満月の夜。
長く伸びた髪。伸びた背丈。
鋭くなる感覚。
ああ。この解放感。それに、やっぱりこれが本来の姿なんだと実感する。
「ごめんね、にーに」
なにも知らない兄に、そっと別れを告げる。
満月の夜は事件も増加する。人間も、まるで僕ら狼男みたいにその身に潜む何かがざわめくのだろうか?
兄は事件だと今日は夜も駆り出されていて留守だ。
その留守を狙って出ていく僕を、兄はどう思うだろう?
寂しがる?
怒るかな?
悲しむかな?
涙を流すかな。
心配するかな。
僕の事だけを考えて、頭の中がいっぱいになっちゃう?
その想像は、暗い喜びを僕に与えてくれた。
寂しかったのは僕。
側にいない、にーにに、怒ったのは僕。
悲しくて悲しくて心の中で涙を流したのは僕。
仕事だと出かけて行くのを見るたびに、心配して心配して心配したのは僕。
にーにの事を考えて、頭の中がいっぱいになっちゃったのは僕。
同じだけ、思ってくれる?
寂しさで死ねるほど僕は弱くなかった。
何も行動できなくて、ただ待っているだけなんて出来ないぐらい、馬鹿じゃなかった。
狂気に陥るほど、僕は孤独じゃなかった。
思いだされるのは一人の人間。
五月蠅くてうるさくてうざったらしいあの男。
それでも、ねえ?
そこにある好意は一点の曇りもなく本当のもので、それが居心地が悪いわけはなかったよ。
だけどさ、僕にはにーにが居ればいいんだよ。
それを邪魔するあんたは、僕にとって邪魔だった。
もし、僕が一人なら。
ひょっとしたら違っていたかもね。
にーにとあの人みたいに、もしかしたら『相棒』ってやつになれたかも、しれない。
とても低い可能性だけど、否定できないぐらいには可能性があったかもしれないその仮定の未来。
だけど、無理。
僕にとって一番大切なのはにーにだったから。
たった一人の家族であり同族である兄は、ずっと自分を守ってくれていた。
弱くて小さい弟を守るために。
綺麗事や、優しい事だけじゃすまない、汚くて辛くて危険な世界へ、たった一人立ち向かっていった。
知ってるよ、それが僕ら兄弟が生きていく為の仕方がない道だったことぐらい。
だけど、それが我慢できないぐらい、自分にとって兄は大切だった。
他の何を置いていくことが出来るぐらい。
変化を望んだ僕に、彼らの言葉はとてもよく響いたよ。
そしてそれに迷いなく手を伸ばせる位は、僕は薄情だったんだね。
孤独になりきれない小さなぬくもりを捨て去る事や、たった一人の兄を独りにしてしまう事を選んでしまえるぐらいには。
「遥さん」
「迎えに来たっすよ」
迎えの使者の声。
ちょうど目に写ったガラスに、笑顔を浮かべる僕の顔が見えた。
僕の世界は狭くて小さかった。
太陽のように、大地のように、にーにが居て。
そこに、時折り頬を撫でる風のようなあいつがいて。
だけど、その世界は幸せで満ちていたわけじゃなく。
僕は変化を望んだ。
たとえその小さな世界を壊してでも、手に入れたかった未来を創る為に。
そのぬくもりに満ちた巣を捨て去る時。
脳裏を横切ったのは二人の面影。
ごめんねと、兄へ告げ。
サヨナラと、あいつへと告げた。
それは満月の輝く、ある夜の事。
僕を包む世界を、裏切った日のこと。