首にかかる自重に苦しんだのは、ほんの一瞬のことだった。
 窓の割れる音に隻眼を開けば、細かい硝子の破片がうつくしい結晶のように飛び散っていくのが見え、次いで浮遊感が体を襲うのと同時に首の縄が緩むような感覚。
 足元にあいていた穴から落ちたリッヒテは、したたかに叩き付けられた衝撃にようやく理解した。
 ああ、処刑台が壊れたのか、と。
 すぐに上体を起こせば、隣のヴァルツァと目が合った。にやり、と見慣れた笑み。

「どうやら救世主様がご登場のようだね」

 言いながら膝で手枷を叩き割るヴァルツァの言葉は謎だらけだったが、絶体絶命を免れたのは確かなようだ。
 処刑台の残った柱に手枷をぶつけて破壊すると、リッヒテはレイチェルに駆け寄った。
 埃に噎せる小さな背中をさすり、腰に佩いていた五十嵐を一振りして手枷を外してやる。刀を没収しなかったのは提督の手落ちだ。

「レイチェル、大丈夫かい?」
「……っ、」
 
 さきほどまで恐怖に震えていたせいか、上手く声が出せないらしいレイチェルの背を撫で続け、もう片手で首にかかったままの縄を外してやる。
 見たところ膝を擦りむいた程度のようでリッヒテは安心した。
 自分のそれも外しながら現状把握も半端なままここから出るべきか迷っていると、背後で「ぐぇ、っ」と轢かれた蛙のような声。
 反射的に振り返れば、ヴァルツァの細足が穴の上へ引き上げられるところだった。首に縄をかけっぱなしにして引っ張られたのだろう。
 きっと相手はあの処刑人だ。恰幅の良い大男、それも首に縄をつけられていては幾らヴァルツァでも分が悪すぎる。
 莫迦、と口の中で呟きリッヒテはその場にいるようにとレイチェルに言い含め台の上へと這い出した。
 首を締め上げられて気絶寸前のヴァルツァに、処刑人の斧が振り下ろされようとしている。
 五十嵐を握った右手を伸ばすが、白い首筋目掛けて落ちる斧には届かない―――――――

「ヴァルツァ!!」

 そこに突然、碧の風のような声が響き、大男が吹き飛ばされた。
 その手から縄が離れたのを見て、リッヒテは咄嗟に落下するヴァルツァの下へ滑り込む。
 小柄な体を難なく受け止め、首にかかっていた縄を切った。海を往く者とは思えぬ白い首筋に、赤黒く残る縄の痕。
 これは暫く残るぞ、と呆れたように笑い、リッヒテはヴァルツァの横っ面を何度か張り虚ろ眼を叩き起こす。
 寝るなよ、と声をかければ切れ長の瞳をようやく開いた少年は地を這うような声で唸った。
 玻璃の鏡の如く真っ直ぐな瞳にかかっていた薄雲のヴェールはすぐに晴れ、平生の如く苦しき海の善も悪も見抜く利剣の眼光が取り戻される。
 ヴァルツァも戻って来たところでリッヒテはさっきの声の主を思い出した。
 聞き間違えたとは思えないが、と口を開きかけたところで未だ立ち込める埃と煙の彼方から光る何かが飛んで来る。
 咄嗟に二人は身構えたが、鈍い音と共に足場に突き刺さったのは見覚えのある美しい剣だった。
 リッヒテとヴァルツァは全く同じタイミングで顔を見合わせる。

「「ロベルト!!」」

 ヴァルツァがグランディオンを力任せに引き抜き台から飛び降りるのに、リッヒテも続いた。
 白刃で煙を振り払いながら若き船長を探すと、薄煙の一枚向こうで彼の声影が揺れるのが見え、次いで見えたのは大きな人影。
 リッヒテは隻眼を瞠くと、音もなく地を蹴り五十嵐を薙いでその巨体に斬り掛かる。
 衝撃に次いで、肉を裂く弾力混じりの抵抗感が腕に響いた。獣のような唸り声。
 肉と骨で出来ている以上すんなり切り落とせる訳もなく、リッヒテはふっ、と小さく息を吐くと力を込め直す。
 嫌な音がするのは、とっくに慣れてしまっていた。斬るとさだめた以上、最後までやり遂げるだけだ。
 息を詰め、力を込め、二本の腕に筋が浮き、ふつりと汗が吹き出すと、程なくして刃ががくんと下に落ちる。
 肩の辺りだったらしく、道理で力が要った訳だと納得してリッヒテは男の切れ端となった腕を蹴飛ばした。
 倒れ伏した巨体は放っておいても勝手に失血死するだろうし、今ここで引導を渡してやるほど隻眼の海賊は親切ではない。
 辺りを見回すと肩口に傷を負ったロベルトが座り込んでいるのが見え、存外元気そうな姿にリッヒテは詰めていた息を大きく吐いた。
 
「無事で何よりだ、船長」
「見た目ほど無事じゃねえんだけど一応生きてるよ。それと、」

 ロベルトの蒼い視線が彼の後方に行く。リッヒテが視線を追うと、ロベルトに隠れるようにして女性が座り込んでいるのが見えた。
 何故か男物の服を、丈も幅もおおいに余らせて着ている彼女は霞のように儚いが、見え隠れする無数の傷は彼女を幻ではないと証している。
 この非常時に女とは余裕だな、という思いが過ったリッヒテに気付いたのかロベルトは慌てて口説いてない!とかぶりを振った。
 そんな様子ではますます信用ならないのだが、今それを議論しているほどの時間はない。

「彼女のことは一通り終わってから説明するから!とりあえず敵じゃないから!」
「……わかったよ。一通り終わって俺も君も彼女もくたばってなければ、そうしてくれ」
 
 呆れ混じりに言うリッヒテにロベルトは安堵の息を吐き、女性を後ろ手に庇いながら周囲を見回した。
 この様子だと、よほどのことがあったのだろうな。
 丸腰だというのに臨戦態勢だと言いたげな目つきをしている若者を背後に置き、リッヒテは五十嵐を低く構える。
 鮮烈に煌めく蒼いふたつの瞳。誰かを守ろうとするひたむきな姿に、まだ血も知らぬ頃の己を重ね、隻眼の剣士は薄く唇を歪めた。
 
 
「やあ副船長、まだ生きてるか?」
 
 言いながら再び台の下へ滑り込み、ヴァルツァはリッヒテの言いつけ通り待機していたレイチェルの隣を陣取った。
 色白の手に握られたものを見て、レイチェルが瞠目する。
 
「ヴァルツァ、それ」
「あ、折角抜いて来たのに本人に返し忘れてた。しかしうちの船長は中々しぶといな」

 差し込む光を受け煌めくグランディオンの白刃。高価だからと言った本人がぶんぶんと振って笑う。
 さーて僕の相棒はどこかな、と軽い調子でのたまうと、ヴァルツァは部屋中に立ち込める煙の隙間を覗く。
 波のようにたゆたう白煙の向こう、兵卒たちの混乱する声や足音がこちらまで伝わってくる。
 ふいに。ヴェールのように揺らめく煙と埃の向こうで何かがきらりと光った。
 この少年にとっての海賊の証、付き合いもそれなりの己が武器である三日月を描く刃を見間違える筈もない。
 ヴァルツァは口許を笑みの形に歪めると、台下から出て行こうとした。
 しかし、台上へと駆け上がる足音が少年の歩みを引き止める。
 取り付けられた階段を上がる音は三つ、茶色とオフホワイトのブーツはロベルトとリッヒテだ。
 裸足らしきもう一つは恐らくロベルトが連れていた女性のもの。追いつめられたらしく、焦りの滲んだ声が聞こえてくる。
 助けが必要かな、とヴァルツァが思案するより早く、隣のレイチェルがロベルトの名を叫んでヴァルツァの手からグランディオンを奪い取った。
 そして間髪入れず処刑台の穴から上へとその美しいつるぎを投げ上げる。
 この剣を打った鍛冶屋が見たら卒倒しそうな扱いではあるが、ヴァルツァはレイチェルの咄嗟の判断力に舌を巻いた。
 ロベルトは無事自分の獲物を受け取ったらしく、ややあって台上の空気が変わる。ロベルトの怒号とリッヒテの咆哮が響いた。
 いくら刀仙と呼ばれる男でも、丸腰の人間二人を庇いながら戦えば劣勢にもなる。
 ほぼ素人とはいえ、ロベルトの手に武器があるか否かは大きな戦力差だ。
 ヴァルツァはレイチェルに向かって親指を立てて笑い、彼女の手を取って台の下から抜け出す。
 白煙に紛れ、ヴァルツァがレイチェルの腰を引き、耳元でその鈴の音にも似た声を転がした。

「ワルツだ、レィディ――――兵卒の間を縫って往くよ」

 片手はお互いに繋ぎ、もう片手をそれぞれ肩と腰に。
 夢のように嫣然と微笑むと、普段からは考えられないような優雅さで少年は滑るように踏み出した。
 ヴァルツァがレイチェルの体を持ち上げると、宙に浮いた踵の下を弾丸が掠める。
 はっと息を詰めるレイチェルの体を下ろすヴァルツァは黙したまま、彼女の腰に遣っていた手を離し、もう片方の腕を撓らせた。
 突如離れた二人の間を、幾つもの銃弾が飛び交い、それを見送ったヴァルツァは再びレイチェルを引き寄せる。
 ヴァルツァの動きが命ずるまま、強引なリードのままにレイチェルの小柄な体は不器用なステップを踏んだ。
 くるりとターンした華奢な背中すれすれを、サーベルの突きがすり抜けてゆく。
 二足のヒールの音は、空振りの悉くを嘲笑うかのように高らかに鳴り響いた。
 ぴたりと密着した小柄な二つの体は、弾丸も斬撃も交わしながら処刑場の真ん中を突っ切ってゆく。
 詰めていた息をいつの間に吐いたのか、俄に冷静を取り戻したレイチェルがじとりとした目をヴァルツァに向ける。
 何も発さなくたって彼女の目は常に雄弁だが、その自覚はなく、また言葉を発さずにはいられないのがレイチェルだ。

「ねえ、なぜ私達は踊っているのかしら?」
「そこにダンスフロアがあるからさ」
「可笑しいわね、私の目には修羅場しか見えないわ」

 言葉に棘はあるものの、レイチェルの口調はヴァルツァを咎めるものではなかった。
 ヴァルツァは笑みを深めると、ターンのついでに兵卒に足をかけ転ばせながら銃声に負けないよう声を張る。

「きみ、目が悪いんじゃあないか」
「そういう貴方は頭がいかれてるわ」
「ごもっとも!夢を見るのが日課なのさ!」

 睫眉の距離で二人は笑った。レイチェルは全く不思議な心地で、それでも湧き上がるままに笑った。
 霧り合う硝煙も徐々に色薄く、完全に立ち消える頃二人は目当ての場所に踊り着いた。
 ヴァルツァの手が解け、彼の相棒へと伸ばされるのを眺めながら、レイチェルはふと自分の手の熱さに気付く。
 繋いでいた時には気付かなかった、掌に汗が滲む程度の熱。
 どれほどに高揚していたかがありありと感じ取れてしまい、恥を覚えるとともに自分の知らない一面に驚いた。
 
(あの修羅場で、馬鹿げたステップで、私、わたし、笑っていた…)

 そのまま呆然としていたかったが、そんな時間も無く。ヴァルツァに声をかけられ、レイチェルははっとした。
 行くよ、という彼に慌てて頷き、二人して今しがた抜けて来た戦場を振り返る。
 その視界の真ん中を、黒く細い刃が遮った。


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