ss1 | ナノ






空を飛びながら思うこと
[晶馬→冠葉]


 ピングドラムだとか、日記だとか、もしかしたら自分が轢かれてしまうだとか、そんなことは考えなかった。僕は咄嗟に荻野目さんを道路の端へ突き飛ばした。なぜ彼女を自分の身を呈して庇ったのかと問われても、明瞭な答えが頭に浮かばない。確かに荻野目さんは、あの日記の存在を抜きにしても気がかりな存在ではあった。彼女の、不自然なほどに綺麗に片付いている家、何年も前に死んでしまったという姉、意志の強い瞳に反して纏っている寂しそうな雰囲気。彼女は僕と近しい感情を秘めているように感じたのだ。そしてそれは恐らく当たっていた。
 さっき非常階段で荻野目さんは「すべては家族のため」と言った。
 詳しいことはわからないけれど、あの言葉が事実なのだ。多蕗への異常で狂気さえ帯びたストーカー行為は彼女自身が本意で望んでいることではない。

 ―――僕も、荻野目さんも。
 家族のために必死になっているだけなのに。

 どうして雨は責めるように僕たちを打ち付け、車が命を刈り取るように眼前に迫ってくるのか。

 車のバンパーがぶつかって、体が宙を舞った。何もかもがスローモーションに見える。荻野目さんは無事だっただろうか。それすらもわからない。意識が遠のく数秒の間で、思い返したのは自分とはおよそ似つかない双子の兄の姿だった。


 冠葉は陽毬を愛している。それに初めて気づいたのはいつだっただろうか、もう思い出せない。いつも陽毬を見る目はとても優しげで、苦しそうにゆがんでいた。兄が妹に恋焦がれているのをずっと見ていた僕は、たぶんその頃から、愛だとか恋だとかがよくわからなくなったのだと思う。陽毬は僕にとってかわいい妹で、兄貴にとっては唯一愛している女性だった。

 両親がいなくなって陽毬が入院して、僕たちは二人ぼっちであの家に取り残された。
 兄貴は陽毬のいない寂しさを他の女性で埋めようとしたのだろう、初めはほとんど家に帰ってこなかった。僕は二人分の食事を作り、一人でそれを食べる。兄貴の分は冷蔵庫にしまっておく。洗い物をしたり洗濯物を畳んだり一通りの家事が済んだ後、風呂に入る。そしてテレビを見ながら眠気がやってくるのを待つ。布団を敷いて電気を消せば、あとはかたく目を閉じるだけだ。例え寝付けなくても目を開けてはだめだ、きっと兄貴が帰ってくるまで起きてしまうだろうし、すぐそばにいたらすがりつきたくなってしまう。それを兄貴は許してくれないだろう。僕だって泣きたいほどに寂しかったし、実際に布団の中で隠れるように泣いたこともある。だけどそれもしばらくすると慣れてしまった。涙は一滴も出なくなったし、悪夢を見てうなされることもなくなった。人は何にでも順応するものだなと僕は感心したものだった。ただ寂しさを感じなくなったことと引き換えに僕の心の中には冷えた塊ができた。もうそれは誰にも、自分自身でさえ溶かせないだろう。

 兄貴が陽毬の代わりに僕を抱くようになったのはしばらく経ってからだった。
 その日兄貴は珍しく早く帰ってきて、玄関を上がるなりに居間でぼんやりテレビを見ていた僕の身体に抱きつき、そのまま畳に押し倒した。背骨がきしむほど抱き寄せられて、陽毬には絶対こんなことしないんだろうなと僕は思った。まるで野生動物のように唇を貪る兄貴は寂しそうで、そんな彼を見ていると僕はなんだか悲しくなってしまい、慰めるように彼の背中に手をまわした。
 テレビの音があっという間に遠くなっていって、僕たちはそれに夢中になった。

 僕たちは罪を重ね続けた。けれど、はじめから絶対に幸せになれないとわかりきっていたから、たいして罪悪感を覚えることもなかった。こうでもしないと兄貴は寂しくてだめになってしまうとわかっていた。他の女の子でなく、陽毬の兄で陽毬と似た顔をしている僕でしかこの役はできない。それは僕の存在意義のような気がして嬉しかったし、兄貴に抱かれることはあたたかくて心地いいことだった。この時だけ、自分はちゃんと生きているのだと実感することができた。

 陽毬が退院して、不思議なペンギン帽で復活して、また家族の形が戻ってきてからは、まるでそれが当たり前だったように兄貴は僕に触れなくなった。僕も何も言わずに兄貴と陽毬の三人で幸せな家族ごっこを始めた。陽毬を本当に愛しているからこそ、あんなかわいらしいキス一つで兄貴の欲望は満たされるのだと襖の間から覗きながら思った。
僕はただの代用品だ。それはわかっているし、それでもいいから冠葉に触れられたいと願ってしまうのは、罪深いことなのだろうか。



 例えばこの事故で僕が死んだら、兄貴はどうするだろう。
 一番にするのは荻野目さんから日記を奪うことに違いない。彼女がどんなに抵抗しても、泣いても、きっと容赦せずにその手から日記をむしり取る。それがあの帽子の求めるピングドラムならば、帽子は陽毬を完全に生き返らせてくれるはずだ。そして陽毬は普通の女の子として生きていける。素晴らしいことだ。僕たちはそのために、ここ数週間あちこち駆け回って頑張ってきたんだから。

 でも僕にはわかっていた。僕が死ねば、三人で築いた家族の形が壊れてしまう。荻野目さんの指摘通り、自分たち兄妹は表面的に「家族」というものを取り繕っているだけだ。その形に最も執着しているのは兄貴で、形を保つために汚い手段で金を得ている。兄貴は自分では上手にやっているとでも思っているのだろうか。ごみ箱からくしゃくしゃになった封筒を見つけた時、僕は少し逡巡して、何も言わないでおこうと決めた。こんなことまでして家族でいる必要なんてないのに。間違っているのに。そう指摘したら兄貴は兄貴でいられなくなる。家族を守る、それが兄にとっての全てで、使命だったからだ。

 僕が死んで、陽毬と兄貴だけになったら恐らく兄貴はだめになってしまう。もちろん陽毬が死んで、僕と兄貴だけになっても同じことだ。三人でないと、きっと、だめになる。


 だから。


 ふと気がつくと、自分の脚がぐにゃりと折れ曲がっているのが見えた。
 本当に僕はここで死ぬのかもしれない。それでもいいと思った。
 兄貴に抱きしめられることも、ないから。



 これで、家族も終わる。

 ごめん。





 「……かんば」




 もう一度だけ、僕を見てほしかった。








back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -