T(姫君の玉の輿)

 本当に、世界というのは一夜にして良くも悪くも変わるもので。

「よくまぁ僕の家に忍び込めたものだね。こっちの警備が甘いのかそれとも君が天才なのか」

 嫌な予感しか当てない直感を珍しく振り切って忍び込んだものの、やはり誰にも見つからずに済む事はなかった。

「煩いわね、たまたまよ。全くの偶然よ。結果として不本意な印象を持たれたようだけど」
「当たり前だよ。いきなり他人、しかも女の子が窓から自室に入ってきたら、人の良い僕でも不審に思うさ」

 言動が何処か厭味ったらしい少年に、どんな“不本意な印象”を持たれようと否定する気はない。思考を切り替えると、赤茶の巻き髪を靡かせて彼女はすぐさま踵を返す。

「長々と解説をどうも。安らかな眠りを邪魔して悪かったわねお休みなさい」

 口早になげやりな謝罪と挨拶を告げるが、彼女の足は今しがた入って来たベランダへの扉の前で止まった。

「此処は2階だけど、まさか飛び降りる気?」

 この、人を小馬鹿にしたような言葉は何故この場からすぐに解放しようとしないのか。そして何故この神経は律儀に反応しようとするのか。面白げな笑みを浮かべた問い掛けに、彼女は整った眉を片方引き攣らせながら、成る丈怒りを抑えて言った。

「貴方、早く夢の中に入ったらどう?」
「まぁ眠くないと言えば嘘になるけど。でもこういう体験って滅多にないし、じっくり味わいたいなぁと」
「馬鹿馬鹿しい。遊んでいる訳じゃないのよ」

 随分と呑気な変人。彼女は思考の片隅で、失礼ながらもそう思った。そしてまたガラスの向こうに映る夜の闇を見遣る。今度向こうが何を発しようと、決して口は開かない。その積もりだった、のに。

「君、逃げて来たんでしょ? お嬢様」
「……な、」

 どうしてそれを。そう言いそうになった口は、寸での所で想いを形にしなかった。まさか赤の他人が夕暮れに起こった事件など知る筈はない。いずれ明るみにされるとしても、その時間には今はまだ早い。
 ――そうよ、罠だわ。きっとそう。はったりで私を追い詰める気なのよ。だって、“何から”逃げて来たのか指していないもの。

「何を言っているの? よく分からないのだけど」

 極めて冷静に、浮かべた冷や汗をさっと消して彼女は笑みを造る。心底から投げかけられた言葉が理解出来ないという風に、可愛らしく小首を傾げて。
 少年はその笑顔に何も返さなかった。その代わりに無表情でこちらに近付きだす。彼女は彼の突然の行動に少なからず困惑し、“逃げる”という最大の目的を判っていながらも後退る足は震え、覚束ない。
 少年が細い腕を掴むと、彼女は火がついたように叫んだ。

「――っ、いやぁっ!」

 少年がその拒絶に反射的に手を放すと、よろめいてその場にしゃがみ込み彼女はわんわんと泣き出した。突然静寂を突き破ったそれに異変を覚えない程、警備は甘くなかったようだ。間もなくドアを蹴散らし髭の濃い騎士が少年の元へと駆け寄る。

「御無事ですか殿下!」
「ご心配なく、僕はピンピンしてるよ。何かあったなら彼女の方さ」
「む、この者は一体?」
「よく見て御覧。騎士隊長なら知っているだろう」

 殿下と呼ばれた少年は何が面白くないのかつまらなさそうに背を向け言う。見た目と相まって性格の暑苦しい騎士隊長はううむと首を捻るが、乱れた髪の隙間から彼女の顔が窺えるとぎょっとして驚いた。

「……! こ、この方はシェスター家の」

 大袈裟に体をのけ反らせ、隊長は暑苦しい顔付きを更に暑苦しくして彼女の名を呼んだ。

「エリゼ様!」

 突如響いた己の名に彼女――エリゼは肩をびくりと震わせ、怖々と顔を上げる。瞳はすっかり赤くなっていた。そう広くはない視界をこれでもかと占領する騎士隊長に見下ろされているというのが居た堪れず、エリゼは立ち上がる。その表情は彼女の長髪で隠され垣間見る事は出来ない。

「何故エリゼ様が斯様な場所に?」

 率直に疑問をぶつける隊長を無視し、やや間を以てエリゼは改まった言葉で二人に告げた。

「カイン・ロードン王子殿下、此度は無礼を致し大変失礼致しました。どうかお許しを」

 先程ため口で話していた時とは雰囲気をがらりと変え、且つ震えのない声で至極丁寧な敬語を使い物腰柔らかに辞儀する。流していたであろう涙を一切見せぬ姿に、王子カインは密かに感心した。

「いや、気にしなくて良いよ、エリゼ嬢。それより」
「それより殿下、エリゼ様は如何様にしてこちらに? もしや不法侵入でも」

 仮にも仕えている王家の人間の言葉を遮り、騎士隊長が真面目な声色で尋ねる。カインが更にそれを遮り、エリゼの立場を危うくせぬようにと気遣う。

「割り込むなよ隊長。僕が気にしてないんだ、それ以上の詮索はなし。まぁ、追々話すから」

 自分だけに話が不明瞭である事に憮然とする隊長を見遣り、カインは彼と共に寝室を出ていった。その際直立不動のエリゼにその場にいるよう視線を送り、笑顔を向けたが堅い表情は変わる事はなかった。

*************

 カインが寝室に戻ると未だ手持ち無沙汰に立ち尽くすエリゼがおり、苦笑して彼はからかい気味に声をかけた。

「さっきまで堂々としてたのに、今更畏まる事ないだろう」
「……別に、畏まってなど」

 こちらを向き素っ気なく答えた後、エリゼはすぐ目をさ迷わせた。やはり落ち着かないらしい。

「今は誰もいないんだ、ため口で構わないよ」
「そう……なら、遠慮なく」

 そう言うと何時もの勝ち気な表情に戻り、かと言って勝手を知らぬ此処で好きに動ける訳もなく。大して状況は変わらず、結局手を拱いているばかりだった。

「今日はもう寝よう。君はこの部屋を使って。僕は隣の部屋に行くよ。じゃ、お休み」

 口を挟む余裕を与えず、カインはさっさと寝室を後にした。何か言いたげにエリゼが見つめている事に気付かない振りをして。


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