休日の昼、太陽がさんさんと降り注ぐ居間で僕は湯のみ片手にうとうとしていた。お茶はもうぬるくなっていたけど、新たに淹れる気も、飲み干す気にもなれずにいる。ただこうして握っていると、じわじわとあたたかさが手のひらに伝わってくるのが心地よかった。こんなに天気のいい休みの日は久しぶりだ。嬉々として洗濯物を干し終え、掃除に取りかかる前にお茶でも飲もうと一休みしたはいいが、少しすると急に眠気が襲ってきた。家に誰もいないとついつい気がゆるんでしまう。陽毬が再び入院してしまってからは家事がおろそかになりがちで、それを改善しようと決めていたのに。
ああ、もう寝そう。
まあいいか。昼寝した後に掃除すればいいんだし……。
向こうの世界へ行きかけた意識を首根っこ掴んで引きもどしたのは、襖の向こうの台所から聞こえる物音だった。
ごと、ごと、とくぐもった音だ。兄貴が帰ってきたのだろうか。それなら玄関から入ってきたにせよ裏口からにせよ、まず戸やドアの開く音がするはずだ。
もしかしたら泥棒かもと、恐ろしい想像が頭をよぎったが、こんな古い家を狙う空き巣もいないだろうと思い直す。猫かネズミが入り込んだと考える方が現実的だ。
とにかく確認してみないことには始まらない。おそるおそる襖に手をかけた。そうっと引いてみると、そこにいた思いもよらない人物に僕はうわああと悲鳴を上げて腰を抜かしてしまった。
「なっ、なななんで君がいるの!?」
「こんにちは! お邪魔してまーす!」
目の前にいたのは荻野目さんだった。慌てふためく僕に対して、彼女は高い声で実にかわいらしくあいさつをする。文字に起こしたら語尾に☆マークでもつくんじゃないだろうか。しかしその声と、今の状況がまったくかみ合っていない。
荻野目さんは台所の隅の床下を外し、そこから上半身だけを出して這い上がっている最中だったのだ。髪の毛や服はホコリだらけで、クモの巣が服にくっついている。これじゃまるでホラー映画だ。
僕が口をぱくぱく開いて冷や汗を流している間に、彼女は床に上って床板を元の場所にはめ込んだ。
「言ったでしょ? 私は晶馬くんのストーカーだって」
僕に向き直った荻野目さんが、さも当然のように言う。
確かにあの時、電車の中で、言われたけど。
「だからってこれは、ていうか普通に入ってくればいいだろ!」
「えっ、いいの?」
「よくは、ないけど。君と僕が会ったって、互いに傷つくだけだし……」
だから会わないほうがいい。会いたくない。そう言いたいのに、言わなくちゃいけないのに、言葉が出てこない。僕はそれよりも、彼女を汚しているホコリやクモの巣が気になるし、それを取ってあげたいと思った。
僕はやれやれとため息をついて荻野目さんに近寄り、頭に乗っかっている落ち葉を取った。それから両手で髪の毛を梳いてホコリを落とした。ふと荻野目さんと目が合うと、今までの威勢はどうしたのか顔を真っ赤にして固まっている。彼女は視線をそらし、うつむいてしまう。
「どうかした?」
「だって、あの、距離が、近いから」
その言葉に一瞬固まって、僕は慌てて後ずさった。
そんなつもりは全くなかったのだ。ただの老婆心が起こっただけで、あわよくば、なんて思いもしなかった。本当だ。
「ごめん!」
「謝らないでよ、悲しくなるから!」
「……ごめん」
情けなく言う僕に、まだ少し顔の赤い荻野目さんが優しく笑んでいる。他人の家の床下に入り込む破天荒ぶりは変わっていないのに、多蕗に付きまとっていたころとは違う印象を受けた。
僕は荻野目さんに服の汚れを払うように言って、それから彼女を居間へ通した。畳の目に砂が入ると掃除が面倒になるが、フローリングなら掃除機で吸い取ってしまえる。仮にも女の子と家の中で二人きりだというのに、主夫的な発想しか起きない自分にほとほと呆れる。二人分のお茶を淹れてちゃぶ台に置いた。温かいお茶を飲むと、荻野目さんの乱入でざわついていた心が落ち着いた気がした。
陽毬の病状のことや学校のことをぽつぽつと話していると、荻野目さんが唐突に質問を投げかけた。
「ところで晶馬くん、眠くないの?」
意図が読めず首をかしげると、お昼寝にはもってこいの時間じゃない、なんて荻野目さんは言う。
「君が床下から出てこなければ寝てたかも」
「そっか。出てくるタイミングが早かったのね」
「え?」
「ううん、なんでもない。たくさん寝たほうが健康にいいわよ」
「……なんでそんなに僕を寝かせたがるわけ?」
荻野目さんの意思の強そうな瞳が輝き、唇の端をにい、とつりあげた。
この後に言いだすのはたいていがロクでもないことだと僕はいやというほど知っている。
「晶馬くんに膝枕してあげようと思って」
「はあ!?」
「だって男の人って膝枕すると喜ぶんでしょ」
僕は頭を抱えた。さっきは距離が近いだけであんなに顔を赤くして恥じらっていたというのに、よくそんな大胆なことを平気で言えたものだ。気付薬がわりにお茶を一気に飲み干した。
「どうせ雑誌にでも書いてあったんだろ」
「さっすが晶馬くん。でもどうしてわかったの?」
「君のことはだいたいわかるよ」
もちろん応じる気はない。荻野目さんは放っておいてさっさと掃除に取りかかろう、そう思い立ちあがろうとするとめまいがして、僕はちゃぶ台に肘をついた。身体に上手く力が入らない。ずるずるとちゃぶ台に寄りかかりながら、いったいどうしてしまったのだろうと思う。気分が悪いわけじゃない、むしろぼうっとして気持ちが良かった。これはたぶん、眠気だ。でもなんでこんなに眠いんだろう?
狭まってくる視界の端でペンギン2号がこてんと横たわっているのが見えた。
「効くのが遅かったわね。もう少し増やしてもよかったみたい」
頭上から声が降ってくる。
そういえば、床板を外し家に侵入していた荻野目さんの所作は妙に慣れていた感じがする。今日僕に見つかるまでに何度か入ってきたことがあったのかもしれない。
そして、僕が暴力的な眠気に襲われるのはこれが初めてではない。あの時はモンブランに、今回はおそらく、お茶っ葉に荻野目さんは薬を仕込んだのだ。そう考えれば普段昼寝などしない僕が急に眠くなったのも、お茶を一気飲みした直後にこうなったのも、すべて説明がつく。前回と同じで彼女はお茶に一切口をつけていなかった。
ああ、なんてことをしてくれるんだこの子は。
まぶたが重い。
眠ってしまう直前、荻野目さんの慈しむような優しい声が聞こえた。
「おやすみなさい」
意識がだんだん覚醒してくる。
頭の下に温かくてやわらかい感触があり、それは一生このままでいたいと思うほど気持ちよかった。
ぶにぶにと頬をつつかれる。僕が唸りながら寝がえりをうつと「くすぐったい」なんて笑う声が聞こえた。うっすら目を開くと荻野目さんがニコニコ、というよりニヤニヤしながら僕を覗きこんでいた。
「うええええええっ!?」
僕は転がるように荻野目さんから離れ、起き上がろうとしたが、その時ちゃぶ台にしたたかに頭をぶつけてしまった。衝撃で湯のみが倒れてお茶が畳にこぼれたけど、そんなことを気にしていられないくらい動転していた。頭がずきずきと痛んだが、そのお陰で眠気も一気に覚めた。ああそうだ、膝枕がしたいとこのサイコ娘が突然言い出し、僕はまたもや薬を盛られてしまったのだ。
「おはよう、晶馬くん」
「……おはよう」
もしかしたら僕は、とんでもなく面倒な女の子に付きまとわれてしまったのではないか。
ただ、こんな犯罪めいたことを平気でする彼女を咎める気が起きない自分にも間違いなく問題だ。
どっちもどっち、なのかもしれない。
「念願の膝枕、ついに夢が叶ったわ!」
「それはよかったね」
普通ならこの会話、男女が逆なんじゃないだろうかと思う。
見て見て、と荻野目さんが携帯のディスプレイをこちらに向ける。
そこには荻野目さんの太ももの上で寝こける、まぬけ面をした僕の顔が映っていた。
「うわ、ちょっと消してよそんな写真!」
「消すわけないでしょ、永久保存よ! 一生大切にするんだから」
僕が携帯を取ろうとすると、荻野目さんが素早く手をひっこめ後ろ手にまわしてしまった。
本日二度目の大きなため息をつく。
「で、あの、私のこと」
荻野目さんが伺うような目で僕を見た。彼女はそれ以上言葉を続けてくれない。
彼女が望むような関係は、結果的に僕たちに不幸を与えるだろう。だからきっぱりと否定しなければならないのに、その言葉をどうしても言いたくなかった。何だかんだ言って、彼女にこうして振り回されているのを悪く思っていないのだ。かといって、彼女を恋愛的な意味で好いているわけではない。おそらくは。
僕には誰かを好きになったり、愛したりすることがよくわかっていない。もしかしたらその能力が欠けているのかもしれない。
だから今、どう言葉を返せばいいかがわからない。
「荻野目さん、掃除手伝ってくれない?」
「そうじ?」
「兄貴が帰ってくる前に終わらせたいんだ。二人ならすぐ片付きそうだし」
「わかったわ、この私に任せて!」
そう意気込んで腕まくりをするのを見て、少し安心した。結局、彼女と自分を傷つけたくなくて、結論を先延ばしにしているだけに過ぎない。けれど、今こうして一緒にいられるだけで僕も、きっと隣で笑っている荻野目さんも、楽しい気持ちになれるのだ。だからもう少しだけ、このままでいたい。
それに雑誌のいう通り、膝枕に男は、というか僕は弱いみたいだった。強制的に膝枕で寝かせられたが、正直言うと嬉しかった。
こんなこと荻野目さんには絶対に言わないけど。
「床下に引っ越ししたいなあ。まだブルーシート敷いてるだけなの」
「あ、そうなんだ。よかったあ」
「よくない! 一人で荷物を運ぶのが大変なんだ。誰か手伝ってもらおうかな」
「あんな引っ越しを手伝うなんてお人よし、僕くらいだと思うけど」
「……もしかしてー、やきもち焼いてる?」
「ばか! そんなわけないだろ!」
「そっか。なら誰かに頼もうっと。力持ちの男の子とか」
「ああもう! いいよ、僕がまた手伝えばいいんだろ! 手伝います!」
「やった! ありがとう晶馬くん!」
「……はあ……」
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