V(姫君の玉の輿)
帰りの馬車でもエリゼは頬を膨らませ、体勢が変わらないと不満そうにしている。
「裸足で馬車に乗るなど、良家の子女がなさる作法では御座いません。今回は事情が事情ですから、我慢なさって下さい」
側近がそう諭すと、やっと納得したらしい。相変わらず彼に横抱きにされたままで、表情は僅かに不服そうだが。
「そこまで嫌われる事かなあ。普通お姫様抱っこされたら喜ぶもんじゃないの」
「馬鹿、言わないで。誰が、喜んだと」
顔が近い。そこそこ広い馬車の中でスペースに余裕はあるのに、カインはその手をエリゼの身体から離さない。
腰に回された手の存在が落ち着かず、エリゼは複雑な表情で恨めしく目を逸らす。せめて視界さえぶつからなければ、耐え甲斐もあるってものだ。
「こっち向いてよ」
誰が好き好んで顔をまじまじと見合わねばならないの。そう突っ込もうと思ったものの、声帯の力も弱っていた。
彼女を彼女らしく、公爵令嬢としての誇りが保っている。気力だけで生きている状態なのだ。心身共に消耗は激しい。
瞳を伏せ急に大人しくなったエリゼに、カインが囁く。その顔はもう婚約者を気遣う純粋な少年だった。
「ごめんね、僕の代わりに」
心底申し訳なさそうに、悲しげに謝るカイン。
幾らその立場上拉致される境遇に慣れているとはいえ、王宮に来てまでこうなるとはさしもの彼女も思考の外だったろう。本来狙われていた本人ですら、今回の出来事には驚いている。
「今更、よ。もう二度と、あの人に、言い寄られる事も、ないでしょう、から、せいせい、したわ」
途切れ途切れに、しかし心の通った声で彼女は言い切る。その様が、カインにはとても眩しかった。心酔する瞳の輝きも、弱ってはいるが衰えてはいない。
素敵だな、と嬉しくなる。婚約者が彼女で良かった。彼女を好きでいて良かった。自分には、過ぎた存在だと思う。だからこそ必ず、彼女に釣り合う男性になりたい。公爵令嬢を伴侶とするに足りる自分に。
「もうすぐ着きますよ」
「解った」
もう声を発しないエリゼもそれに頷き、降りる体勢を整えた。
*************
寝室に辿り着くなり、彼女は気を失った。居慣れた場所に戻れた事に、張っていた糸がぷつりと切れたのだろう。その肩を支えていた両脇のメイド等が力の抜けた身体を慎重にベッドへ横たえる。
ほぼ一日、水分すら補給していない彼女は僅かに衰弱していた。急いで病人食をと、夕食の用意を終えた厨房は再び慌ただしくなる。
余程気がかりなのだろう、カインは国王へ報告を終えると駆け足で階下に下り。同じフロアにある執務室とは反対側の、愛しい婚約者の元へと向かった。手前の私室を抜けたその先が寝室である。
すうすうとか細い寝息は、ベッドの傍に寄っても聴こえない程小さい。身体を屈めて耳をそばだてると微かな呼吸が聞こえ、彼はほっとした。
明日の朝までは彼女の傍にいよう。そう決めて、脇に置かれていた椅子に腰掛ける。
「……エリゼ……」
ふわり。そっと額を撫でる。目に見えてやつれてはいないが、それでも普段より線は細い。
惚れた欲目だろう。それが痛々しく見えて辛いのは。
「――だ、れ」
起こしてしまったようだ。それでも触れる手は離れない。
「本当は、僕等が来た時点で限界を超えてたんだろう? 気力だけで持たせるなんて、無茶な事を」
案ずる心とは裏腹に、言葉は彼女を窘めた。
だって悔しいじゃないか。ああいった状況では多少なりとも弱っているのが当然で、その感情を秘する必要などないのに。
自分にだけは弱みをさらけ出して欲しかったなんて、奇妙な我儘を抱く。
「慣れた、事よ。何時も、そうしていた、もの」
そう。何時もの事だ。解放されたと油断すれば、命取りとなる場面もあった。二・三日、何も口に出来なかった事だって。
だから、たかが一日空きっ腹にしただけ、部屋に辿り着いて安心しただけで、倒れるなんて思わなかった。此処に来て弱ったというのか。
「此処は王宮で、君の屋敷じゃない。僕を頼ったって」
「そんなのは、甘えよ。倒れたのを、見られるのだって。私、には、生まれた時から、“公爵令嬢”という、肩書きが、張り付いているの」
その期待を裏切ってはいけない。背負う肩書きに相応しくあろうと、寝る時ですら己を律して。
人は死んでも名は残る。シェスター家の歴史を担う者として、後世に不名誉な恥を与えてはならない。
その為には、弱音を零さない事。責任に怯えない事。役割を忘れない事。立場に甘えない事。この家訓を常に忘れず実行してきた。
それを『王宮に入るから』と簡単に捨ててはならないのだ。家訓は既にエリゼ個人の理念でもある。精神的支柱である。
どんなに疲れていたって、最低限の誇りは投げ出さない。無闇に一線を超えたりしない。
「貴方だって、そうでしょう? 一国の、王子として……」
「確かにそうだけど、王子以前に僕はカインという人間だ。人としての感情を優先する場合だってたまにはある」
例えば今こうして執務を放って彼女の傍にいるのだって、“王子カイン”としてでなく“婚約者カイン”としてだ。エリゼを大切に想う人間としてだ。それがいけない事だろうか?
「……じゃあ貴方は、使い分けが、出来ているのね……」
納得する声は弱々しい。余りにも脆弱で、それなのに細められた瞳は美しい。
儚くも凛とした花。その呼び名がこんなにも合う女性なぞ中々いない。少なくとも彼が知っている中では、そんな風に思えるのはエリゼだけだった。
細い体に一本の線が通っていて、決してそこから逸脱しない。王子カインとしてはそれを羨ましくも素晴らしくも思うが、こういう関係になるとその強さが時に焦れったく、邪魔に感じる。
もっと違う部分。その裏側を。短所、欠点、全て。独り占めしたい。甘えて欲しい。
そう想うのは、自分が青いからか。彼女が大人だからか。それとも王子と公爵令嬢という立場の違いか。僅かな年齢の差か。自分も大人になれば、彼女の考えを旨とするだろうか。
「それより、貴方仕事は……支障は、ないの?」
嗚呼、この人は。どうしてそう、何処までもこちらの立場を気遣うのか。王子としての役割を優先させようとするのか。
「言っただろ。人としての感情を第一とする時もある。今は正しくその時だ。支障なんて、大した問題じゃない」
君が心配なんだよ。僕が君の傍を離れたくないんだよ。そう言っても、決して彼女は靡かないのだろう。揺らがないのだろう。我が婚約者エリゼ・シェスターは、その気遣いを潔しとしない女性だ。
「馬鹿ね……私の世話でも、するつもり?」
「世話はメイドに任せるさ。それが彼女等の役目だからね。僕は僕の――カインという男として、君の傍にいるという役割を」
「そんなの、誰にでも」
「それでも。これは僕の信念だ。そう言えば君だって文句は言えないだろ?」
「……嗚呼、もう……本当に……」
カインが瞳と声に力を込めて言うと降参したのか彼女は苦笑いして、それ以上は何も触れなかった。馬鹿ね、とささめく彼女の声は、震えていた。
「助けてくれて、有難う――カイン」
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「どうしたのネア。入らないの?」
「義姉上が倒れたと聞いて、心配で来てみたのですけれど……」
「――あら、あらまあ……あれじゃあ、お邪魔は出来ないわねえ」
「また明日に致しますわ。折角お二人でゆったり過ごしていらっしゃるのですもの」
「ええそうね。此処で入ってしまったら、馬に蹴られて死んでしまうわ」
寝室を覗く四つの目が微笑ましげに見つめ、そっと離れていった。
その背後に迫っていたメイド達も空気を読んでしまい、入るタイミングを見失っていたのは公然の秘密。