晶馬が事故に遭ったと聞いた瞬間、脳裏に運命という言葉がぐるぐるとまわった。認めたくはなかったが、俺たち家族にまとわりつく因果を感じずにはいられなかった。
表情のないクリーム色の扉の上には「手術中」と鈍く光るランプが何かの宿命のように掲げられていた。あれが消えた瞬間に、晶馬の生死は決まってしまう。
医者から早口で要領を得ない説明をされ、俺と陽毬はその場に取り残された。よくドラマで見かける手術室前の椅子は実際にはない。以前、陽毬が治るあてのない手術をしていた際にそれを学んだ。俺たちは少し離れたところにある待合室でその時を待つしかなかった。そこには荻野目苹果の姿もあった。全身がずぶ濡れで病院から借りたのだろうか、バスタオルを肩にかけている。身につけているのは黒のスリップ一枚きりで、うつむいたままこちらを見ようともしない。
「荻野目さん」
声に反応して荻野目苹果はこちらを見た。絶望に満ちた表情で浮かべ、泣きはらした目は赤くなっていた。俺はそれよりも、彼女が両手で抱えこんでいるノートに意識を向けていた。ピンク色の文字でDiaryと書かれている。あれがピングドラムに違いない。陽毬を助ける、たった一つの手段。
陽毬の見ている目の前だというのに、俺は無意識にその日記を荻野目苹果から力ずくで奪っていた。そして彼女はもちろん、その友達である陽毬さえも間接的に傷つけている。陽毬が怯えたように俺と荻野目苹果の争いを見ている。
陽毬のためにやっているのに、これではまるで本末転倒じゃないか。
急に思考が混乱し始めてうまく考えがまとまらない。なんで晶馬が事故に遭ったのか。なんで陽毬はあの時死んでしまったのか。なんで両親は俺たちを置いていってしまったのか。
どうして自分たちは幸せになれないのか。
「いやっ、返して!」
「冠ちゃん! どうしたの、冠ちゃん!」
とにかく、窃盗行為だろうがモラルに反していようがどうでもいい。これさえあれば陽毬は助かるのだ。そして俺たちは幸せになれる。そうに決まっている。
奪い取った日記に目をやると、興奮しきった身体が急激に冷えていくのを感じた。日記は真っ二つに裂かれていた。まさか無理やり彼女の手から引きはがしたときに勢い余って破いてしまったのだろうかとあたりを見渡すが、その片割れはない。どこに行ったとうろたえている間に荻野目苹果が俺から日記を取り返した。
「おい!」
「とられちゃった……誰かに、とられちゃった」
「誰かって誰にだよ」
「そんなのわからない!」
荻野目苹果は半分しかない日記を再び胸に抱くと、そのまま床にへたり込んでしまった。ごめんなさい、ごめんなさいとうわ言のように呟く。誰に謝っているのか。おそらく晶馬だろう。詳しく聞き出すのはこの様子じゃ無理だろうが、あいつのお人よしがこの変態女にも如何なく発揮されてしまったことだけはわかった。気の強そうな瞳が一転、涙にぬれるのを見ると、それ以上何かを言う気は失せてしまった。陽毬は状況がまったくつかめないらしく、声を荒げてしまった俺とすすり泣く荻野目苹果を不安そうに見ている。かく言う自身はすっかり冷めきってしまって、そんな風に動揺している二人を眺めていると落ち着いていられた。幼かった頃から、長男として弟と妹が泣いているときこそしっかりしなければと言い聞かせていたお陰だと思う。兄であることは俺にとって一番のアイデンティティでもあった。
改めて陽毬の姿を見る。大丈夫だ。生きている、呼吸をしている。
あの日記が本当にピングドラムならば、半分に割かれた時点で帽子が姿を現しごちゃごちゃ言ってくるか、最悪陽毬はそのまま死んでしまっていただろう。
帽子側からこちらを呼び出すことがないのは、つまり日記はピングドラムではないか、あるいは失った半分を取り返せば問題ないということだ。
平気だ、まだ終わったわけじゃない。
そう考えていないとここに立っていられなくなる。
「冠ちゃん、晶ちゃんは、絶対大丈夫だよね?」
陽毬は震える声でそう言うと荻野目苹果のそばにしゃがみこみ、彼女の肩にそっと手を置いた。俺の妹は優しい。俺と血がつながっているとは思えないほどに。いっそつながっていなければどんなによかっただろう。
「ああ」
そう答えるしかなかった。
誰一人言葉を発さない。俺は死刑執行を待つ罪人のような気持ちで壁に背を預けていた。罰は甘んじて受け入れるしかないのだと諦め交じりに決意をする。
陽毬は荻野目苹果に寄りそうようにしてソファに腰かけている。
陽毬と晶馬は似ていると改めて思った。陽毬の目を見ると晶馬を、晶馬の目を見ると陽毬の姿が否応なく浮かんだ。
俺は兄として、陽毬に対して向けてはいけない感情を持っている。また同じように、晶馬のことも想っていたのかもしれない。ずっと知らないふりをしてきたが、こんな状況になってしまった今なら認めてしまうことができた。
弟である晶馬を抱いてしまったのは、自分がどうしようもなく弱い人間だったからだ。寂しさは他人では埋められそうになかったし、そんなことは初めからわかっていた。晶馬と一緒に暮らして、晶馬がすぐそばにいて、罰と悲しみを分け合う。それだけ十分なはずなのに、俺の弱さは温もりを求めてしまう。
ならばなるべく接点を持たないようにしようと、家にはめったに帰らなかった。その間俺はどこかの女の家に転がり込んでいたのだろうが、振り返ってみると当時のことはほとんど思いだせなかった。
それから少し経って、寂しさのタガが外れ弟を押し倒したとき、俺は本当に異常者なのだと改めて実感した。胸には倒錯した征服欲が広がり、罪悪感が後を追ってそこら中を突き刺した。あいつの表情は俺に対する憐れみで満ちていた。その双眸の奥に冷たい光を見て、はっと息を飲んだ。そう言えば最後に笑顔を見たのはいつだっただろう。遠い昔のように思えた。もう晶馬が心の底から楽しいと感じたり、笑ったりすることは二度とないのかもしれない。確信めいた予感だった。晶馬が晶馬でなくなったような気がした。
こんな風になるまで弟を放っておいた自分を許せない気持ちと、これからしようとしている行為の甘さに挟まれて、現実が乖離していく。
「冠葉」
晶馬が耳元でささやく。何を思って兄に組み敷かれ、背に手をまわしているのか、俺には読みとることができない。声はただ甘く、空虚だった。
俺は取り返しのつかないことをしている。毎回、そう思っているのに赤い唇に吸いつき、細い首筋を咬むのをやめられなかった。晶馬のあたたかい体温と、触れると悦びにはねる身体が空白を埋めていった。抱かれているときだけ、晶馬の冷たさを帯びた瞳は情欲に潤んだものになる。声をあげて俺にしがみつく弟は、何も欠けていないまともな人間に見えた。
肉体的快楽を求める行為は、俺たちにとって逃避でもあった。
朝起きて学校へ通い家に帰るとすぐに互いを求めあい、どちらがどちらの身体かわからないくらい、自分が相手に溶け込んでしまうくらい、それに耽る。気づけば眠っていて、次の日がやってきている。ずっと空を飛んでいるような心地だった。
陽毬が退院するまでそんな生活が続いた。余命いくばくもない妹が一度死に、そして不思議な力で生き返って平穏な日常が戻ってくると、俺は晶馬に触れなくなった。陽毬がいて、晶馬がいて、俺がいる。ずっと望んでいた家族の形がまたできたのに、何かをしてしまうことでそのバランスが崩れるのが怖かった。いったん壊れたら、二度と修復できない気がした。人の心と同じように。
晶馬が気にするそぶりを全く見せなかったことに、ひどく安心した。きっと晶馬は憐憫の情から仕方なく俺に抱かれていただけであって、後腐れなくあの異常な関係は終わったのだ。ずる賢い自分は都合の良いようにそう解釈して身を守り、何も考えないようにした。
陽毬の寝顔を見つめているとき、不意に晶馬の顔が重なって映って恐ろしくなった。弟にまでゆがんだ想いを抱いていることを信じたくなかった。陽毬に関しては既にあきらめてさえいたのだ。ずっと前から汚い間違った想いを捨てようとしたが、何度やってもうまくいかなかった。こんなに愛しているのだから仕方ないだろうと開き直ってすらいたのかもしれない。そう考えていたから迷いを持ちながらも、眠っている妹に口づけられたのだと思う。
晶馬とのことはただの傷のなめ合いで、そこに感情はない。
たとえ自分が人間の皮を被った化け物で、まともな心と思考回路を持っていなかったとしても、晶馬は俺にとって弟でしかない。
そう思わなくてはいけない。家族のかたちをこれ以上複雑にしてはいけない。
ピングドラム捜しでお互い行動が別々になったのは好都合だった。晶馬には荻野目苹果の監視を任せ、俺は水面下で俺たち三人をあの家に留め置くための金を得ようと動いていた。そうして必死で家族のため奔走する自分に没頭していれば、まだ気が紛れたのだ。
「冠ちゃん」
遠くに飛ばしていた意識を現実に戻した。面白みのない壁に掛けられた面白みのない時計を見て、ずいぶん時間が経っていたことを知る。
「どうした、陽毬」
「誰かくるよ。お医者さんじゃない? 晶ちゃんの手術、終わったんだよ」
足早に誰かがこちらに向かってくる。
荻野目苹果も長い間伏せていた顔を上げ、今ではすっかり弱々しくなった目線を扉へ向けていた。陽毬は唇を噛みしめて、これからやってくる何らかの辛い事実に耐えようとしている。
俺は陽毬の隣に座ると、そのまま陽毬の小さな手をぎゅっと握った。
陽毬を安心させるためだったのか、自分が心細くなったためだったのかはわからない。どちらにせよ、悲しくなっただけだった。
こうして右手で陽毬を繋ぎとめていても、左手で触れるべき相手は今ここにはいない。
もし晶馬が死んだら、俺はあっという間にだめになるだろう。
いくら陽毬が無事だって、お前がいなかったら意味がない。
俺たちは三人で家族なのだから。
あの台風が過ぎ去った日、隣に立つ父さんを見上げて心の中で誓ったのだ。家族を守ると。
誓いを糧に今まで生きてきた。二人が笑って、俺がいて、家族がそこに存在するためならどんなことだってした。
それなのに、大切なものは全てこぼれおちてしまう。砂が指の隙間からさらさら流れるように、手のひらには何も残らない。
晶馬。たった一人の、俺の弟。
死んでほしくない。
絶対に、死なせたくない。
目の前の扉が静かな音を立てて開いた。手術衣を着た医師がすっと現れる。
これは運命なのかもしれないと思った。
本当は、そんな都合のいい単語で俺たちのことを知ったように決めつけてほしくなかった。
父、母、俺、晶馬、陽毬。この家族に起きた全てのことを考える。やはり俺は運命という言葉を信じるしかないのだと悟った。
それでも。
俺は運命という言葉が嫌いだ。
その運命とやらを信じはしても、受け入れるかどうかはまた別の話だ。
受け入れられないのならば、することは一つしかない。
「……晶馬」
お前のために、きっと運命は変えてみせるよ。
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