臨也がいなくなった。
あろうことか、あのよく通る声(奴の声はそれはそれはたいそう綺麗で、俺の鼓膜までまっすぐ届き、それを心地よいくらいに震わせる)で俺を罵倒して走って逃げたのだ。
しかし、どうせまたいつもの癇癪だろう、淋しくなったら帰ってくるさ、と俺は楽観視していた。
相手があの捻くれた馬鹿だということをすっかり忘れて、安心しきってしまっていたのだ。


「静雄、最近元気ねえな。大丈夫か」
臨也がいなくなって五日目。仕事の後、ついにトムさんにまでそんなことを言われてしまった。
その前日にはサイモン、そのまた前日には新羅、そして三日前には仕事の合間にちょっと会っただけの幽にも言われている俺は、そんなに顔に出ていたのかと反省する。
大丈夫っすよ、と返して軽く礼を言いトムさんと別れ、意識して顔を引き締める。周りの人に心配をかけるなど、いい大人が情けない。あの馬鹿ではあるまいし。

あえて正直に言おう、そう、俺はあのクソノミ蟲が心配で仕方がないのだ。
臨也がこんなにも長い間いなくなるのは初めてだったし(たいていいつも三日目くらいに唐突に俺のアパートに帰ってきては俺に抱きつき、顔が見えないようにしてから蚊の鳴くような声で謝る)、新羅や門田のところにも来ていないらしかった。知り合い中に尋ねまわってみたものの、臨也を見たという奴はひとりもいなかった。
臨也に思考回路を侵され、気づいたら自分の住むボロアパートに着いていた。カンカン、と音を立てて階段をあがる。もう塗装のはげた手すりは、触れるたびに軽く手に突き刺さる。
そういえばあいつはこの赤銅色の見える、もともとは白いはずだった手すりにまで文句を言っていた。
こんなところに住んでいるなんて信じられないね、とも。
今思えば、もしかしたらあいつはただ単に、一緒に住まないかと言おうとしてくれていたのかもしれない。ただ素直に言うことができないだけで。
臨也は馬鹿だ。それは俺が保障する。
こんな手すりに触れれば痛いと分かっているのにそれでも触れようとするのは、傷ついた手を俺に優しく包んでほしいからだ。
素直に言えば何度だって繋いでやるのに、あいつは馬鹿だから、そんな風に自分を傷つけながらでないと俺に触れられない。
あの馬鹿は電話にも出ず、どこをほっつき歩いているのだろう。なにか厄介ごとに巻き込まれていなければいいが。もちろん、巻き込むほうも、だ。
ここまで振り回されておいてそれでもなお心配などできるのは、それはひとえに俺が臨也を好きだからだ。
あいつは愛情を素直に受け取るのがたいそう苦手なようでいつもくすぐったそうにしているが、本当は嬉しくてたまらないことは知っている。俺が眠ったと思ってそっと枕元に近づき、感謝と愛を文字どおり囁いてくれることも、きちんと。
だから素直でない恋人を受け止めるのは俺の役目なのに。
それなのに。
それなのに、このざまだ。
知っている。
依存していたのは臨也ではなく、俺だ。
俺は、臨也がいなければ生きていけない。
それは物理的な理屈でなく、かぎりなく不変な現実のこと。本当のことは、受け入れなければならない。



「いなくなってから気づくなんて、間抜けなシズちゃん」

その声はとても綺麗で、俺の鼓膜を心地よく揺らした。
顔はあげないままで、俺は小さく謝る。そいつの声とは違う、いっそどうしようもないくらいに情けない男の声だった。

「馬鹿だね。君はどこまでも馬鹿だ。ひとりにしておくなんてとんでもない、危なっかしすぎるよ。だから俺が一緒にいてあげる。だから、だからさ、」

それまで迷いのなかった声が、わずかに揺れた。

「ずっとそばにいて、俺のこと愛してよ」

今度こそ勢いよく顔をあげて、泣きじゃくる臨也を抱きしめる。
なんてことだ、俺の気持ちは少しも臨也に届いていなかったというのか。
それなら、それなら、もう。

「どこにも行くなよ」


今度こそ、どれだけお前が分からず屋でも理解できるくらいに愛するから。
抱きしめる力を強くすると、肩の向こうで臨也が鼻を啜る音が聞こえた。小さく笑った声かもしれないが、どちらでもいい。
形のよい小さな頭を、優しく撫でた。

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