U(姫君の玉の輿)

「殿下、殿下」
「……んん……?」

 起きて下さい。もう朝食のお時間です。
 ――もう?
 ええ、只今朝の7時で御座いますが。

「!?」

 意識の外で呼びかけてきた声と問答を始めた己に驚き飛び起きる。それと同時に頭上から、お目覚めですか殿下、と聞き慣れた低い声。

「かなりお疲れのようでしたので、誰にも起こすなと命じておいたのですが……良くお眠りになれましたか」

 お前の所為か! 言葉は形にならず、こくりと頷く。側近はそれなら良かったと、食事の用意を始める。あれ、メイドじゃないのか。

「無闇に仕事を増やしてはいけないと思いまして。メイドは何時も通り、役目を果たしております」

 役目。つまりは、王子の部屋という鳥籠に半ば強制的に閉じ込められた彼の婚約者に対して食事を運ぶ事。それを聞いて、カインは何故か一安心した。彼女が逃げずに、まだあの部屋にいる事に。

「――おや、廊下が騒がしいですね」

 どたばたとはしたない。常日頃よりどんなに慌てても大股で走るなと言い聞かされている筈なのに。顔を顰めて忠告に向かう側近が扉を開くと、瞳を真っ赤にして今にも涙を零しそうなメイドが鼻息荒く仁王立ちしていた。訝しむ側近の顔を見るやいなや、わっと泣き叫ぶ。

「どうしましょう補佐官殿! 殿下が……!」
「殿下がどうしました。こちらにいらっしゃいますが」
「……え?」

 冷静に取り乱される事なく問い返すと、メイドは大きな目をぱちくりさせて呆然と彼が指した手の方向を見つめる。

「――殿下! ああ良かった!」
「抱きつこうとしない。一体何があったのです」

 感情に任せて動き回るメイドに呆れながら側近が促すと、彼女はええと、と首を傾げた。

「あれ、でもじゃあ、この手紙は……」
「手紙? 貴女が握り締めているその紙切れの事ですか」

 そうですよ、とぐしゃぐしゃに潰された皺を伸ばし、こちらに手渡すメイド。余程の圧力がかかっていたのだろう。ただのゴミと見間違えかねないそれに記されている文字を確認する。少し擦れてはいるが、充分読めるものだった。

『王子の身柄は預かった』

 誘拐。その二文字が過ぎったものの当の王子殿下はこの空間におり、仮眠をとって以来今の今まで移動していない。――まさか、愉快犯か?

「貴女、これは何処に落ちていましたか」
「え? ええっと、殿下の寝室の前です。扉の足元に……」

 それで居ても立ってもいられなくて、急いでこちらに来たんですよと説明を始めるメイドの言葉に、疑念を深める。例え愉快犯としても、わざわざ部屋の正面からこんな嫌がらせをするのだろうか。城は一つの建物につき毎晩数人の見張りが巡回している。必ず何処かで見つかって、翌朝に報告されるが今朝はなかった。もしや見落としが?

「それで、中は」
「あ、えと……まだ、です。手紙に気を取られてしまって……」

 申し訳なさげにメイドが言うと、ただでさえ冷える空気が更に氷点下にまで落ち込んだ後、跳ね上がる。

「馬鹿者! 何故先に確認しなかったのです!」
「ひっ、もっ、申し訳ありません……!」

 急がねば。万が一の事があっては――

「僕も行くよ」

 側近の後方から漂うどす黒いオーラが、有無を言わさぬ威圧を込めていた。

*************

 執務室から少し離れた、同じ階層の端の部屋。焦ったように扉を小突く音。反応は返らない。鍵を使って開けると現れた書斎は当然ながらもぬけの殻。すぐさまその先の寝室に向かう。

「エリゼ! エリゼ!」
「エリゼ様!」

 いない。今いるべき人間の存在が、感じられない。ベッドの下か浴室かなどと、他室を疑う余地はあらず。いの一番に異変に気付いたのは部屋の主であるカインだった。

「窓が少し開いてる……内側からの鍵もかかってない」

 何故だ。以前彼女がたまたま忍び込んだ日以外は、何時もきっちりと閉めている筈。彼女が開けて、忘れたのか?

「浴室も確認致しましたが、おられません」
「……そう」

 気休めにもならない報告に、覇気のない返答。側近は気が気ではない。折角睡眠不足が解決した所に新たな問題を抱える事になった彼の機嫌は、頗る急降下している。低く硬い声が、命じた。

「シェスター家と僅かでも関わりのある人物を調べろ。急げ」
「承知致しました。直ちに」

 口答えする事もなくメイドを連れて引き下がる側近の有能さに、落ちるばかりの嫌悪を押し留める。
 彼にはもう解っていた。彼女が自分の代わりに攫われた事を。一度目が覚めたあの時に眠気を圧してまで戻っていれば。彼女を独りにしなければ。同じような後悔が次から次へと無意味に湧いて流れる。
 底冷えの怒りが自分でも恐ろしい。陛下に報告して、それからこちらでも手掛かりを探そう。突っ立っていては憎悪に苛まれてしまう。


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