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二コルが何か気配を感じて振り返る。隣のカイトは眼下の景色にまだ目を奪われていた。
よくもまぁそこまで熱中出来るもんだとある意味で感心したが、しかしそれは今感じているただならぬ空気でかき消されつつある。
(何だ……何が向かってくる?)
人ではないらしい事は何となく体が理解していた。だとすれば、この山に住む動物か、あるいはそんな生易しいものではなく――――。
(――来る!)
咄嗟に出てきた判断に従い隣の馬鹿(カイト)を突き飛ばすと、自身はそれと反対方向に飛び退く。
いきなりの事に面食らったカイトは、何事かと言いながら、体勢は盤石であった。しかし今は会話に耳を傾けている場合ではない。素早く帯刀している剣を抜き、これから行われるであろう事に備える。カイトも状況を読み取ったのか、既に臨戦態勢に入っていた。
草むらから飛び出してきたそれは、虎のような体つき、背にはそう大きくはない翼、額には何か宝石の様な物が光っていた。その獣の顔つきから、獰猛な生物である事が窺えた。仕留める寸前で二人が避けた為か、少々機嫌を損ねているようにも見えた。
こんな奴に狙われるなんてと、二コルは運の悪さを嘆いた。だが、それは本気で嘆いた訳ではない。その証拠に、表情は薄ら笑みを浮かべていた。それはカイトも同様で、彼等がどれだけこの様な状況に手慣れているかが分かる。
刹那間を空け、二コルが獣に向かう。獣はじゅるりと長い舌を這わせると、牙を剥き胡乱な眼で二コルに向かって行った。あと何センチかという所で、獣は更に大きな口を開き、喰ってかかろうとした。しかし。
ひらり、と、いとも容易く二コルはその突進を避けると、獣の頭上に姿を消すかの様な速さで舞い上がった。そしてくるりと一回転し一瞬の内に獣の背後へと剣を向け、そのまま迷わず深く突き刺し、そして剣を抜いた。
二コルの身軽で鮮やかな動きについていけない獣は不思議だと言わんばかりの表情でいたが、後に来た耐えがたい痛みに、体をバタバタと大きく震わせた。抜け落ちた羽が雪の様に地に落ちる。
ぱっくり割れたその傷に深く呻きながらも、獣はまだ意思があるようで、ぎろりとこちらを睨んだ。勿論、そんな威嚇では二コルも怯まないし、あの一撃で獣が倒れない事も分かっている。
そうして二コルと獣が火花を散らしている所へ、置いてきぼり感の否めなかったカイトが透かさず突っ込む。灰色の双璧は、まごう事無く獣を捉え、そこから少しも動かない。
獣は思ったほど賢くはないらしく、二コルばかりをじっと睨めつけている。それをいい事に、カイトは風の様な速さで獣へ切りかかった。二コルとは反対側を狙い、手にしている短剣を次々と投げる。
次こそはと二コルに襲いかかろうとしていた獣は、別方向から来た何かに、堪らず唸り声をあげた。全く意識の外だったのだろう。黒味がかった体躯は、半分血に染められている事が薄らと見て取れた。その証拠に、苦しそうに口を歪めている。
それをちらと一瞥すると、二コルは隠し持っていた丸い何かを取り出し、カイトへと容赦なく投げ付ける。頭に直撃したが、まぁそうそう馬鹿にはならないだろう。
唐突に来た頭の痛みに驚きながらも、投げられたであろう物をカイトは足元に見つけた。手に取って、これをどうするのかと言わんとして、二コルを振り返る。
「僕が止めを刺す前にあいつが口を開いたらそれを投げ込んでやれ」
些か気怠そうな答えが返され、何となくではあるが理解する。何とも緊張感のない会話だが、一応はまだ戦闘中なのだ。それを忘れさせる位、二人は堂々としていた。いや、単に当たった敵の運が良かったのかも知れないが。
「分かった。口に投げ入れりゃいいんだな?」
「そうだ。ほら、来るから黙っていろ」
「……はいはい」
やっと動ける様になったのか、獣はカイトを無視し、二コルへと突進してくる。それを察して、二コルは会話を中断させた。尤も、あれ以上話す事もないのだが。
身構えて、それに備える。先ほどは下半身を刺したから、今度は足か首辺りを狙おうか。そんな事を考えながら、力の弱った獣の攻撃をいっそ鮮やかに横へ回避し、かといって獣に出来た隙を見逃さずに剣を振り下ろす。今度は首だ。
獣は雄たけびをあげ、そして耐えきれなかったのかよろめいた。血飛沫が上がるが、二コルは剣を盾にし、被害を最小限に留めた。地面には獣の物である血痕が途切れることなく染み渡っていた。
カイトはというと、何時でも投げ込める様に、玉を握りその時を今か今かと待っていた。
己の攻撃をあっさりと避ける二コルに遂に堪忍袋の緒が切れたのか、獣が今まで以上に耳を劈く様なけたたましい鳴き声を上げた。怒り心頭とは、まさにこの事だろう。
だが、それが二人に恐怖でももたらすのかと言えば全くそうではなく。二コル達は少し眉を顰めただけで、大して何を思う訳でもなかった。とにかく早くこの戦闘を終わらせたい、その意思だけは感じ取れる。
やがて二コルが剣を構えなおし、真っ直ぐ獣を睨める。獣と視線がかち合う。それが合図か、一人と一匹は同じタイミングで相手へ向かった。ニコルの少し離れた背後にはカイトが投げ込む機会を未だ窺っている。
二コルは次で終わらせる事を決めると、今度は獣の額を狙う事にした。致命傷を負わせる事は十分可能だろう。
もがいて口を大きく開いた瞬間、カイトが手渡されたあの玉、煙玉を全身全霊で投げ入れれば、もうこちらには向かって来ない筈だ。下手をすれば死に至る事も考えられるが、それでも構わない。
二コルはその一心で今度は剣を逆手に持ち、一番力を込めて額の石を狙いそこに突き刺した。瞬間、獣ははち切れんばかりに口角をめい一杯広げ、そして叫んだ。
「今だ!」
「おう!いっ、けぇーっ!」
二コルが剣を思いっきり抜いて、獣の後方に飛び、振り返りざまにカイトに力一杯に叫んだ。それを受け、カイトは間髪入れずに獣の口へ地面を利用しストレートにそれを投げ入れた。
地面で衝撃を受けた煙玉は、跳ねて入った獣の口の中で、勢いよく爆発し、やがて口から漏れるその煙で獣を包んだ。
何時の間にかカイトの傍に移動していた二コルが、ほっとした様子で佇んでいた。これで十分なダメージを与えられただろう。獣は先ほどから低く弱々しく呻き、地に横たわり煙に撒かれるがままでいる。
そして、空気が抜けていく風船のように力なく倒れ込み、遂には息を引き取った。その様子を二人は厳しい表情で見つめ、完全に動きが止まったと分かると、自然に安堵の息を漏らした。
「……終わったな」
「ああ」
淡々と言葉を交わし、武器の血を払いそれぞれ片付ける。そして、煙がこちらを捉える前に、鼻を覆いそそくさと先へと進んだ。
一悶着終えると、強張っていた筋肉が弛み、疲れがどっと溢れた。無益な戦闘ではあるが、身を守らねばそこで終わりだ。
二コルは盛大に肩を落とし、顔をひと振りして、気分をすっきりさせる。血の匂いには未だに慣れない部分があるが、怖い訳ではない。それは、もう何年とこの目で見てきたからだ。
「とにかく早く山を下ろう。早く休憩したい」
走りながら静かに二コルはそう告げた。今は麓の街へ急がねば。