W(姫君の玉の輿)

 調査条件を変えろという事か。この世には腐るほど貴族がいる。
 その中でも割合が高いのは爵位最下位の男爵である。その下の従男爵まで含めれば男爵と名が付く家は何倍にも膨れ上がる。キリがない。
 まして、その中の全員から手紙や礼状が来る訳でも、こちらから全員に送る訳でもないのだ。
 王族である以上、貴族は爵位に則って平等に扱っているが、満遍なく交流しろと言う方が無理がある。その貴族達は財力爵位その他諸々、ピンからキリまでいるのだから。
 話した事もなければ写真でしか知らない者もいる。下手すると爵位以外、名前すら覚えていない貴族もいる。
 爵位ごとに収められた厚さ数センチにもなる貴族名鑑がなければ、幾ら記憶力が良くとも到底管理しきれない。
 これ以上容疑者を増やしても時間と気力の無駄だ。ないならないで公爵方の情報を待つしかない。悔しいが、こればかりは甘んじて受け入れよう。

「まさか、此処まで調べて該当者の一人も検討がつかないとか……」

 冷や汗と重い溜息が疲労を物語る。朝から数時間、執務室に篭りきりで只管紙の山と睨み合いを続けてきた。
 正直言って普段の仕事より苦労する。流石、己の見込んだ女性だ。何処までも手間をかけさせてくれる。

「一旦休憩なさいませ。只今お茶を――」
「失礼致します」

 乱雑な打音の後、急いでいるのだろう、こちらの許可も待たずにそれは入ってきた。その制服は王宮騎士隊員のものだった。
 息を切らしながらも晴れ晴れとした表情が、停滞した空気を切り裂いてくれた。片手に下げている布は何かを包んでいるように見える。

「良いタイミングじゃないか。報告して」
「はっ」

 それが犯人に繋がる決定的な証拠なのだろう。そう信じて、彼の報告を待つ。これで大きな前進を遂げた。

「公爵殿と共に、公爵宛に送られた手紙を隅々まで調べ上げ、かの置き手紙との筆跡鑑定を致しました所、幸いにもたった一人だけ、充当する方が現れました」
「それで、その名は」

 トルマン・リーゼン男爵――記憶に薄いその名に、慌てて側近が男爵の名鑑を確認。
 一番分厚い名鑑のかなり後方に、その貴族のページを見付け、カインに指し示す。

「いらっしゃいました。この方ですね」

 顔写真の横に記された名は、隊員が差し出した証拠に記された名と一字一句同じであった。後は、証拠として残っている公爵宛の男爵の手紙と置き手紙の文字が一致すれば。

「プライベートに突っ込むみたいでちょっと気が引けるけど……背に腹は代えられない」
「そうですよ。エリゼ様のお命がかかっています」

 失敬してと一言断り、カインは手紙の筆跡を確認する。数分経つと、彼の背後には再び黒く冷たい冷気が立ち込めた。

「……何これ。何こいつ。何なのこれ」
「ど、どうなさいました殿下」

 爛々と輝いていた光は剣呑なものに変化する。底冷えの恐ろしさに、側近が尋ねるも彼は答えない。代わりに、報告に来た隊員に鋭い目を向ける。

「もしや、此処に上げられてる手紙全部同じ内容?」
「え、ええ……公爵殿も、エリゼ様も、それは把握されていらっしゃると……」

 たじろぎつつも隊員が認めると、カインは広げた便箋を閉じて封筒に戻した。表情は暗い。というより、黒い。

「ふうん。そう……良い度胸だねえ、彼は」

 そんな命知らずには、手痛い灸を据えてやろう。いたく楽しげに、柔和な弧を描く唇が底なし沼のように恐ろしく、側近と騎士隊長、隊員は、背筋に走った悪寒に静かに打ち震えた。そして同時に、哀れ男爵と何故か心中で合掌せざるを得なかった。

*************

 走って、もう何時間も絶えず足を急かし続けて。隙が出来た事と、それを見逃さなかった己の観察眼には感謝しきれない。
 神経が消えてしまったかのように、自分の足とは感じられなくなっていた。
 やっと、木々の向こうに懐かしい屋敷が見えた。自分が元々仕えていた、男爵の屋敷が。
 息も絶え絶えになりながら、救いそのもののように輝いて見える屋敷を見つめる。 主人に命じられて王宮に仕え、早一年。本当に実行するのか不安であった。それ以上に、屋敷とは違った王宮の居心地の良さに、いっそ何も起こらなければ良いとすら思った事もある。
 だがそれは邯鄲の夢だった。事を起こしてしまったのだ、彼は。一年前の目的をとうとう。少々予定とは違うが、遂に達成してしまった。
 屋敷が近付く。最後の力を振り絞って、雪崩込むようにして屋敷に踏み込む。王宮とは賑やかさが格段に違っていて、嗚呼こんな雰囲気だったろうかと記憶を探る。主人は何処だろう。二階の、何時もの部屋だろうか。

「――只今戻りました。ご主人様」

 荒い呼吸を何とか整え、返答を待つ。程なくして、声が返った。許可を得て扉を開くと、窓のないその部屋に彼は立っていた。
 追手が来る前に辿り着いて良かった。一目彼の息災な姿を見れれば、後はもう構わない。

「よく戻ってこれたな。王宮の警備も言うほど大した事はない、か」
「いえ、運が良かっただけです。余程混乱していたのでしょう」

 冷静に分析すると男爵は満足気に微笑み、隣室へと吸い込まれるように入った。彼女もそれに続く。
 噎せ返る甘い匂いに眉を歪めたのは一瞬で、すぐに意識は中央に座す檻に向けられた。一年の間にこんな物が出来ていたとは。我が主人ながら、その趣味を疑う。
 その中にいるのは、王子の代わりに攫われた彼の婚約者エリゼだ。手錠に動きを制限され、ベッドから微動だにしない。大きな瞳は瞼に覆われて隠されている。

「エリゼ様……お久しゅう御座います。こんな形で会う事になろうとは、夢にも思いませんでした」

 驚かない。エリゼはただ淡々と、その声に返した。

「そう、貴方は男爵の手の者だったのね。気付かなかったわ。あんなに堂々と傍にいたなんて」

 嫌味ではない。心底から感心している。その言葉に、彼女は唇を申し訳なさそうに噛み締めた。

「可愛がって頂けましたか? エリゼ様」
「ええ。彼女はとても真面目に働いていたわ。感謝しなくてはね」

 強いお方だ。王子殿下に見初められるだけはある。敵の手下が自分の傍にいたと知っても、まるで動じない。
 その働きぶりに謝意を示すとは思わなかった。敵わない。褒められた当の本人は罪悪感に苛まれていると言うのに。
 でも主の命令には逆らえない。弱みを握られていては尚更。己も罪を背負う覚悟で加担したのだ。今更、此処まできて引き返す訳にはいかない。重々承知、している。

「短い間だったけれど、随分お世話になったわね。これでお別れになるのが惜しい位」

 優しい声。女神のような慈愛そのものを表現した言葉。足が震えて、今にも崩折れそう。走り続けた疲れも相俟って、まともに立てているか判らない。
 視界が容易く揺れる。思わず顔を下げた。非難こそすれ、そんな言葉をかけて貰えるような存在ではない。なのに、なのに。

 ――嗚呼、早く。誰か早く、囚われの姫君を救って。こんな状況を、壊して。



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