V(姫君の玉の輿)
彼女との出会いは一昔以上も前。物心付いたばかりの4歳の冬。
後になって知ったが、父と彼女の祖父が以前から計画していた事らしい。彼女の家――つまりシェスター家には先代王の末弟が養子として降った経緯があり、早々に会わせておいても損はないだろうと。
無論、結果的にそれは自分にとって最高の影響を齎してくれたので、どう転ぶかは判らないものである。
初めて見た彼女の印象は、何と言っても美しき双眸に集約される。
気高く強いその瞳はこの世に蔓延る一切の汚れを知らぬようでいて、且つその汚れが彼女をあの手この手で襲おうとも瞬き一つで輝きを変え、跳ね返してしまえる強さがあった。鋭利な刃物とはまた違った、独特の尖った深淵を孕んでいた。
魅力的な二つの宝石に、当時の自分は畏怖と尊敬を抱く事を進んで受け入れた。もとよりその波を拒む理性も感情も生まれなかった。幼心に感じた魂そのもののような光に魅了され、ただただ魅入られていた。
嗚呼、何て素晴らしい。芸術品のような近寄り難さを生身の人間に想うとは。侵し難い聖域のような神々しさを惜し気もなくこちらに注ぐ奇跡。
人生一番のショッキングな事件だった。何せ、これが人として初めての記憶だからだ。
その声もまた、想像を超える程大人びた堅さでいて、更に驚く。子供らしい可憐さよりも凛とした、一本の筋が明確に通っている様を感じた。後にあった、余りに感動し過ぎて錯覚を起こした、なんて言う不粋な悪魔の囁きは排除した。
嗚呼、何と素敵な女性(ひと)なのだろう。第一印象で、此処まで心を掴まれるなんて。
おっとりした姉や母とは全く違う、別次元の異質な存在である。同じ世界にこんなお嬢様がいると言うのは、それからの自分の人生に明確な標を立てるのに充分な理由となった。
あんな人間になりたい。彼女に相応しい賢さを身に付けて、早く成長して、彼女に伝えたい。
それを使命と信じて疑わず、時折やって来る大叔父が土産にと用意した彼女の写真を貰っては食い入るように見つめて奮い立ち、彼の話に度々現れる彼女に励まされ、だらけそうな気を強く保った。
貰った写真を見返しては、一緒に写っている彼女の弟が羨ましくて仕方がなかった。血縁者と言うだけで、堂々と彼女の傍に立てるのだから。
自分もそんな存在だったなら。そんな幸せを享受出来たなら。
初めて脳に焼き付いたあの輝きは消え入る事なく、日に日に大きくなっていった。だから、あの時久々に見た彼女が衰える事なくあのままの高潔を、いや、それ以上にも増した光を携えていた事には、深く感銘を受けた。心地良い衝撃に、肺腑を突くとは正しくこの事だと納得した。
そして無意識に、彼女を引き止めようと捻くれた言葉を投げかけ、その策は成功した。公式にも私的にも、彼女と会う事はあれ以来なかったから。公に出来ない密かな逢瀬なんて、間違ってももう起きないだろうから。
その鋭さを湛えた双眸を自分に向けて欲しい、手中に収め、見つめていたい。必然の欲望だった。
彼女を匿い原因を聞き出して、恩を売る為に家族を捜索し犯人を捕らえさせて。予想通り彼女の家族は自分に恩情を抱き、特に父には並大抵ではない感謝を持たれた。そこであの話を持ち出せば容易く了承を得、陛下も伴侶として申し分ないと首を縦に振った。
一つ壁があるとすれば、それは紛れもなく彼女自身である。未だになくなりはしない堅牢な壁である。それでも良かったし、それが当然と覚悟していた。呆気なく崩れてしまうような、ヤワな精神など彼女にある筈がないのだから。
こうして長きに渡る願望は、一先ずは達成された。後は頑なな心をどうやって溶かしていくか。
何とも誇らしい気持ちで、心身共に充実した感覚を日々噛み締めている。これ以上ない幸福である。一度味を占めてしまえば、手放す事など不可能な。不可侵の金玉は、そこにいるだけで今日もその恩恵を自分に授けてくれる。
どうしようもなく愛しい。瞳だけじゃなく、声も髪も何もかも。彼女という人間を、その存在を確立する全ての要素が。彼女を彼女たらしめてくれる奇跡が。
自分の魂よりも大切なのだ。命を懸けても護らねばならないと純粋に思う。それが当の本人に伝わっているかは判らないが。構わない。彼女にそう思う事を強要する気は皆無である。自分の信念だから、自分さえ理解していれば。
ただ、婚約者としての信頼はもう少しあっても良いんじゃないかと思うが。出来れば余り衝突はしたくない。
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「殿下、お顔色が少々悪う御座いますが」
ここの所、かの公爵令嬢が婚約者となられてから、以前にも増して公務に励まれている。その所為か最近は安定した睡眠を得られていない。それは王子殿下に直接仕える側近の私だけではなく、王宮全体の使用人、そして王族方の耳に記録されている。
無論、それを知らぬはただ一人、エリゼ様のみ。この事に関しては固く口を閉ざせとのご命令で、誰も何も伝えてはいない。殿下はエリゼ様に特別な思い入れがおありになるからだ。
「既に本日の執務は終えておりますし、此処は一度お休み下さいませ」
心労で倒れるなどという事態になる前に、何としても仮眠をとって頂かねば。白皙のお顔が渋るように歪んでも、家臣として主人の健康と言うのは重要な問題。
「そのような情けないお姿をエリゼ様に晒す訳にはいかないでしょう」
この方の弱みは昔から“エリゼ様”一つ。使用人や家臣の間では最早常識と化している。
彼女の名を出せば嫌々ながらでも従うのだから、便利な魔法の言葉だ。公爵令嬢様々である。
「分かったよ。全く、脅しが巧い」
「殿下が単純過ぎる故ですよ。エリゼ様にご執心なさるのも結構ですが、ご自愛なさるのが先決です」
ご自分の体調管理も出来ないようではまだまだ。貴方はこの国を背負う王子なのだから、優先順位を見誤る事は許されません。
何時になく厳しい口調で説教めいた小言を進言すると、背を向けて仮眠室へと向かっていた殿下が顔だけ振り返る。
「役目大義。側近の鑑だね」
パタンと扉が閉められると、感情の読めぬ表情と声音が亡霊のように私の意識を取り巻いた。