他者を圧倒することに興味があった。
 こと傲慢に胡座をかく者を叩き落とし、踏みつけるのは。
 悪趣味だと言う者も居るが、力や知識を欲するのが当然ならば、それを証明する場を欲するのもまた当然なのではないか。
 得たものの大きさを知り、また知らしめることで漸く、器は満たされるのだ。
 ほんの、少しだけ。

 
 兄上、とか細く鳴く声。
 見遣れば三つ下の弟が倒れていた。両足がそれぞれ奇妙な方向にねじ曲がり、頬をいびつに浮き出た血管が赤黒く這っている。
 代々研究して来た魔術が一子相伝の秘宝ならば何故、両親はこんなにも子をもうけたのか理解に苦しむ。更に向こうでは末の妹が随分前に失血で事切れていた。姉も少し離れた場所で虫の息だ。
 邪魔さえしなければ、殺すつもりは無い。ただあまりにもか弱いので、手加減はどうにも上手く行かなかった。
 薄暗がりを静かに見回す。まだ気は抜けない、最後の仕上げが残っている。
 長男だからと言う理由で、これといった能もないくせに偉そうにしていた彼を、結局最後まで好きにはなれなかった。
 そもそも誰かに好意を抱いた事は今まで一度だって無いが、彼に対しては他の誰よりも嫌悪と侮蔑の対象であった。
 華奢で小柄な自分は、よく”的”にされたものだ。二十年近い仕打ちのお返しは、今すべきだろう。
 ローヒールがコンクリートを擦る。
 生家にこのような地下室があることに兄妹達は驚いたが、彼は以前から知っていた。忍び込んでは”遊んで”いたのだ。
 彼らの誰よりもこの地下室を把握していたし、部屋の存在理由も知っていたから入念な罠も幾つか張ってあった。
 後方からざり、と足音。自分の腕を踏みにじった馬鹿みたいな飾りの革靴の音。
 それで気配を殺しているつもりかと嗤い、背後へゆっくり忍び寄って来るのを、ただ待った。
 耳の後ろ辺りに、気配。すかさず振り返り、自分より高い位置にある襟首を掴む。
 
「気付いていないと、驕ったか?」
 
 一月の宝石のように赤い瞳が、長年の仇敵を捉えた。真っ赤なのは怒りに燃えているせいではない、眼前の愚者を仕留めるためだ。
 視線が合ったその一瞬で、実兄は力無くその場に崩れ落ちる。
 格段に重さを増した襟首から手を離すと、その向こうには父親が立っていた。
 事の終わりを察し、ゆったりとした足取りをこちらに向ける。分厚い掌から投げやりな拍手が送られた。

「よくやった、これで誰を戦争に送るべきか、漸く決心がつく」
「俺が申し上げた通りでしょう、こんな腰抜けでは役に立たないと」
「ああ、そのようだ」
 
 父親が視線を下へと向ける。どう見ても結果は出ていた。
 冷たい床に倒れ麻痺に抗えず痙攣するだけの憐れな息子に緩く緩く首を振り、向き直る。

「勘三郎、吉田の命運はお前に託された。さぁ、これを」

 掌に収まる程度の樫で出来た小箱を渡され、勘三郎と呼ばれた青年は乾いて白い唇を僅かに歪めた。
 
 




 赤い絨毯。並ぶ長椅子。祭壇の前で、佐々木圭介はこうべを垂れる。
 膝をつき、手をつき。カソックの黒い背中を、青白い月明かりが照らした。
 ふいに、その背中に影が差す。ステンドグラスも無い質素な窓と祭壇、その手前に一人の男が立っていた。
 磨かれた黒い革靴が、佐々木の顎をとらえ、顔を上げさせる。司祭、と色の無い声が静寂に溶けた。
 
「どうやら聖杯は君を選んだようだな、圭介」
「…この身に余る光栄です」
 
 絨毯についた右手、その甲には赤く焼ける様な細い文様が刻まれていた。
 その焼け付く様な痛みにも眉一つ動かさず、眼鏡の奥の茶色の双眸は司祭を見上げている。
 この光景は一体何度目だ。自問しては見るものの、もう記憶に無いほど何度も見たシーンだった。
 パターン化された流れは何度も芝居の練習をしているのと同じ様な錯覚を見せる。
 いつもそう。結末がどうであれ、始まりはずっと変わらないままだ。
 手には赤々と令呪を宿し、司祭に向かってこうべを垂れ、それから。

「くちづけよ」

 短く告げられた言葉。黒い靴の爪先に、唇を落とす。指先を絨毯に深く沈め、平静な心を保った。
 この上ない屈辱、それに他ならない。変態め、と内心で手酷く罵りの言葉を吐く。
 神に仕える者の衣服の下は、およそその仕事とは結びつかない様な傷痕にまみれていた。
 詰襟に手首足首まですっかり隠れてしまうこの服は、司祭にとって絶好の目隠しなのだろう。
 静かに司祭の方へ視線を戻すと、信仰心の深い者達からは敬われる営業めいた笑顔を浮かべていた。
 立ちなさい。その言葉に従って立ち上がれば、皺の刻まれた手が胸の上を滑る。ちょうど、ロザリオの上で止まった。

「君も一人のマスターとなった以上、この教会を離れる必要がある。何せ我々聖堂教会の役目は監督すること、中立であらねばなるまいて」
「はい」
「とはいえ丸腰で放り出されるのではいささか心もとなかろう。よって聖遺物は私が用意してやる、激励と餞別代わりにな。よいかね」
「お気遣い、痛み入ります」

 カソックの合わせを緩慢な手つきで解く。上だけ裸になると、青痣と縫い痕がそこら中に散らばっていた。
 痛々しい痩身に司祭はほくそ笑む。肋の浮いたその真ん中に、相変わらずロザリオが冷たく揺れていた。
 跪きなさい、言われるままに再び絨毯の上に膝をつけば、あとはされるがままで良い。
 不快で、気分はすこぶる悪い。肌を這う節くれ立った手を今すぐにでも握り潰してやりたい。
 それでも佐々木には、司祭の用意するという聖遺物が必要だった。他のものでは駄目なのだ、呼ぶのはいつだって一人だけ。
 そして彼には悲願があった。幾度も聖杯を呼び寄せるだけの強い願いを抱えていた。
 脇腹を撫で回され、背中の傷口に爪を立てられ、ほつれた傷口からは血が滲んでいく。唇を噛んで黙る。
 今はどんな屈辱にも耐えてやる。そうして聖杯を手に入れた暁には、全ての悲願を必ずや遂げよう。
 温い舌に蹂躙されていくのを感じながら、彼は静かに眼を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 嘘だろ、と呟いた言葉は教室の喧噪にすぐさま掻き消される。
 暫く呆然と己の手の甲を眺めていた少年は、しかしすぐさまハッとして周囲を見回し、カーディガンの裾を引いて手の甲を覆い隠した。
 親に報告しなければ。彼の胸は高鳴りを隠せなかった。終業が待ち遠しく、授業にもいまいち身が入らない。
 話は幼い頃から聞いていた。六十年に一度の戦い。選ばれるのはたったの七人、その中で最後まで勝ち残った者は栄光を手に出来るという。
 優れた魔術師たちによる命をかけた勝負だ。その中にたった今、自分は選ばれたのだ。
 少年、北里はにやける口元を隠しもせず机に突っ伏した。今まで自分を馬鹿にして来た連中を見返すには絶好のチャンスに他ならない。
 聖杯戦争に深く関わる御三家の生まれでありながら、北里の魔術師としての腕前は凡庸にも劣るものだった。
 その落ちこぼれっぷりに同世代の魔術師達からは笑い者にされ、家の者からも哀れまれて来た。
「こんなことならもう一人産んでおくべきだった」とまで言われた事もあった。酷い侮辱もあったものだ。
 しかしそんな日々にも今日で別れを告げられよう。聖杯は北里霧を相応しい者として選んだのだ。
 右手をカーディガンの上からそっと握り、北里は期待に満ちた眼で笑った。
 
「本当に、参加するつもりなの?」
 
 そうして今、暗い目をした母親と畳の上で膝を突き合わせている。
 母親である北里霞は北里家の現行当主だ。婿養子だった父親は五年ほど前に他界している。
 え、と。期待外れの言葉を返された少年は困惑した顔でそう漏らした。木漏れ日が切り取る昼下がりの日光が二人の頬を揺れる。
 喜ばれるものだと思っていた。ようやく誇らしく思ってもらえるものだと。それなのに今目の前に居る母親の顔は何だ。
 呆けた顔の嫡男を見て溜め息をつくと、霞は着物の裾を少しだけ直して、きっちりと居住まいを正した。
 
「あなた、これがどのような戦いか、わかっているの。
 我が北里家以外の御三家――吉田と岡部、それ以外にも非常に優れた魔術師が集うのよ。
 聖杯を手にする者以外はほとんど間違いなく命を落とすの。
 ねぇ霧、あなたの様な半端な魔術師の端くれが立って良い舞台では、ないの」 
「でも母さん、」
「よくお聞きなさい」

 現行当主が頼りない次期当主を見る目は、厳しかった。北里の膝に置かれた拳が、軋む。
 
「あなたが聖杯に選ばれた事は、北里家当主としてとても誇りに思います。
 でもあなたの何が聖杯を呼び寄せたのか、私にはよく分かっている。
 そんな願いを持つ者が、一体どうして熾烈な争いで生き残れると言うの。
 考え直して頂戴。北里の跡継ぎはあなた一人なのよ。ここで血が途絶えてしまうのなら次々回の聖杯戦争の為に、」
「母さん!!」

 続く言葉には耐えきれず、母親の言葉を遮った。
 自分がどれだけ期待されていないのか。それは良くわかっていたつもりだが、改めて突きつけられた言葉は、あまりにも鋭く胸を抉る。
 正面同士で向き合っている霞は、泣き出しそうな、怒り出しそうな、奇妙な顔をしていた。
 自分もきっと同じ様な表情を浮かべているのだろうな。そう自嘲気味に笑ってから切り出す。
 
「…聖杯戦争には、北里家の後継者として名乗りを上げる」
「霧、」
「母さんの忠告には、悪いけど従えない。俺は聖杯戦争に参加する。
 それにこの右手に令呪が宿った以上、いくら母さんが止めたってもう俺は戦うしかない」

 そこまで聞いて、霞はとうとう清廉な瞳に浮かべていた涙をわっと溢れさせ泣き出した。
 その涙が息子を思っての事なのか、家の未来への絶望なのかは分からない。否、わからないふりをした。
 話が済んだ事を感じて、北里は立ちあがる。見下ろすと、震える母の肩は酷く頼りなく見えた。

「必ず聖杯をこの手に勝ち取って、北里家の名誉も取り戻してみせる」

 そう口にした誓いは、彼女に届いただろうか。
 
 
 
 
 
 
「…――素に銀と鉄、礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ…」
 
 青白い光を微かに散らす魔法陣を見下ろしながら、男は決められた台詞を淀みなく紡ぐ。
 夕刻を幾らか過ぎた寺の境内は薄暗く、赤く差し込んでいた光もかなり弱くなって来た。もう外は藍色の空だろう。
 場所は何処でも良かったが、何となく自宅は嫌でこの寺まで来てしまった。幼い頃からよく世話になった場所だ。
 赤い令呪が刻まれた右手の甲が熱を帯びている。そしてその指先は血で汚れていた。
 家から筆でも持って来れば良かったな、などとぼんやり思うが、すぐに雑念は捨てようと思い直す。
 呼んでもいないものが出て来てしまっては大変な事だ。脇に打ち捨てた鶏の死骸の始末も、考えるのは後回しである。
 強くなり始めた光を見下ろしながら、言葉は淡々と続く。
 恐らくこたびの聖杯戦争で、最初にサーヴァントを呼び出したのは自分だろう。何せまだ戦争開始まではかなりの時間がある。
 聖遺物の取り寄せなど、みな苦労しているに違いない。だが彼には、他のマスター達の事などさして気にならなかった。
 彼の興味の対象、それは自分が今呼び出しているサーヴァントただそれだけ。
 長く自分の家に置かれて来た、麗しい聖遺物。ローマからわざわざ取り寄せて保管していたと言う、古い宝石。
 それによって呼び出せるというかつての英雄と、相見えるのが何よりの楽しみだった。
 運良くこの時代に生まれ落ちた事を、居るかどうかも知らない神に取り敢えずは感謝する。
 聖杯戦争。この戦いに選ばれなければ、彼を呼び出す事など到底叶わなかっただろう。
 強大な力を持つ聖杯の呼び声。その渦に呑まれる事は、彼にとって何よりの幸運に思えた。

「…汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば、応えよ」
「――誓いを此処に、」

 生まれてこの方無かったほどに、体中の血が沸き立つのを感じた。
 清澄な空気に呑まれているだけにしては、頭はやけにはっきりしている。 
 何処からとも無く風が吹き上げ、古い床板が不穏な声で軋み始めた。男の羽織の裾も、風を孕んで声無く叫ぶ。
 
「我は常世総ての善と成る者、
 我は常世総ての悪を敷く者。
 汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――」

 強大な力を感じた次の瞬間、光の柱が境内の天井まで高く突き上げた。青白い光が四方八方に散り、漂う空気が一層重くなる。
 電流にも似た音と光が、鞭のように撓りながら足元を緩やかに走っている。
 光の幕が徐々に消えてゆき、眩かった魔法陣の中心にひとつ、人影を確認した。男の黒い双眸に期待の光が灯る。
 僅かに残る青白い光の片鱗に、纏う鎧の重い銀色が煌めいた。鎧を纏っている事を差し引いても、背丈はかなり高いように見える。
 艶やかな黒髪、そしてその下には精悍な騎士のかんばせがあった。
 魔法陣の発光が消えると同時、夜闇に包まれる境内に、男はすいと指を振って明かりを灯す。
 変わらず精悍な面立ちをした男が、陣の中央に立っていた。和服の裾を揺らして、静かに歩み寄る。足袋が血に汚れたが構いはしない。
 近寄って見れば、美男子に分類されるような整った顔の青年だった。無骨な大男を想像していたので、些か驚く。
 薄い唇を開き、呼び出された青年は最初の言葉を口にした。

「貴方が、わたしのマスターか」
「――見ての通りだよ。この地味な魔法陣と美しい聖遺物、お決まりの台詞で君を呼び出したのは、如何にもこの僕だ」

 ふざけて両手を広げてみせるが、「左様か」と返す青年の表情は変わらない。
 それでも男は、飽きずにその顔を見つめる。無事にサーヴァントを呼び出せたことに、内心歓喜で一杯だった。
 表情を変えないまま、鎧をがちゃりと鳴らして跪く。

「では、聖杯を必ず貴方の元へともたらそう」
「それはどうも――ああ、その前に僕、自己紹介を忘れていたね」

 視線を合わせるべく男は鎧の青年の前にしゃがむ。のほほんとした人の良さそうな顔で笑って、

「僕は岡部真弥。よろしくね、竜殺しの騎士」





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