今日は日曜日だから、ママが慌ただしく仕事に出かけることも、やたら早口でまくしたるニュース番組を見ることもない。明るい日差しが開け放たれた窓を通って部屋を満たし、風でカーテンがふくらんでいる。テレビはどこかの観光地の海鮮料理を取り上げた旅番組を流していた。
空気は少し冷たくて、それを吸うと頭を覆っていた眠気がだんだん飛んでいった。ソファに座ってあくびを一つして、キッチンで朝ごはんをつくるママを眺めた。
「おはよう苹果、朝ごはんは食べる?」
「うん」
ママが朝ごはんをテーブルに置く。
四人掛けのテーブルのはずなのに、使われる椅子はいつも二脚だけだ。それがいやで、寂しくて、そのぽっかりと空いた二人分のスペースを埋めようとして、私はあの日記の通りに動いて、家族を元に戻そうとしていた。亡くなった人は戻ってこないとわかっていたけど、せめてパパだけでも、隣に座ってほしかった。
いつだってこの家は広くて寒々としていた。帰宅するたび、誰に言うでもなくただいまを言ってから、がらんとしたリビングを見ると寂しさを覚えた。それを払拭するように自室に逃げ込み、ママが帰ってくるまで過ごす。私の望んでいるリビングはあんなに薄暗いものじゃなく、コーラルピンクの笑顔がこぼれる空間だった。
「どうしたの? 食べないの?」
「ううん、なんでもない。いただきます」
「ぼーっとしちゃって。休みだからって遅くまで寝てるからよ」
「それはママもだよね」
私はママの着ているざっくりとしたセーターを指差した。
仕事はばりばりこなしているらしいが、家だと割と抜けたところがあるのだ。今みたいに。
「裏表、逆に着てるよ」
ママはあらやだ、なんておばさんくさいセリフを言いながら服を着直す。
その様子がおかしくて思わず吹き出すと、ママも恥ずかしさをごまかすように早口で言う。
「もう、早く言ってよ、さっきから変だなあと思ってたのよね」
二人で笑い合う。
たとえ部屋が広すぎたって、テーブルの半分が空いていたって、こうやって私とママがいれば、きっと立派な家族なんだ。
私は桃果じゃない。苹果でいていいんだ。
こんな当たり前のことに気付かせてくれたのは彼だ。彼は私のなかでどんどん特別な人になっていった。
今の私なら、あの人のためになにかできると思った。
「ねえママ」
「なに?」
「教えてほしいお料理があるの、えっと、カレー以外の」
ママはかじっていたトーストを手に持ったまま一瞬驚いたような顔をして―――それから、目を細めて微笑んだ。止まった時計が再び動き出すような感覚。
「あの子のためでしょう」
「え?」
「高倉くん。あの子に作ってあげるんでしょ、言わなくてもわかるわよ」
私はどきりとして目をそらしてしまい、暗に肯定してしまう。そこには気恥しさもあったし、その“高倉くん”の両親がママの娘、私の姉を殺した犯人であることへの後ろめたさもあった。
こう言ったら桃果に悪いかもしれないが、私と桃果自体はまったく関わり合いがない。姉の顔は写真でしか知らないし、会話も、手だって握ったこともない。姉を失ったよりも、家族が離散する原因を作ったことのほうが私にとっては憤りを感じるものだった。でも、ママは違う。大事に育てた娘を彼らに奪われたのだ。
そんな人の子供のために料理を教えてほしいなんて、私はひどいことを言っているのかもしれない。
「どうしたの、そんなに照れちゃって。そうね、あの子感じのいい子だったものねえ。苹果が惚れるのもわかるわ」
「ほ、ほほ惚れるなんて言わないでよ! 別にそういうわけじゃ、その、嫌いではないけど」
嫌いじゃないと認めるのは簡単なのに、好きだと言ってしまうのはひどく恥ずかしかった。
ママは私があたふたしているのをとても嬉しそうに見ている。目の前にいる娘が、世界一親不孝な娘だとは知らない。
ごめんねママ。でももうどうしようもないの。
「苹果にもそういうことをしてあげたいって思う人ができたのね。それで、なにを教えてほしいの?」
「……あのね―――」
◆
前もって連絡しようと思ったけれど、しないことに決めた。もし家にいなくっても、帰ってくるまで待っていればいい。彼が私にそうしてくれたように。
温かい鍋を抱えたまま荻窪まで行く。電車から降りると、なんだか緊張して胸がどきどきした。今までの習慣からか、ついつい出る改札口を間違えてしまう。多蕗さんが住んでいたアパートは北口、これから向かう高倉家があるのは南口のほうだ。踵を返して彼の元へと急いだ。
晶馬くん、おいしいって言ってくれるかな。
カレー以外の料理にはあまり自信がない。
ちゃんと味見もしたし、ママが教えてくれたんだし、たぶん大丈夫なはずだけど、彼の料理のレベルは相当なものだから手放しでほめてくれるとも思えない。嫁をいびる小姑のようにくどくどとお説教に近いアドバイスをされたらどうしよう。一生立ち直れない気がする。
意を決して呼び鈴を鳴らした。
足音が聞こえてこないか耳をそばだてる。反応なし。
もう一度鳴らしてみる。やはり反応がない。
どこかに出かけてるんだろうか。もう一回押してみよう。出ない。もう一回。出ない。もう一回。
ふと我に返ると、呼び鈴をカチカチカチと壊れんばかりに連打している自分に気づく。本来だったらブーと鳴るはずの音が細切れでほとんど聞こえなくて、これでは却って逆効果だと思った。なので今度は数十秒押しっぱなしにしてみるが、相変わらず無反応だった。最後に一応、呼び掛ける。
「晶馬くーん! いないのー?」
しかたない、待っていようか。戸に背をあずけて座り込もうとしたとき、遠慮がちにその戸がそろそろと空いた。大きな瞳がその隙間から見える。
「荻野目さん?」
晶馬くんが私の姿を捉えると、彼は安心したような顔をしてから、不思議そうに首をかしげた。
「いきなりどうしたの、何か用?」
「もう。いたんなら早く開けてよね」
「ごめん、寝てたんだ。すぐに気付いて起きたんだけど、あんまり呼び鈴が鳴ってるから、その……知らない人かと思って」
上手く言葉を濁せるほど彼は器用じゃないことは、出会ってからまだ日の浅い私でもわかる。彼が言葉を繋ぐまで何も言わずに黙っていた。彼が溜息をつく。
「いたずらとか、時たまあるんだ。ずいぶん減ったけど」
あいまいな笑みを浮かべながら、されて当然なんだけどねと呟くのを見ていると、なんだか悲しみより怒りが湧いてくる。私は鍋を片手で抱えると、空いた方の手で晶馬くんのみぞおちに拳を一発入れた。
晶馬くんの身体が上がり框まで吹っ飛ぶ。殴られたみぞおちをさすりながら、涙目で私を見上げる。
「なんでぶつんだよお!」
「暗い! 私はそんな話を聞きにきたんじゃないの」
「っていうか、荻野目さん、何しに来たの?」
言葉に詰まりそうになる。
私は鍋をずいっと突き出すと、なるべく自信満々に聞こえるような声音で言う。
「ロールキャベツ作ってきたの。食べて」
「……いいの?」
「いいに決まってるでしょ。そのために作ってきたんだから」
晶馬くんが驚いたように目をぱちぱちさせて、私の持つ黄色い布に包まれた鍋を見ている。
少し間を置いてからはっとして立ちあがると、私に上がるよう促し自身は奥に引っ込んでいった。かたん、と何かを倒したような物音がする。
靴を脱いで居間に行くと晶馬くんは慌てた様子で布団を片付けていた。こんな時間まで寝ているとは少し意外だ。もうお昼なのに。
陽毬ちゃんとお兄さんがいない部屋は前に来た時よりも広く見えた。玄関でどたばたをやっていたときに誰も様子を見に来なかったから、きっと晶馬くん一人なんだろうなと予想はしていた。陽毬ちゃんは入院中、お兄さんは……どこかへ出かけたのかな。
「兄貴はデートなんじゃないの。どうせまた女の子と一緒だよ」
私の質問に不機嫌そうに返すと、「あーいやだいやだ。冠葉菌がうつる」なんて言いながらちゃぶ台を出す。
「ご飯と味噌汁なら朝の分がまだあるからすぐに出せるよ」
「朝ごはんは作ったの? ずっと寝てたのかと思った」
「そうしようと思ったんだけど、体がついていかないというか、勝手に起きちゃってさ。一応兄貴にも食べさせないといけないし」
なるほど、と晶馬くんがパジャマじゃなく普段の私服姿なのに合点がいった。それにしても面倒見がいいというかお人よしというか、完全に主夫だ。
晶馬くんが嬉しそうに私から鍋を受け取る。
「荻野目さんがきてくれてよかった。家に一人でいるとなんだか落ち着かないんだ。一日が長くって困るよ」
彼はロールキャベツと味噌汁を温め直し、なにか他に出せそうな物はないかと冷蔵庫を開けている。その後ろ姿を私はじっと、目に焼き付けるように見ていた。
彼と私は本当に似ていた。
加害者の子供と、被害者の妹。立場は正反対でも、家族に飢えた寂しい人間なのは同じだった。眠りについて意識を手放すことが、一人でいることを忘れさせてくれる手っ取り早い方法だと知っていた。
そんな二人がお互いの寂しさを埋め合うのはできないだろうと思う。求めているものは家族であって、二人はどこまでも他人でしかないからだ。
でも今の私なら、きっと、彼を支えることができる。
そうだよね、桃果。
私は荻野目苹果なんだから。
「おいしそうだなあ、食べていい?」
晶馬くんが目を輝かせながら私に聞く。
ちゃぶ台の真ん中に置かれているのは紛れもなく私(とママ)が作ったロールキャベツだ。急に緊張がぶり返してくる。
食べてほしくなかったら持ってこないわよ、なんてつっけんどんに答えてしまうと、晶馬くんは律儀に手を合わせて「いただきます」と言ってから、ロールキャベツを一口食べた。
「おいしい」
「ほんとに?」
「本当だよ!」
夢中になってロールキャベツをぱくついている晶馬くんは、普段よりずっと子供っぽく見えた。なんの変哲もない、家庭的で、誰かが困っているのを放っておけない「いいヤツ」で、悟ったような優しい目をしている普通の高校二年生。いつもの姿からは想像できないけど、電話の横に置いてある写真立てが伏せられていること、あのとき病院で上の空だった彼が呟いていたこと、晶馬くんは暗いものを抱え込んで生きているのだと私は知っている。
私はそんな彼を好きになった。
これはもう変えられないことだ。
「ロールキャベツ、おいしかったなあ。陽毬にも食べさせてあげたかったよ」
帰りがけ、家の前で晶馬くんと話をしていると、ふと彼の指がポストに貼られたガムテープをなぞった。一陣の冷たい風が吹き、彼のふわりとした髪の毛がなびいた。声のトーンを下げ、伏し目がちに言う。
「今日はありがとう。すごく嬉しかった。あの……でも」
ガムテープの横には、冠葉、晶馬、陽毬の文字がある。恐らく両親の名前があの下に書かれているのだろう。文字なんて消してしまえばいいのに、それができずにテープで隠しているのは、それをはがせる日をずっと待っているからだ。両親が帰ってくると兄妹は今でも信じ続けている。たとえ多くの人を亡きものにした犯罪者だとしても。
晶馬くんが言おうとしていることはすぐにわかった。どうせ、立場を考えてもう会わない方がいいとか湿っぽくて悲しい言葉をいうに決まっている。
それが何だっていうのよ。
私は空の鍋を振り上げて晶馬くんの頭にぶつけた。
ごおおんと良い音が響いて、晶馬くんの身体がそのまま後ろに倒れた。尻もちをつきながら殴られた頭を押さえ、両目をうるませて私に叫ぶ。
「いっってええええええ! だからなんでぶつんだよお!」
「また、くるから」
「―――え?」
「じゃあね」
きょとんとしている晶馬くんを置き去りにしたまま、私は背を向けて走りだした。後ろから「ちょっと、荻野目さん!」と焦ったような彼の声が聞こえたが無視した。今振り向いたら泣いているのがばれてしまう。私の存在は、もしかしたら晶馬くんにとって罪悪感を呼び起こすものなのかもしれない。そう思ったら、ほんの少し、悲しくなっただけだ。大丈夫。私は絶対、彼の助けになるんだから。こぼれてしまった涙を服の袖で拭った。
私は運命を信じてる。
こうなるのは初めから全て決まっていたんだ。悲しいことやつらいことにも意味はある。そして、それを乗り越えられないことなんてない。
これから私は、私の運命の輪をまわしていく。晶馬くんを好きになったのは荻野目苹果だ。だからそれから逃げたりなんて絶対にしない。
立ち止まって、日が傾き始めた空に向かってぐっと拳を突き出す。
やってやるんだから。
これが私の決意表明だ。
涙はとうに止まっていた。そうよ苹果、あなたはそうでなくっちゃと満足げに笑ってみせた。
私は頑張るから。桃果もそこで、見ていてね。
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