その器は万能の願望器。奇跡さえたやすく産む未知の存在。
ならばこの身を焦がす欲望も、きっと叶えてくれるのだろう。
「この通りに描かなきゃいけねえのかなぁ、めんっどくせえなぁ」
天理市の隅にある、置き去りにされたような廃ビル。外付けの非常階段を軋ませながら、植田京兵は一冊の書物を読んでいた。
片手にある油の入った一斗缶は、家からくすねて来たものだ。歩く度にたぷんと揺れる感覚は、不安定で嫌いではない。
聖杯戦争のことは、よく聞いていた。誉れある戦いだが、血で血を洗う闘争でもあると。
始まってまだ四代目の比較的若い家系である植田家は、これまで聖杯戦争への参加を許された事は無い。
そして恐らく、これからも無いだろう。何せ次期当主ーーつまり植田京兵は、三年程前に植田の家を破門された。
理由は彼の魔術の”使い方”にあった。彼は魔力を持たぬものを脅かす為に魔術を行使したのだ。
その行為は非人道的であり、また――恐らくこちらの理由の方が大きいのだが――今まで秘匿されてきた魔術師とその力の理が世に知られてしまう危険性があるとして、植田家は総力を挙げ彼を暗殺しようとした。
だが人の殺意に目敏い彼はその前に家を逃げ出し、植田家はその事実を隠蔽するかのように彼を破門したと公表した。
そんな彼の右手に鮮血のような色の令呪が出現したのが一週間程前だ。
始めは驚いたが、すぐにその事実を受け入れた。戦う機会がやってきたのだ、そう思うだけで震えた。
そして報告のついでにと、彼は久しぶりに生家を訪ね全員を殺し燃やして来たのだ。みな死に、家は潰えた。
ただ彼だけを残して。
「にしてもこの缶、何が入ってんだか…えらく臭うな」
ただの油だろうと思って持って来たのだが、漂うのはオイルの臭いではなく、もっと刺激のあるものだった。
まぁ魔法陣が描ければ中身が何であろうと構いはしない。ようやく屋上に辿り着いた彼は、缶を足元に置いて伸びをした。
目深に被っていた黒いフードを脱ぐと、顔の左半分にびっしりと黒い植物のような文様が刻まれている。自分で彫ったタトゥーだ。
月光の下に彩度の低い金髪が煌めく。両耳に無数のピアスを嵌めた彼は、古い魔術書をもう一度開いた。
一斗缶の蓋を開けると、匂いは一層強く漂う。ひょっとしてこれが香油という奴だろうか。
すん、と鼻を鳴らすと、柑橘に似た香りにも感じられた。だがあまりに強過ぎて、正直良い香りだとは思えない。
鼻から息を吸うのを意識的に抑えながら、植田はコンクリートの足元にゆっくりと油を垂らし始めた。
どうせ何も起こりはしない、と高を括っていた自分を絞め殺してやりたい。杵豆幹斗は弾けるような光を前に目を細めながらそう思った。
象徴・図像解剖学のレポートの為と言って大学図書館から借りて来た文献。その中にあった魔法陣を寸分の狂いも無いよう床に描いたのだ。
ことの発端を遡ると、それは掃除中に自宅脇の倉庫から見つけた古い金属片にある。
絹の布切れにくるまれたそれは更に木箱に入れられており、茶色に変色しかかっている紙切れが同封されていた。
書かれていたのは儀式の手順や呪文と思しき文言、そして魔法陣の縮図。
直径三cm程度のそれの細部を確認すべく図書室を漁り、恐らく同じ物であろう図像を見つけ出した。
漫画に良く出て来る黒魔術師の真似事でもしてみようと、最初はそんな軽い気持ちだった。
魔法陣を描き終え聖遺物を恭しく置いた時は気持ちの昂りを感じたが、文言全てを言い終えた時には既に、心境は後悔に変わっていた。
淡く発光する魔法陣に自分がした事の重大さを思い知ったが、時既に遅し。止める手だてを考える間もなく、光は強くなっていった。
暖色の光は活発に散っていたが次第に収束して行き、光が消える頃にはそこに誰か立っているのがはっきりと視認できた。
腰を抜かしてしまったそのままの体勢で座り込んでいると、その人物は杵豆の存在に気付いたのか一歩こちらに歩み寄った。
「随分背丈の低い――と思ったけど、座っていたのか」
物々しい鎧と立派な二本角の兜を見て、あの金属片はこれらの甲冑の一部だったのだと理解した。
鎧の下のかんばせは青年のそれだ。右目にも鎧と同じ素材らしき眼帯を嵌めている。
魔法陣の光は消えたと言うのに、彼自身が光を放っているようで、淡く照らされるその姿はとても神聖に見えた。
コスプレ野郎め、と罵るだけの余裕は無さそうだ。神話や伝承には西洋美術の講義でいくつか触れているが、この男はまさか。
「こんなもの呼び出せるなんてどこにも書いてなかったぞ……」
「ん?どうした、立てるか」
こちらの驚愕も他所にしれっとした顔で問う青年。杵豆はむ、と顔を顰めると、反動をつけて立ち上がった。
互いがすぐ目の前に来る位置に立つと、二本角の兜を外して青年は顎をあげた。隻眼が見開かれている。
「馬鹿にしないでくれるか」
「……そんなつもりはない、すまなかった」
190cmの長身を持つ杵豆は鼻先より下にある青年のつむじを見下ろした。
背ばかり伸びて、とからかわれる事は多かったが、日本人離れしたこの身長を好きで授かった訳ではない。
とはいえ、今はこうして威嚇に少しでも役立った訳だから、全くの”うどの大木”でもないようだ。
青年は一歩下がりながら足元に兜を置く。そうすると互いに顔がはっきりと見て取れた。一つしか無い目は随分と静かにこちらを見ている。
「生前俺は王であった。人に仕えるというのは初めてだが、呼び出したお前の為に最善を尽くそう――必ずや聖杯をその手に」
右手を心臓の上辺りに当て、腰を引いて頭を下げる。事情が分からず杵豆は混乱した。
聖杯というのは、かの聖杯伝説のものだろうか。話題になっていたので何とはなしに読んだダン・ブラウンのミステリーを思い出す。
ついでにそれを勧めて来たのが先日自分を振った学部の女子だったことを思い出して要らぬダメージを受けた。
あれはただのフィクションに過ぎない。それに自分の推測が合っているのなら、この人物がそんな”聖杯”を知っている筈は、無い。
それにもう一つ。仕えると言うのは、自分に対して言っているのだろうか。元王が自分に仕える?冗談じゃない。
まごつかせていた口を漸く開き、杵豆はばつの悪そうな顔で切り出した。
「なぁ、違ったら悪いんだけど」
「ん、なんだ」
「あんたさ……北欧神話の、オーディンか」
「如何にも俺はオーディンだが、呼び出したくせにそれを聞くのか」
またもしれっとした顔で言う彼に、杵豆はいよいよ頭を抱えたくなった。北欧にお帰り頂きたいが無理な願いだろう。
「もしかして本物かと疑っているのか?確かに俺自身はただの英霊に過ぎないが、神としての高い能力を持っている、心配するな。
それと、みだりに真名を呼ばない方が良い。こういう場合はクラスで、つまり俺の場合はランサーと呼ぶのが妥当では?」
「ら、らんさー?何だそれ…あんたがグングニルとかいう槍を持ってるのは知ってる、が…英霊?」
困惑した様子の杵豆に、ランサーも同じように困惑顔になった。
どうやらこの青年は、呼び出された自分以上に事情を把握していないらしい。
「…呼び出したのは、お前ではないのか?」
「いいや俺だ、俺で合ってる。ただその――目的があった訳じゃ、無い。呼んでみたら本当に呼べただけなんだ」
杵豆の言葉にランサーは絶句した。よもや好奇心や興味本位で北欧神話の王を呼び出す人間がいるとは。
俄には信じ難い話だが、杵豆の申し訳無さそうな顔を見るとどうも事実のようだ。
ランサーは暫く思案すると、杵豆の右手をとった。薄く白い手の甲に浮かび上がる赤い文様に、今度は杵豆が絶句した。
「な、んだこれ…あんた何かしたのか…!?」
「俺じゃない。……お前は既に選ばれている、もう後には引けないという確かな証拠が、これだ」
信じられないものを見る目で手の甲をまじまじと見つめる杵豆を見上げ、ランサーは聞こえないように溜め息をついた。
自分が、呼び出されるであろう他のサーヴァントよりアドバンテージがあることに楽観していたが、これはとんだ問題だ。
アドバンテージどころか、他の陣営よりも遅れを取る事になる。聖杯は彼にとっても最後の希望だ、何としてでも手にする必要がある。
となれば、まずは知識を。未だ呆然とする自分のマスターの細腕をとると、ランサーは強引に引き寄せ、険しい顔で言った。
「この戦争について俺に授けられただけの知識を与える。俺と共に戦場に立て」
脱ぎ捨てたカソックとロザリオを、暖炉に投げ入れる。
ソファにかけられたグレーのシャツに、ダークブルーのネクタイ。黒のスーツ。床には黒い革靴。
こんなに真っ黒では、カソックとあまり変わらないな。鑑の前で苦笑して、ごきりと首を鳴らす。
「教会を離れた方が良い」などと言いつつ司祭は教会の一室を好きに使えと与えたが、明日辺りにでも荷物をまとめて出て行くつもりだ。
広い部屋もシャンデリアも、神のご加護も。これから始まる戦争には必要がない。
それにあの司祭とたびたび顔を合わせるのも不快だ。あれやこれやと理由を付けて出て行く許可も得たので、比較的気分は楽だ。
あれから暫く。戦いに備えて鍛えた体は以前のように肋が浮く事も無く、残る傷痕も随分と薄くなった。
シャツに袖を通しながら、背中に感じる視線にまた苦笑を零す。嫌な意味の笑いでは決して無い。
「別に言いたい事があるなら言っても構わねぇっすよ」
広く薄暗い、暖炉の炎だけが明るい部屋に佐々木の声が木霊する。部屋の隅、亡霊のようにその人物は現れた。
ボタンを留めながら振り返ると、真っ白と形容するに相応しい透き通った肌のその人が、碧の目でこちらを見ている。
細く白いその人物は男性か女性かもわからないような見た目をしているが、佐々木は彼が男性だと言う事を知っていた。それも、ずっと昔から。
「その傷は、」
屍蝋の唇が言葉を選び兼ねてもたつく。ボタンを全部留め終えたので次はズボンを履きながら、佐々木は「まぁ、」と軽い調子で言う。
「大した事じゃない。怪我はするもんだ、男の子だからな」
「そうやって煙に捲くのがお好きなのですか?それとも私を――いいえ、俺を信用してないのですか」
ベルトを締め、裸足に靴下を履かせながら佐々木はいいや、と答える。雑な返事に、彼――アサシンは不服そうな顔をした。
煙に捲くとはまた、喫煙者の自分には似合いの言葉かもしれない。禁煙しろと言われていたが、一度ハマってしまって抜け出せる筈が無い。
座ったらどうですか。徐にそう勧めると、アサシンは黙って歩み寄り、ソファに腰を下ろした。
靴を履き終えた佐々木に、少し離れた所にかけられていたネクタイを手渡す。どうも、と言えば、いえ、と掠れた声の返事が薄暗闇に消えた。
アサシンの長い髪は白く、今は暖炉の炎を受けて橙色に煌めいている。
炭になっていくカソックとロザリオをぼんやりと見つめながら、細足を持ち上げて膝を抱えた。
「あの…ロザリオ、燃やしてしまって良かったんですか」
「構いやしません。昔はそこそこ信心深かったもんですが、今はそうでもないですし」
寧ろ本当に神がいるのならば、一度会ってボコボコにしてやりたいところだ――とは思ったが、口にはしないでおいた。
散々な人生ではあったが、こうして彼と会える機会がまた巡って来たのだから、人生悪い事ばかりではない。
慣れないネクタイをようやく締めると、上着を羽織って彼の隣に腰を下ろした。ぎ、と軋んでソファがまた少し沈む。
無骨な手で、彼の右頬に触れる。石膏を思わせる冷たい色は、それでも触れれば確かに生きている温かさがあった。
可笑しな話だ。英霊は贋作であって本人ではない。過去の人物の偽物で、生きていると呼んで良い存在なのかもわからない。
それでも確かに隣にいるのだ。断頭台で彼の首をはねた事を思い出す。あの彼とこの彼は同じであって別物だ。
「…痛かったでしょ、これ」
「…仰ってる意味がよく、わかりません」
「うん、まあ、だろうな」
彼の右頬を打った若者を思い出す。彼が覚えていない筈だ、だってそれは。
ふ、と零した笑い声に、アサシンは不審そうな顔をした。
「何でもないっすよ。」
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