第二十二話
額の上に水滴が落ちた時、私は目を覚ました。
何かが腐ったような強烈な悪臭が鼻につく。今まで嗅いだことのない臭い。あまりの気持ち悪さに起き上がろうとするが、手首と口元を強く縛られており、身動きが上手くとれなかった。たどたどしく手を動かすと、壁らしきものを見つけた。不自由な手で身体をゆっくりと起こし、壁に背を凭れた。
明かりが一切差し込まない暗闇に包まれた場所だった。ここは一体何処なのだろうか。
『ねぇ、早くこの女をあの地下牢に入れてしまいましょうよ。あそこなら誰も分からないし』
あの時、くの一の一人が言っていた。私は今、地下牢にいるのだろうか。ということは…この臭いは腐った死体が原因……
その時、私は気持ち悪くなり、勢いよく立ち上がった。
一刻も早くここから出なければ。マダラ様にまた迷惑をかけてしまう。
壁伝いに宛てもなく、私は懸命に歩き始めた。身体を縛られ上手く進めない上に、周囲の悪臭で気が遠くなりかけていた。息も正常に吸えず、呼吸が苦しい。立ち眩みで私は膝を折り、倒れてしまった。その時の衝撃で、肩にあった傷口が急激に痛み始めた。周りにある形骸化した骨に当たったのだろう。次第に意識が遠退いていく。身体を動かす力が残っていない。辛うじて目蓋を開けることで精一杯だった。

……助けて…マダラ様……

私は心の中でマダラ様に助けを求めた。しかし、こんな場所を見つけ出すことなど困難であるにちがいない。私を探すことでマダラ様に危険が及んでしまうかもしれない。それならばいっその事、ここで死を迎えた方がましだ。
私は涙が止まらなくなってしまった。二度とマダラ様と会うことができず、此所で一生を終えるのかと思うと、胸が苦しく嗚咽をもらして泣くことしか出来なかった。



「小夜!!」

誰かが私を呼んでいた。幻聴なのだろうか。はっきりとしない意識の中、私は再び目蓋を弱々しい力で開けた。こんな所、誰も見つける筈がない。幻聴を聞いてしまうほど、私は死が近づいているのだろうか。しかし、その声が顕著に聞こえる程に大きくなっていた。まさかマダラ様が私を探しに来てくれたのだろうか。私は力を振り絞り、声を張り上げた。口元も布で縛られているので、言葉にできなかったが、私はその人に聞こえるよう、ひたむきに何度も声を出していた。すると僅かな火の光が見え、私は身体を這わして近付いた。

「小夜!!」

顔を上げて見ると、その声の主はマダラ様ではなく、イズナ様だった。

「ここにいたんだね…無事で良かった…」

イズナ様は手燭を置くと、身体と口元を縛っていた紐を解いた。私は起き上がり、

「イズナ様…!私のために…こんな所まで……。助けて下さって、ありがとうございます」

とイズナ様に礼を言うと、

「小夜……」

イズナ様は私の名を呼ぶと同時に、私を抱き寄せた。私は驚いて身体が固まってしまった。イズナ様が私をこれ程まで心配しているとは思わなかった。

「本当に心配したよ…」

一瞬のことだろうと思っていたが、抱き寄せる腕の力が強くなる。

「イズナ様……?」
「肩、血まみれじゃないか…」

イズナ様は心配そうに私の肩に触れる。

「あの……」
「よく世話を焼かせるね、君は……」

イズナ様は自身の服を口で引き裂き、私の肩に巻こうとしていた。

「イズナ様…そのような事はなさらないで下さい!大丈夫でございますから!」

私は畏れ多くなり何度も断ろうとするが、

「こんな血塗れなのに放っておくつもりなの?」
「私のために、ここまでなさっては…」
「良いから黙ってオレの言う事を聞いて」

イズナ様は私の手を退かし、肩に布を巻いた。私は申し訳なくなり、何度も御礼を言った。

「礼なんて良いよ。当たり前の事をしたまでだから」

すると、イズナ様は私を持ち上げて歩き始めた。思いも寄らない行動に驚きつつも、更に迷惑をかけてしまい申し訳なく思い、

「イズナ様…本当に申し訳ございません…」

再び謝ると、イズナ様がクスッと笑い始めた。

「だからさ、そんなに謝らなくてもいいよ。君って案外しつこいのかな?」
「……すみません……あっ!」

私は思わず口元に手を寄せた。

「ほら、また言った」

私は恥ずかしくて顔が赤くなってしまい、顔を俯かせた。すると突然、イズナ様が急に立ち止まった。何かあったのだろうかと思い見上げて見ると、イズナ様が真剣な顔をして、私を見つめている。

「……兄さんが好き?」
「えっ……イズナ様…?」
「いや、何でもないや…気にしないで」

イズナ様は私から顔を背けると、視線を前に向けて歩き始めた。細長い睫毛が蝋燭の火の光で煌きながら揺れており、顔の半分が赤く照らされている。
先程の言葉には一体どのような意図で聞いたのだろう。私は暫くの間イズナ様の顔を見つめていたが、イズナ様の表情は一切変わらないので、より一層、彼が考えていることが分からなかった。

「小夜…!!」

その時、マダラ様が私を呼ぶ声が聞こえた。私は反射的にマダラ様の方へと身を乗り出しそうになった。

「マダラ様…!!」

私は声を大きくしてマダラ様の名を呼ぶと、マダラ様がこちらに向かって走って来たのだった。

「小夜!!嗚呼…無事で良かった……」
「マダラ様…私のために…ありがとうございます」

マダラ様は私の方へと腕を伸ばしたので、私もマダラ様の腕の中に身を乗り出そうとした。しかしその瞬間、イズナ様の手に力が入り、私を離そうとはなさらなかった。

「兄さん、遅かったね…」
「すまない…こちらとは違う場所を探していたのでな……遅くなってしまった」
「マダラ様…私のせいで…こんなにご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ございません…」
「お前が謝るな……悪いのはあの女共だ」

マダラ様は私を抱き寄せようと私の肩に触れた時、イズナ様は更に手の力を込めて阻止していた。

「おい、イズナ…小夜から離れろ」
「兄さんはずるいよ…」
「……なんだと?」

マダラ様は怪訝な顔でイズナ様を見つめていたので、私は居たたまれなくなり、イズナ様から離れようとする。

「イズナ様…私は大丈夫でございますから…どうか……」
「肩に傷を負ってるのに、どこが大丈夫なの?」
「おい、イズナ!いい加減にしろ」

イズナ様はふっと軽く笑い、首を少し傾げると、私をマダラ様に委ねた。

「二人とも、早く戻ってきなよ」

と言って、手をはらはらと振りながら去って行った。
私達はイズナ様の後ろ姿を見届けると、マダラ様は私を強く抱き寄せた。

「小夜……遅くなってすまなかった」
「マダラ様……私は大丈夫でございますから、どうか心配なさらずに……」
「誠に無事で良かった…お前に何かあればオレは…」

マダラ様は私の頬に触れると、存在を確認するように親指の腹で頬の縁を撫でる。

「後で手当てをしてやるからな…それまで辛抱していろ」

マダラ様はそう言うと、私の肩の傷に目を配り、心配そうな面持ちで私を見る。マダラ様のその愛情深い眼差しに、私は自然と綻んだ。そして再びマダラ様は少しの間私を抱き寄せると、そのまま身体を抱き上げ、屋敷へと向かった。


私達は屋敷に着くと、うちはの忍達が怪訝な顔をして私を一瞥していた。その冷たい目線から逃れるように、私は顔を俯かせた。マダラ様は顔色を変えずに、屋敷の中へと入って行く。私を地下牢に入れた、あのくの一達が言っていた通りで、私はうちはから忌み嫌われた存在であり、この先一生受け入れてもらうことなどないだろう。私のせいでマダラ様にご迷惑をおかけしているのではないか。そう思うと、ここにいる事自体が罪に思えて、胸が苦しかった。

部屋に着き、マダラ様は私を畳の上に座らせると、肩に巻かれた布を取り、傷の具合を見ていた。

「マダラ様…私は大丈夫でございますから…どうかそんな事をなさらないで下さいませ」
「かなり傷が深いな」

マダラ様は構わず木箱から薬を取り出し、傷口に塗った。

「……あっ…」

思いの外傷口が深いのか、薬が染みて肩を震わせてしまった。マダラ様は心配そうに私を見る。

「少し染みるか?」
「はい…でも、大丈夫です」

マダラ様は薬を塗り終えると、傷口に布を巻いた。

「お前をあのようにした者達は罰を下しておいた。もう二度とお前に、危害を加えぬよう一族の者達にも釘を刺しておいた」

マダラ様のその言葉を聞いた時、私は少し不安になった。私のせいで、一族内でマダラ様に不信感を募らせる者が出てくるのではないだろうか。マダラ様が私を大切に想って下さる事は十分に嬉しく思う。しかし、マダラ様の身の上を考えると、素直にその愛情を受け取ることができなかった。

「どうした…?」

無意識に顔を俯かせて考え込んでいたせいか、マダラ様が私の顔を覗き見ていた。

「マダラ様…私のために、そこまでなさらないで下さいませ」

私は顔を上げ、マダラ様を見た。マダラ様は眉間に皺を寄せる。

「何故だ。この処置は、お前を想ってのことだ」
「その御気持ちは十分に分かっております。ですが、私のせいでマダラ様にご迷惑をおかけしたくないのです」
「何を言っている。オレはお前を迷惑だと思っていない。小夜…もしや、あいつらに何か吹き込まれたのか」

"あいつら"というのは、私を地下牢に入れた、あのくの一達のことを指すのだろう。私は首を振った。

「マダラ様、違うのです…私はただ…」

その時、マダラ様は私を強く抱き寄せた。私が言葉を発せないように……

「オレはお前を守りたいんだ」

マダラ様はより強い力で私の頭を抱き込むと、小さな声で呟いた。私は目を瞑りながら涙をこぼした。マダラ様の真っ直ぐで、底知れない深い愛情。このまま素直にマダラ様の胸に飛び込んでしまいたかったが、あのうちはの人々の視線が脳裏に過り、マダラ様の愛情を受け止めることに自信が持てなかった。揺れ動く自身の心を誤魔化すように、マダラ様の服を握り、より胸の中へと顔を埋めた。マダラ様の温かいぬくもりと、力強い心臓の鼓動。やはり、マダラ様が愛おしかった。マダラ様の愛情から顔を背ける勇気など、今の私には持てない……
私達がしばらくの間抱擁を交わしていると、部屋の外から女中が「マダラ様、沐浴の準備が整いました」と伝えに来た。マダラ様は私の涙を拭いながら、ゆっくりと私の身体を引き離し

「とりあえず身体を清めてくると良い」

と言った。私は「はい」と言って頷いたが、なぜかマダラ様は少し寂しそうな顔をしていた。

「……一人で大丈夫なのか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか…」

マダラ様は顔を私から少し背けた。口を引き締め、不貞腐れているように見えたので、私はマダラの顔を覗き見た。

「あの…マダラ様…?」
「……その肩の傷で、自分で洗えるのか」
「片方の腕で洗えますので…」
「……お前はもう少しオレの気持ちを察しろ」
「えっ…?」
「もう良い…!早く入ってこい」

私は首を傾げてマダラ様を見つめていると、マダラ様が顔を赤くして私の背を押して、女中達に付いて行くよう促した。「行って参ります」とマダラ様に告げて部屋を去ると、私は女中と共に沐浴場へと向かった。


この時から、私の待遇が変わっていた。以前は一人で済ませていた沐浴も、女中二人が付き添い、私の身体を洗った。そして、着替えや髪を結う時も女中の手によって行われていた。

「一人で大丈夫ですので…」

私はこれ程丁重に扱われる様な身分ではないので、女中達にそう告げた。しかし、女中達は

「マダラ様の御命令でございます。御正室と変わらぬ待遇をしろとのことです」

と言ったので、私は驚いて女中の手を持ち、

「そんな…!私は正室でもないですし、皆さんに迷惑をかけてしまうのは嫌です」

と言った。女中達は困った様に顔を見合わせる。

「ですが、マダラ様の御命令ですので…御命令に背けば、私達が罰を受けます」
「…………」

そう言われると、私も黙って言うことを聞かざるを得ない。今までこのような待遇を受けたことがないので、終始ぎこちなかった。
着物を着終え、髪も結ってもらうと、私は女中達に連れられながら再び部屋へと戻った。この頃には既に日が沈み、屋敷中の隅から隅まで暗闇に包まれている。歩いている時も前後に女中がいるので、まるで守られているようだった。この状況にまだ慣れず、どこか落ち着かなかったので頭を下げながら廊下を歩いていた。

「小夜様、既にお食事と寝具の準備は整え終わりましたので、また何かございましたら私たちに御命令を」

部屋に着いた時、女中が私にそう告げると、襖を開けて私を部屋に入るよう促した。部屋に入ると、マダラ様がまるで待ちかねたとでも言うように、笑みを浮かべ手招きをしながら此方を見ていた。

「小夜、此方に来い」

隣に座ると、マダラ様は私の手を握った。

「今夜は一緒に食事を摂ろう」
「マダラ様…嬉しいです。一緒に御食事ができるなんて」
「お前が好きな料理を運ばせた。思う存分、今夜は食べると良い」

私は口元に手を添えながら笑みを浮かべると、マダラ様が顔を傾けながら、私の顔を愛おしそうに見つめた。

「それに今夜は、オレがお前の食事を手伝ってやる」

目の前には既に並ばれている食事にマダラ様は手を伸ばし、箸をとって、私の口元に運ぶ。

「まるで赤子のようですね」

私は恥じらいながら、口に含ませた。マダラ様は動かすことのできない私の片腕を案じて、こうして下さっているのだろう。その優しさに私の心は温まり、よりマダラ様への愛が深まっていくのだった。

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