青白く冷たい指が喉を掻くその前に。
緩くウェーブを描く金糸、その頂から冷たい水を被った。滑り落ちて行く水滴を、海原と同じ色の双眸が見下ろす。
俯いたままロベルトは首にそっと手を遣った。首筋をゆるやかに伝う水がむず痒い。
掌で、指先で、凹凸をなぞった。どちらも同じ、自分の一部だと言うのに、別々の体温を感じているのは不思議な感覚だ。
低く唸れば、熱と振動が伝わって来た。水を掬った手は冷たく、熱を受け止めると温度差にじわりと痺れる。
震える睫毛を、伏せた。
首を絞められる夢を見た。
一定の速度で吐いていた息が乱れる。う゛、と漏れた声と共に、手をついていた桶の縁に額を預けた。
記憶ではない、と思いたい。
自分の過去についてはわからないことが沢山あるが、遥か幼少の記憶だと思うには残酷な夢に、頭の後ろの方から痛みがにじり寄ってくる。
頭痛持ちではなかった筈だが、屋敷を飛び出してからのロベルトは時々ふとしたはずみにこういった痛みに襲われては蒼の瞳を濁らせた。
ふいに息苦しさを覚え、次いで砂が干上がるかのようにやってきた喉の渇きに、目の前の桶から水を掬う。
嚥下に、喉仏が上下する。水に濡れたままの手をそこに遣って、ロベルトは目を伏せた。
誰だったのだろう。俺の首を絞めたのは。
悪夢を深追いすることに意味などないが、ふと考えてしまう。
記憶ならば自分を憎んでいる人間、それとも深層心理ならば自分が憎んでいる人間か。
どちらにしろ夢見の良くないことには変わりがなく、誰だろうと思ったくせに次の瞬間には答えを出すことをやめてしまった。
思い当たる節を思い当たってしまわないよう。しかし考えないようにと思うほど意識はそちらに向くもので。
細く長い指、白い手、華奢な手首。
落ちてくる前髪を両手で後ろへと掻きあげて、顎を上げながら息を吐く。
(女、だったな)
知りうる限りの女性の手を憶い出そうとするが、遊びだの行きずりだののせいで知りうる数が多すぎたため途中で諦めた。
ただわかるのは今身近に居る人間ではないということで、その事実はロベルトの胸に僅かばかりの安堵をもたらす。
仮令かりそめの安堵だとしても、今はそれが必要に思えた。
思考が短絡的なのは昔から変わっておらず、彼の短所でもあり長所だ。そのお陰で傷つかずに済んだ時もあれば、余計に傷ついた時もある。
当の本人はもう「こういう性分だ」という結論でそれを収めてしまっていた。
視線を下げると桶に張られた水はちょうど波紋が収束するところで、悪夢に叩き起こされた18の青年の不機嫌な顔を、やけにあおじろく映し出す。
水滴が幾らかついた髪、両手を毛先の方まで梳ききって、勢いのまま伸びをする。
してから、目が覚めてしまったと後悔した。
やけにすっきりしてしまった頭で、安堵はしたものの無性に哀しくなってしまった今の気分をどうしようか考えたが、答えは出ない。
船は無風帯に入ったらしく、風の音も波の音も随分と小さかった。
見上げると星々が瞬いている景色も、最初こそ感動したもののもう見慣れてしまった。
美しいことに変わりはない。変わってしまったのは自分の方だ。
部屋に帰ろう。他にすべもなくロベルトは踵を返して甲板を縦断する。
背後で水滴の落ちる音が聞こえたような気もしたが、現実か幻聴かは定かではなかった。
[ 凪の帳 ]