U(姫君の玉の輿)
磯の鮑の片思い――磯にいる鮑は浅蜊などと違い一枚貝で、そこから片方だけが一方的に想いを寄せる「片思い」にかけたもの。
「……何、これは」
既に目覚めていたらしいカインに手渡された小さな紙切れ。広げてみれば、そこに書かれていたのは如何にも辞書からそのまま抜き取ってきたような内容。朝っぱらから、しかも起きて早々、こんなものを突き付けられても困る。
「僕の現状だよ。さしずめ君は原因だね」
だから何だと言うのだ。エリゼは顔を顰める。昨日の仕返しか、これは。デジャヴもいいところ。
「へえ、朝から嫌がらせとは。随分と粋な事をなさるわね?」
笑止千万。鼻で笑う彼女は、しかし目が胡乱。次の瞬間には紙を潰し、ベッド脇に置かれているくずかごに投げ入れる。それもかなりの恨みを込めて。
「酷いなあ。君の真似しただけなのに」
おどけてみても、無視を貫く決意を固めたエリゼには効かない。鉄壁の盾と表現するに相応しい、艶やかな無視っぷりである。褒められたものではないが。
「失礼致します。朝食をお持ち致しました」
小気味良い打音が耳を擽ったかと思うと、焼き上がったばかりの香ばしいクロワッサンとあっさりとした野菜スープが食欲を思い起こさせる。此処が、それらを口にする場所がこの部屋でなければ、より。
「じゃあ行ってくるよ」
ええ、どうぞご勝手に。さっさと行って頂戴。言葉はなくとも目がそう語っている。はあ、とカインがこれ見よがしに呆れても、彼女は意に介さない。何とも立派な強かさだ。一通りの努力では懐柔不可能だろう。
「……まあ、その方が僕には良いけどね」
その黒い笑みがエリゼに見えてない事に、食事を運んできたメイドは心底からほっとした。彼等の痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免である。
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「ご機嫌麗しゅう義姉上! 兄上に何もされませんでしたか?」
「ご機嫌麗しゅうネア様。あの、何も、とは」
昼食を終えた午後、お姫様らしからぬ勢いの良さでやってきたネアと、それを悠々と見守る姉キーユ。問いの意図が掴めず、思い付いたままに問い返す。
「カインに手を出されなかったか、って心配しているのよ。この子ったら、床に就くまで貴方の事を口にしていたらしいから」
それは何とも気恥ずかしい話だ。一国の姫にそこまで自分が思われているという事実と、妹にそこまで疑われる彼の不憫さに。大人の色香漂う笑顔でさらりとそう宣う姉君は底が見えず、彼と同じ黒さを感じた。
「そうでしたか……申し訳御座いません、お心を煩わせてしまって」
「いいえ、大好きな義姉上を気にかけるのは妹として当然の事ですわ」
真っ直ぐに貫かれた宝石のような双眸が、無邪気な子供っぽさを際立てている。もし自分が男であればころっと絆されかねない。
「さあさ、立ち話もなんだから、ゆっくりお茶でも飲みましょう」
言うが早いか、既に待機していたらしいメイドがカートを引いてやってくる。主導権はすっかりキーユが握っていて、エリゼは用意周到さに何も言えないままだった。