を移した。そこには山下が待っている友人の姿はない。もう行かないと始業に間に合わなくなってしまう。嘆息をもらすと、重い足を引きずりながら通学路をたどった。
山下にとって、授業を受けている時間ほど退屈で無意味なものはない。今日は気持ちの良い秋晴れで、教室に閉じ込められているのがもどかしく感じる。こんなときは高校生らしくカラオケやゲーセンにいってぱーっと遊ぶべきなのだ。
教師の単調な説明とチョークを走らせる手を遮ったのは、がらがらと扉をスライドさせる音だった。
「すみません遅れちゃって!」
慌てた声が聞こえた。山下が朝からずっと、聞きたいと思っていた声だ。
眠気でフェードアウトしつつあった意識が一気に引き戻される。あいつ、また―――。
遅刻してきた生徒、高倉晶馬が申し訳なさそうに席に着くと何事もなかったように授業は再開される。
山下は黒板を見るふりをして、彼の双子の兄である高倉冠葉を盗み見た。冠葉は晶馬に目もくれず、机の下で携帯のディスプレイをタップしている。恐らくメールを打っているのだろう。やや間があって、晶馬が携帯をポケットから取り出す。いったい何をやりとりしているのか。何故今日も遅刻したのか。あれこれ考え始めると、山下はたまらなくなる。二人の中には絶対に入り込めないという事実を見せつけられている気がした。
彼らは生まれる前から一緒にいたのだから、当然と言えば当然だった。
「よっ、高倉弟」
次の休み時間、山下は席でぐったりとしている晶馬に声をかけた。
晶馬はこちらを見ると顔を上げ続けるのもだるい、と言わんばかりに頬杖をついた。
「なんだ……山下か」
「なんだとはなんだ、相変わらず冷たいやつだなー」
「今すごく眠いんだよ」
だから放っておいて、と言外に意味が含まれていたのだろうが、山下はそれを無視した。
「なーなー、お前最近遅刻多いけど、何かあったのかよ? まじめな高倉弟らしくない」
「……色々あってさ」
「ははーん。もしかして、この間追いかけてた桜花御苑女子の子と何かあったんだろっ!」
あからさまに口ごもるので、山下は前から言うか、言うまいか悩んでいたことをついに話題に出した。本当のことを知りたいという欲求が、本当のことを知って傷つくかもしれない恐怖を上回った。結局晶馬はあの日、学校へこなかった。同じく冠葉も欠席していたことがずっと気になっていたが、「そそっ、それは!」と晶馬が明らかに図星を突かれたとばかりに喋りはじめたので意識がすっかりそちらへ飛んでしまった。
「違うんだよ! あの子を追ってたのはそういうことじゃなくて……ひま、じゃなくて人助けのためなんだ。それだけだし、別に山下が期待してそうなことなんて何もないから!」
焦っているときの彼は百面相のようにころころと表情を変えるので、見ていてとても面白い。これを見たいがために、山下は習慣のように晶馬にじゃれついたり、苦手な話(たとえば女の子のこととか)を振ったりする。たいていは相手にされないが、今日のように過剰に反応してくれることもある。それだけあの桜花女子の子となにかがある、と考えていいだろう。
確かあの女の子は、以前晶馬をお茶かなにかに誘った時たまたますれ違った子だ。なかなかかわいかったし、彼女の意志の強そうな瞳は押しに弱いところがある晶馬とは対照的で、惹かれるところがあるのかもしれなかった。人間、自分にないものを持っている人に惚れると言うし。
ついに高倉弟にもまともなラブが到来したか。みんなに祝福されて、明るい道を歩いていけるような恋が。素敵で、幸せになれるような、人間らしい健全なものが心に芽生えたのだ。ほっとしたけれど、やはりこれはこれで寂しいものがあった。
山下が感慨にふけっているのを妨げるように予鈴が鳴った。「あとで詳しく聞かせろよ」と言い残し、自分の席に戻る。
「おいっ、誤解するなよ! 本当になんでもないんだから!」
晶馬の言葉をそのまま信じたいと思うこと自体、全然吹っ切れてない証拠だよなあ、と山下は自嘲するような笑みを浮かべるしかなかった。
山下は晶馬のことが好きだった。
彼はごく普通の男子高校生として生きてきたし、十七年のそれなりな人生の範疇で、楽しいことや辛いことも経験してきた。元よりプラス思考で物事を深く考える性格ではなかったから、学生生活は適当に女の子と遊んで青春しつつ過ごせばいいと思っていた。なぜか色気もそっけもない男子校に入ってしまってからは、似たように考えている友人たちとつるみながら他校や街中の女の子を眺めてはあの子がかわいいだの、胸が大きいだの、そんな風にばかをやって一般的な男子生徒として過ごしてきたつもりだった。
だから晶馬に友情とは言い難い想いを持ってしまったと自覚したとき、切なさや苦しさ覚える前に、まず驚きがあった。俺って同性に恋しちゃってるの? 意外とまともじゃないってことか。と、案外冷静に彼は自分の感情を受け入れた。受け入れた上で何度も諦めようとしたがうまくいかず、結局諦めることを諦めたまま現在に至っている。海の中で熱い炎が渦巻いているような、そんな恋だった。
晶馬は人当たりも良く、冗談には律儀に冗談で返す性格だったから、みな彼を気軽に遊べる友達にしたがった。彼の兄が校内で一目置かれていることもあり、あわよくばそのツテで女の子とお近づきになりたいと考えている生徒もいたのかもしれない。それを知ってか、あるいは他の理由があったのか、山下はその両方だと考えているが、晶馬は必要以上に誰かと仲良くなろうとしなかった。踏み込めない一線がきっちり引かれていて、心の内を見せることは決してない。学校には通わないといけないから毎日来ているだけで、恋だとか友情だとか青春の類を求める気は全くないようだった。いつも窓の外を見てはどこか遠い、山下にはあずかり知ることのできない世界に思いを馳せていた。
放課後、のろのろと荷物をまとめ教室から出ていこうとする晶馬を山下は引きとめた。普段ならさっさと下校してしまうのに、今日は妙に動作が緩慢だ。授業中には当てられたところを聞き返して注意を受け、昼休みにはお弁当をひっくり返すし、らしくないことが続いた。いつもはきっちり閉じている制服のボタンが一つ外れているのにも全く気づいていないようだ。
教室は閑散としていて、開け放たれた窓から部活動の掛け声やボールを蹴る音が西日と共に入ってくる。担任の多蕗が残っている数名の生徒に早く帰るように促しつつ教室から出ていった。冠葉の姿はとっくに消えていたので、晶馬と話すのに都合がいいと思った。今日もまた女の子を泣かせに行ったのだろうか。
「高倉弟ー!」
用があるからと逃げ出そうとする晶馬の首元をがっちり腕でホールドし、顔を近づけて問う。
「今日こそはきっちり聞かせてもらうからな、さっきの話」
「何を、っていうか本当にそんな関係じゃないって」
「ふーん? さっきは人助けだって言ってたよな」
「そうなんだよ。あの子とはただの友達で、僕はその子と、その子が好きな人をくっつけようとしてるだけで」
「高倉弟がキューピッド役ぅ? それはまた頼りないなあ」
「自分でもそう思うよ……成功させないとだめだって、全部なくなっちゃうってわかってるのに」
何とはなしに叩いた軽口に、晶馬のトーンが沈んだ。口にしてはならないことを言ってしまったらしいが、事情をよく知らないまま繕おうとしても余計に傷つけるだけかもしれない。黙っていると耳元で尖った声が聞こえた。
「首、苦しい」
先ほどまでと雰囲気ががらりと変わり、その瞳は冷たさを帯びる。首に巻きつけていた腕を山下が解くと、晶馬はそばの机に寄りかかって溜息をついた。黒くて長いまつげが伏せられ、目元に影を落とした。疲れもあるのだろうか、憂いを含んだ儚げな表情は普段とは別人だった。この表情を山下は何度か見たことがある。決まって、ある人物のことを考えているときだ。
晶馬にまともな恋愛は訪れていないのだと確信した。これは拙く甘やかな恋煩いを起こした人間がする顔ではない。もっとゆがんでいて、そして救いようがない。
その正体を知りたいと、その中に触れたいと思っても、自分はただの友人その一だった。本質に触れることのできる人間は、恐らく“彼”しかいない。それが誰なのか山下にはわかっている。
窓から射す橙色の光が、自分たちしかいない教室を異空間のように切り取り、染めていく。
晶馬と二人きりになれる機会はあまりない。誘ってもかわされてしまうことがほとんどだからだ。ここで“彼”のことを聞き、踏ん切りをつけるいいチャンスだ。
「お前って、好きなやつ、いるんだろ」
出しぬけに問うたくせに、本当は答えを聞きたくなかった。しかしこのまともでない気持ちを捨て、早く普通の高校生に戻りたい、戻らなければならないとも思っていた。晶馬がそいつへの思いを直接口にしてくれたら、すっぱり諦めることができるかもしれないという期待があった。
とうの昔に知っている。晶馬が実兄である冠葉を好きなことくらい。
知りたくなくたって、見てれば嫌でもわかってしまう。
晶馬は顔をしかめ、「いきなり何?」と山下を見上げた。
山下が何も言わずに晶馬を見つめていると、やがて観念をしたように口を開く。
「いるよ。ずっと前から。だからってどうもしないし、このままいつか終わってくれるのを待つだけだよ」
いつか終わる。
その『終わる』とき、山下の届かないところに晶馬がいってしまう気がした。
死ぬことと同じくらい現実味のない言葉だった。
「僕はその人にとって、その人が好きな子の代わりでしかない。その人は僕を受け入れてくれてるから、それでもいいんだ」
「なんだよ、それ」
「必要とされてるだけきっといいほうなんだよ」
そこに感情が存在しないような、乾いた口調だった。代わりでいいと自分で認めてしまうまで、どれだけの葛藤と諦めがあったのか山下にはわからない。わかってあげることができない。たださらさらとした言葉が晶馬の唇からこぼれた。
晶馬は冠葉が好きで、冠葉は他の誰かが好きだという。どうしようもなく完結してしまっている事実であり、そこに未来はない。
俺は、こんなに―――こんなに好きだっていうのに。
衝動的に山下は晶馬を抱きしめていた。いつものじゃれ合いとは違い、山下は言うべき言葉を失ったまま晶馬の体温を感じていた。手のひらに触れるふわりとした髪の毛が気持ちいい。晶馬の吐息が首筋にあたって山下の心臓が震えた。
「山下、僕、女の子じゃないよ」
晶馬がゆっくりと山下の腕の中から離れ、静かに告げる。
「誰かの代わりでいるのって、やっぱり、辛いかもしれない」
そう言って、困ったように薄く笑った。自分でもなぜこんなことを口にしてしまったのかわからないようだ。どういう表情をつくっていいか思い浮かばず、とりあえず笑ってみることにしたのだろう。いっそ泣いてくれたほうがよかったのに、晶馬は痛々しい笑みを見せるばかりだった。
山下はようやく核心に触れることができた気がした。ずっと固く閉じていた心の内を、初めて見せてくれた。
「だったらやめちゃえよ。そんなやつのことなんて」
「わからないんだよ。いつもは嬉しいのに、それが急に辛くなるときがあるんだ……でも、山下にも代わりって思われるのはやだ、かもしれない」
「俺はお前のこと、誰かの代わりだなんて思ってない」
「……そっか」
「逆にさ、お前の好きなそいつと、俺が代わってやれれば良かったのにな」
そうだったら、晶馬にこんな顔はさせないのに。
俺が冠葉の代わりになれたらいいのに。
唐突に、山下は中学生のとき、クラスメイトの女の子に告白したことを思い出した。相手に想いを伝えて、その後に言うべきこと―――付き合ってほしい、と言った。その時の自分と今の自分は別人なのかもしれない。あの溌剌としたあわい気持ちを今は取り返せない。
山下は晶馬が好きで、晶馬は冠葉が好きだ。晶馬がそうであるように、山下の気持ちにも未来はなかった。
好きだと相手に言ってしまった時点で全ては終わってしまう。その先にある、これからの話をすることは決してできない。
晶馬が冠葉に何も言わずに外的要因による『終わり』をじっと待っているのは、自分でその恋を終わらせてしまうのが怖いからだ。ドアを開けた先には何もないとわかっているから、それを開けないで部屋の中にいる。部屋の中でならドアの先にある景色を自由に想像できるし、もしかしたら、万に一つの可能性で、その景色がドアを隔てて目の前にあるかもしれないと心の安寧を保つこともできる。
山下にはそれが痛いほどわかった。今の自分と同じだからだ。
晶馬には好きだと言いたくない。少なくとも自分の手では終わらせたくないから。
「高倉弟、俺たち友達なんだからな。何かあったら話聞くから」
「うん」
「あっ、前に話したすっげーかわいい子がいる店、今度こそ行こうな! よし決まり決まり!」
「ええっ、それはちょっと……」
あからさまに眉を寄せて嫌がる晶馬に愛しさがこみ上げて、もう一度その細い背中に手をまわした。
晶馬はされるがままに顔を相手の肩に埋めると、そこに自分がいるのを、抱きしめられているのを確認するように山下の腕をぎゅっと握った。
「ありがとう」
消え入りそうなくぐもった声が感触をともなって、確かに聞こえた。
ドヴォルザークの『家路』が教室いっぱいに響いている。
日はもう暮れはじめ、夜が侵食する。あと数十分もしないうちに弱々しい光は消え去ってしまうだろう。『家路』にかき消されて、物音も声も何も聞こえない。山下に寄りかかって眠っている晶馬の規則正しい寝息が、てのひらを通して伝わってくる。閉じられた目元の長いまつげについた、涙になりきれなかった水滴がきらきらと光った。
こんな場所で眠り込んでしまうほど、晶馬は疲れていたのだろう。欠席、遅刻の多さや授業中に毎回行き来する冠葉とのメール、そしてあの桜花御苑女子の女の子。ここ最近で頭を悩ますことが雪崩のようにやってきて、それに対処しきれず今日、ただの友人である自分に本心を少しだけ見せてしまったのかもしれない。たとえ不本意だったとしても、山下はそれで十分だと思う。
晶馬を取り巻く問題がなんなのか知りたいし、助けにだってなりたい。でも事情を何も知らないまま、学校でじゃれあったり、断られるとわかっていてナンパに誘ってみたり、今みたいに晶馬が眠っているときにそばにいてやったり、そうしていた方が晶馬とっては落ち着くのかもしれない。自分の役割は事情を知らない友人でいることで、逃げ場を作ってやるのが最善なのだろう。
BGMに合わせて下校するよう放送が流れる。教室は薄暗く、外で電灯が煌々と輝いているのが見えた。もうすぐ見回りの教師がここへやってくるだろう。
このまま時が止まればいいと陳腐なことを思った。苦笑いしたかったのに胸が締め付けられて、喉がひくついた。泣きそうになっているのに気付いて思わず晶馬を抱きよせた。何も考えていない、あどけない寝顔がすぐそばにある。
何かの間違いであれと願うほど、晶馬を好きになってしまった。
俺も晶馬も行き止まって先を見い出せないその気持ちを抱えながら、ただ『終わり』がくるときを待つしかない。
山下洋介はどこまでも山下洋介で、決して高倉冠葉にはなれない。
代わりになってあげられない。
晶馬が自分を好きになることなんてなく、ひたすらに冠葉を愛し続け、この先も苦しみ続けるのだろう。
何もできないことがが悔しくて辛い。だから本当は、全て諦めて、やめてしまいたい。
それでも好きなのだ。もう、取り返しがつかないほどに。
山下はそっと晶馬の唇を自分のものと重ね合わせた。
柔らかい感触が意識をどこか遠くへ持ち去っていく。
身動きのとれない全てが真っ暗闇の泥濘のなかで、指先が何かに触れた。手探りでそれを掴みたぐり寄せ、離さないように握りしめる。なにがあっても、絶対に放したくないと思った。
悲しみで覆われた小さな幸せが、確かにそこにはあったから。
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