降り頻る雨の音を遠くに聞きながら、枯れ枝のように痩せた女性を抱え少年はフォートレスを疾走している。
 まだ僅かにあどけなさが残る顔を見上げ、オリヴィアは必死に走るその姿をいつかの提督に重ねた。
 彼も丁度、こんな顔をして廊下を駆け抜けていく人だった。生真面目な仏頂面を必死に歪めて。
 ふと、オリヴィアはまだ自分を薄暗い倉庫から連れ去ったこの”王子様”の名を聞いていない事実を思い出した。
 穏やかな午後の日差しを思わせる金髪は汗に濡れ、なだらかな頬と鼻梁に張り付いている。
 力強い青さでもって錆戸を蹴倒し奔る彼には悪いと思いながらも、オリヴィアは控えめに声をかけた。

「あの」
「っ、何、っです、か?」
「な…、名前を、まだ」

 遠慮がちな言葉に少年は噫、と頷く。透き通る冷蒼の双眸が微笑ったかと思えば、まだアルトの余韻を残した柔らかい声を弾ませて「ロベルト、ロベルト・クリストファー・ハワードです」と名乗った。
 惜しみなく輝く爽やかさを、若いなあ、と感心しながらオリヴィアは肩にかけられた天鵞絨のコートを握り、小さく「ロベルトくん」と呟く。
 不思議と、彼らしい名前だと思った。お互い異国の人間で、互いの国のこと、名前のことなんて僅かに知る程度なのに。
 息を上げ走るロベルトの額を汗が幾重にも流れ落ちてゆく。
 おりましょうか。オリヴィアは先程よりもはっきりと発話したが、ロベルトは「大丈夫ですよ」と笑うだけだ。
 兵馬のように疾駆する少年の、体中の筋肉が軋んでいるであろうことはオリヴィアにだってわかる。
 それでも虚勢を張る彼に、一体何と言葉をかければ楽にしてあげられるだろうか。

「ていうかですね」
「はい?」

 そんな事を考えていたら突如割って入って来た存外暢気な声に、オリヴィアは上擦った声で返事をした。

「俺、実は仲間を捜してたんですよ。オリヴィアさんなら中のことわかってそうだし、道案内頼めねえかなって」

 まあ案内しちゃうと海賊行為の片棒担ぎになっちゃうんで、嫌なら黙っててくれていいですから。
 そう付け加えたロベルトの言葉尻を掻き消す勢いでオリヴィアは「案内します。喜んで」と慌てて答える。
 妙なところで謙虚になるこの少年の、一つだけでもいいから何か助けになりたかったのだ。
 オリヴィアの様子にロベルトは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに相好をふにゃりと崩し「助かります」とわらった。
 細い指を口許に当て、オリヴィアは思案する。

「お仲間の方々が捕らえられているとしたら地下牢か、」
「うっ…また階下に降りなきゃならないのか…」

 げっそりした顔になるロベルトは、先程の転落で階段に対するトラウマ的な何かを植え付けられたようだった。
 オリヴィアは何か言って励まそうとしたが、軽はずみな言葉では却って傷つけるだけだ。
 この迷路のようなフォートレスでは、侵入者が逃げ切れる可能性は極めて低い。最悪の場合、もう…

「処刑、されていたら…」
「えっ」

 呟いて、オリヴィアはハッとした。元気づけようとしたのに、これでは全くの逆効果ではないか。
 しかし、慌てて謝罪しようとしたオリヴィアの言葉を遮ってロベルトは

「その手があった」

 と目を希望に輝かせた。
 ロベルトの中では決着がついたらしい話についていけないオリヴィアは、光の戻った冷蒼の瞳を見て問わずにはいられなくなる。
 
「その手、とは?」
「遅かれ早かれ処刑でしょう?だったら処刑場で待ち伏せすれば手間が省けるかなあと」
「そんな…処刑には必ず提督閣下が立ち会います。あの方を倒すなんて、不可能です…」

 誇張ではなかった。
 普段は迷惑な来客に振り回されがちでつい忘れそうになるが、齢二十の若さで提督の座についた彼の実力は高い。
 日常での冷静さやオリヴィアに向けた優しさからは想像もつかないほどに腕の立つ”騎士”なのだ。

「確かに、俺強くないですし。でも捕まってる仲間の拘束さえ解けばどうにかなりますよ」

 猛獣並みに強い奴が二人ほど居るんでね、とロベルトは口の端を吊り上げて笑う。
 あのとき。踊り場で見た二つの刃の煌めきは、まだ彼の瞳の奥でチカチカと明滅していた。
 自由に飛び回るかのような白刃の軌跡と、それを追って咲くように散った血飛沫。思い出すだけで背筋が粟立つ。
 心強い仲間のことを考え緩む口許を結び直すと、ロベルトは一旦足を止めた。
 
「オリヴィアさん。その処刑場ってのはどこに?」
「ええと。もう幾らか先なんですが、一つ下の階になります」
 
 了解、と呟いて再び走り出したロベルトを見上げ、オリヴィアは前を向く彼をひどく眩しく感じた。
 何と迷いのない足取りだろう。何と迷いのない瞳だろう。
 緩やかに波打つ金糸は、一つに束ねられ首筋に下りている。白い手を伸ばして触れてみると、ロベルトの肩がびくりと跳ねた。

「オ、オリヴィアさん?」
 
 ああ、何と優しくわたしの名前を呼んで呉れるのだろう。とうの昔に捨てた筈の希望さえ、彼はいとも簡単に。
 オリヴィアは眩い冷蒼の瞳を見つめ返して微笑んだ。もう何年もしたことのない表情を。

「ありがとう、ロベルトくん」
 
 わたし、ちゃんと笑えているかしら。



 
 時は少し遡り、海賊たちの処刑前。
 シオボールド・ニクソンは処刑台の足場を部下に組ませながら溜め息をついていた。
 海賊相手ならいつだって臨戦態勢、生真面目で悪事を許さない上司であることはわかっていたが、宿舎のベッドで久々の非番を満喫していた人間を叩き起こすのはやめて欲しい。
 悪事に休みがないのだから、取り締まる人間にもまた休みなど与えられないのが常なのかもしれないが、何も自分が非番の日に、よりにもよってこのフォートレスを襲撃しにくるだなんて心底不運が過ぎる。

「随分深々とした溜め息ですね」

 隣で同じく指揮をとっていた同僚のエルマー・ランセルが、半ば呆れを含んだ声で言う。
 自分と年は変わらない筈だが、逆に目立つのではないかと思うほどの童顔と低身長のせいでどうにも同年代には思えない。
 とはいえ生真面目さに関して言えば提督といい勝負なうえ、見かけの割りに前線では滅法強い負け知らずの男だった。

「いやぁ、だって寝てるとこ叩き起こさなくてもさぁ」
「このフォートレスが落とされていたら睡眠どころか死んでますよ。起こされたと言うことは死を免れたと言うことでもあります」

 幸い海賊も捕まりましたしね、と黒縁眼鏡を押し上げて言うエルマーの姿はませた子供のようだったが、年齢を考えれば年相応の言動だ。
 一緒に働いて暫く経つもののまだ慣れない、だがそれを当人に言うと烈火の如く怒るので適当な相槌を打ってごまかしておく。
 
「にしても俺みたいな落ちこぼれまで呼び集めて、提督は相当気合いが入ってらっしゃるとみえる」
「謙遜はやめて下さいよ。剣術僕よりも成績良いくせに」
「躓いたお陰で君の一撃を躱せたってだけだろ、そんなにつんけんしなくても」
「貴方が類い稀に見る不幸体質なのは確かですが、実力があることもまた確かだ。そういう言い方をされると腹が立ちます」

 組み上がっていく処刑台からシオボールドの方へ向き直り、普段より幾分か饒舌にエルマーはそう言った。こうムキになるのも珍しい。
 そんな風に見られていたのか、とシオボールドは初めて聞く同僚の本心に驚いたし、ライバル視されているらしいことを密かに喜びもした。
 家が貧乏なため早々に死に場に追いやられたようなシオボールドとは違い、エルマーはそこそこの家の生まれだと聞いている。
 自堕落な自分など歯牙にもかけていないだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 もっともこのユーグランド支部では実力が第一として重視されるので、家柄で人をはかる人間は限りなく少ないのだが。

「少尉」
 
 呼びかける声で我に返る。ぼんやりしていたのを誤摩化すような咳払いを一度してから何だ、とシオボールドは発した。
 部下たちは提督の気質を表すかのように規則正しく並び、そのうちの一人が「処刑台、完成致しました!」と声高に言う。
 毎度新しく組まないで、既存のものを置いておけば良いのにと元も子もないことを考えつつ、シオボールドは

「ご苦労」

 と頷いた。指揮が下がる発言は慎むべきであり、こういう類の愚痴は今頃資料室の番をしているであろう旧知の友に聞いて貰うのが正しい。
 伸ばした背筋を少しだけ緩めると、二度ほど軽く手を叩いて「よーしお疲れ!立ち会いの者だけ残ってあとは宿舎にお帰り!」と破顔した。 
 
 


 体中を走る衝撃に、ロベルトの思考は音を立て固まってしまった。今、今確かに目の前の女神の如き美しさを持つ女性が、確かに、微笑んだのだ。
 出会いから飲泣する彼女に骨抜きにされてはいたが、今ここで彼女は全く違う色でもって少年の魂を連れ去ってしまった。
 少なくとも笑顔を見せるだけの気力を取り戻したことに欣懐の意を感じずにはいられなかったが、左胸部をぶち破って出て来そうなほど煩く高鳴る心臓とあまりの眩さに潰えてしまったのではと疑うほどちかちかと明滅する視界のせいで、湧き上がる喜びを冷静に受け取るのは少々難儀である。
 嫣然とした笑みに見蕩れながらも足は走り続けているという不思議な状況だが、ロベルトは自分の心が名付けられぬ何かに永久に囚われたことを悟った。

「あ、」

 飛び立たんとしていた正気が、彼女の上げた声に喚ばれて帰ってくる。
 と同時に、ロベルトは機械的に走らせていた足を一度止めた。

「…っ、どうされました?」
「あ、いえ…ちょうどこの下が処刑場だなと…思って」

 ロベルトが立ち尽くしているのは廊下の真ん中だ。なるほど、と冷静を取り戻したような顔で呟いて、ロベルトは一度オリヴィアを下ろす。
 そして這いつくばるような姿勢で、床に耳を当ててみた。頑健な作りであることは承知していたが一応念のため、というものだ。
 当然ながら物音一つ、こちらに透けて聞こえては来ない。だよなあ、と嘆息混じりに頭を上げた。
 扉を蹴り開けて突入する事に比べれば、上から入る方が不意をつける。
 当然ながら扉の前には警備がいることだろうし、正面突破が非効率的だなんて誰にでもわかることだ。
 窓から侵入できないかと廊下の窓を見てみるが、窓の手前に鉄格子が嵌っている。

「基地っていうか刑務所だな…」
「あ、あの、」

 遠慮がちに声を上げたオリヴィアの方を振り返ると、白魚の手が廊下を挟んで窓と反対側に位置する扉を指差した。

「この扉、壊せます?」
「…お任せあれ」

 美しい声で紡がれた少々荒っぽい要求にも恭しく腰を折ると、ロベルトは容赦なく扉を蹴り壊す。
 執務室らしいその部屋に足を踏み入れると、中で仕事をしていたらしい男が慌てて銃を取ろうと机の引き出しを掻き毟る。
 咄嗟に机を勢い良く押し、男の体を机と壁の板挟みにして気絶させると一仕事した少年は「次は?」という顔でまたもや彼女を振り返った。

「えっと、廊下の窓は全て格子が嵌っているのですが、執務室の窓にはないんです…それに、処刑場の窓にも」

 死体は匂う。その匂い消しに開け放てる窓が必要なのだろうと思ったが、ロベルトは何も言わず紳士的に頷いた。

「処刑場は二階分の高さがある吹き抜けの部屋で、窓も大きなものが嵌っています…侵入というよりは突入という形になるんですけど…」
「今だって”突入”したでしょう?不意打ちになるならその方がいい。一度下見してきます」

 頭の中でイメージしながらロベルトは手早くカーテンをグランディオンで切り裂き、簡易的なロープを作り始める。
 重い書斎机の足にその端をぐっと縛りつけ、風にはためくものもない開け放った窓からそろりと足を下ろした。
 吹き渡る風の勢いが思いのほか強く少々怯んだが、足を止めてはいられないので奥歯を噛み締めて体重を拙い繊維の束へと預ける。
 ぎし、とロープの締め付けるような悲鳴にびくりと肩を揺らしつつ、壁に足の裏をしっかりつけて慎重に、それはもう慎重におりてゆく。
 下を見ると臆病風に吹かれるので極力見たくないのだが、見ないことにはその後の動向も決まらない。
 覚悟を決めてそろり、と視線を下に遣ると存外一つ下の階にあたる大窓の縁は近く、めいっぱい足を伸ばせば一番上に爪先がかかりそうな距離だ。

(縁じゃ危ないな、真ん中をぶち破るくらいの気でいないと)

 更に下へと行くが、これ以上おりたら中に人がいた場合見つかってしまう。
 状況確認の為にも中の様子は見たいが、万が一中にいる人間に気付かれてしまったらそこで一巻の終わりだ。
 壁にぶら下がったまましばらく考えを巡らせたが、彼にとって最善と思える策は一つしか思い浮かばない。
 青ざめた顔になりつつあるロベルトは意を決し、指先が白むほど強くロープを握り締めるとくるり、と体を上下さかさまに回した。
 こうして大窓のカーヴした上の縁からそっと覗けば、真っ直ぐおりて全身を晒し兵卒の都合の良い的になるより目立たないだろう。
 注意深く窓の中を覗き込みながら、ロベルトは何故か家の裏手にある森で雉を撃ったことを思い出した。
 あの時もこんな風に身を隠し、息を殺し、目を凝らして、

「――待ってたよ」

 驚愕に、全身が痙攣のように震える。聞こえるはずのない声が、確かに耳を掠めていった。体の位置を元に戻し、急いで上へとよじ登る。
 窓枠に足をつけたロベルトは、落ち着かない様子のオリヴィアに「行きましょう、急いで」と言う。
 それは不思議なほど落ち着いた声色で、オリヴィアはうろついていた足を止めると、はい、と答えてロベルトにしがみつく。
 あの時。あまりにもはっきりとした幻聴は掠れたアルトの音色をしていて、瞠目したロベルトの双眸には、確かにはっきりと一つの影が映り込んでいた。
 二人分の体重を受けていよいよ不穏な悲鳴を上げ始めるロープを、壁を最大限の力で蹴り飛ばし、まとめて握っていた余りの部分から手を放す。
 最大限の振れ幅で降下していく体の、血の巡りが一斉にざわめくのを感じながら、ロベルトは目前に迫り来る窓に向けて足を伸ばし――蹴破った。
 派手な破壊音。オリヴィアの小さな悲鳴。
 一瞬にしてこちらに向けられる数多の視線を浴び、ロベルトの突き出したままの足は処刑台の梁を踏み抜く。
 梁が折れ、絞首台が崩れていく中で、ずっと向こうを向いていた長い白銀髪を透かして、射抜くような孔雀色が嗤うのが見えた。





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