「全く、うちの副船長は多感なお年頃だろうかね」
「う、煩いわね!貴方だってあと2年か3年かしたらこうなるかもしれないわよ!そしたら笑ってやるんだから!」
「あーないない。ありえない」
 
 言い合いながら螺旋階段を駆け上るヴァルツァとレイチェル。後ろにロベルト、しんがりにはリッヒテがついている。
 無事に建物の内部へと侵入した一同は、最上階にある提督執務室を目指し、目の廻るような螺旋階段を走っていた。
 シニカルな笑みを浮かべたヴァルツァいわく

「一番偉い奴は一番上の階にいるもんだ。攻め入るのに最上階は不便だしね」

 らしい。途中の道程が長ければそれだけ不利になると言うことだが、顎を上げて走る一同は現在進行形でそれを感じていた。
 乱れる呼吸を押さえつけながら並走するヴァルツァを見遣れば、透けるような白磁の細かな肌理に珠の汗が浮かんでいて、レイチェルは自分の額にも同じように流れる汗を拭って再び前、というか上を向く。
 何段登ったかなど数える気にもならない。終わりの見えない螺旋にただ苛立ちばかりが募る。
 立ち止まって一休みしたいところだが、止まればたちどころに膝が笑い出し転倒して丸い林檎のように階段を転がり落ちていくのが容易に想像出来た。
 先程の戦闘から更に蓄積されていく疲労に誰も口を開こうとはしない。
 最初のうちはそこそこ軽口の叩き合いもできたものの、今では一言発するのですら相当な重労働に思える。
 まだこの階段は続くのか。いつになったら終わるのか。その疑問が全員の胸中にあった。
 先の見えない螺旋階段は無限にも思えて来て、のぼるものの不安を煽る。もう何百段のぼったことだろう。
 ふいに。

「…あれ見ろよ!」

 沈黙を破ったのはヴァルツァの高らかな声だ。永遠とも思われた長いスパイラルの終焉は、ひとつの扉だった。
 螺旋階段が直線階段に切り替わり、その先には頑健そうな扉が佇んでいる。突如現れたゴールに、死にかけたような一同の目にも光が戻ってきた。
 これを一番に喜んだのはロベルトで、「よっしゃ!」と若々しい叫びを響かせると、どこにそんな体力が残っていたんだと言いたくなるような勢いの良い三段飛ばしで階段を駆け上がって来る。
 リッヒテの静止の声も聞かず、にわかに足取りの軽くなったレイチェルとヴァルツァをも追い越して一番に扉へと辿り着いた。
 膝に手をついて深呼吸をしながら息を整え、冷たい鉄製の取っ手に触れる。
 ロベルトが取っ手を回したその瞬間、ヴァルツァの聡い耳は扉の向こうの不穏な音を確かに拾った。
 少年は咄嗟に足を止め、隣にいたレイチェルの頭を掴んで押さえ込み、叫ぶ。

「扉から離れろ!!!」

 殷々たる爆音が吹き抜けた空間と鼓膜を震わせる。
 眩い閃光が一瞬迸り、次いで煙が立ち込めていった。
 石段に張り付くようにして伏せた三人の頭上を爆風で吹き飛んだロベルトの体が軽々と超えてゆき、あっというまに階下へと転がり落ちていく。
 長々と振り返っている暇も無事を確かめる暇もなく、激しい銃撃が襲い掛かった。
 ヴァルツァとリッヒテが刀身で弾を防ぎながら立ち上がり、めいめいの背中を寄せてレイチェルを庇う。弾丸と刃がぶつかる嫌な金属音が響き渡った。
 視界は頗る悪く、もう少し煙が増えたらレイチェルの目はすぐそこに居る二人さえ見失いそうである。
 刃こぼれも厭わず黙って刃を振るい続ける二人に、容赦ない鉛の雨が降り注いだ。
 軽口が交わされないのは余裕のない証拠に他ならない。
 リッヒテの肩口を、ヴァルツァの二の腕を、掠めていく弾丸がレイチェルの目にはいやにゆっくりと映る。
 小さく上がる血飛沫が網膜に焼き付き、レイチェルは自分の頭を庇っている小さな両手を二人に伸ばしたくなった。
 だが例えどんなに懸命に両手を開いて両腕を伸ばしても、小柄な自分では盾にさえなれない。
 ロベルトの代わりに扉を開けばよかった。自分が吹き飛んでしまえば、ここに足手まといは存在しなかったのだ。
 唇を噛み締めていても二人の傷は増えていくばかり。レイチェルはからからに渇いた喉の奥から湧き上がってくる言葉を叫んだ。

「もう、もうやめて…!!!」

 不意に鼓膜を殴りつける音が消える。
 レイチェルの嘆願を天が聞き入れたかのようにぴたりと銃声が止んで、残響に震える煙たい空間だけがそこに佇んだ。
 階下に流れていく煙を見遣りながら胡乱げな顔のリッヒテが五十嵐をゆっくりと下し、ヴァルツァもそれに倣う。
 レイチェルはすぐさま後ろを振り返った。薄暗い階段にロベルトの姿は見えず、こちらに上って来る足音も聞こえない。
 ヴァルツァの舌打ちが、静まり返ったそこに響いた。

 「ご無事ですか?」

 空間に融ける穏やかな声。三人ともこの声には聞き覚えがあった。
 徐々に硝煙が晴れて開けて来た視界の中、ゴールとしたあの扉から一条の光が射している。
 逆光であってもその人物――ポーラ・ブラッカイマーが微笑んでいることは声の調子から感じられた。
 ふらつく足で立ち上がったのはレイチェルで、大きな両目一杯に疑問の色を浮かべている。

「ポーラさん…?どう、して…」
「詳しいことはこちらでお話しするわ。さ、こっちへ」
「でもMr.ハワードが、」
「彼なら大丈夫。さぁ早く」

 急かすようなポーラの口調に、レイチェルは疑問を払拭し切れない顔で階段を上がった。ヴァルツァとリッヒテも続く。
 階段を上りながらヴァルツァはもう一度だけ振り返ったが、薄暗い階段が続いているだけで、もう一度舌打ちをした。
 
 
 
 
 「それで?Ms.ブラッカイマー、コレは一体どういうこと?」

 小綺麗な部屋に似つかわしくない疑心で満ちたヴァルツァの声が響く。
 無礼極まりない海賊らしい態度で長椅子に腰掛けたヴァルツァの向かいで、ポーラも小さなソファに座った。
 穏やかさを失してはいないものの、言い方を選ぶようにぎこちない声で言葉を紡ぐ。

「まず、謝るわ。あなたに悲しい思いをさせたこと」

 灰色の真摯な眼差しは、真っ直ぐにレイチェルを向いていた。
 視線がかち合い、レイチェルは俯くと唇を引き結んで、子供がそうするように何度もかぶりを振る。

「あなたを守るためとはいえ、わたしのした事は裏切りも同然。
 わたしだけが助かる訳にはいかないわ、だからあの提督に撃つのをやめるようお願いしたの」
「できれば銃撃が始まる前に”お願い”して欲しかったね」

 横槍を入れる皮肉っぽいヴァルツァの言い草に、ポーラは眉尻を下げた。

「その通りね。まさかあの良識的な提督が無防備なあなたたちに銃を向けるなんて思っていなかったから」
「良識的だろうと何だろうと連中は軍人だ。お陰様でロベルトも行方不明だしな」
「彼なら大丈夫。提督の部下が今頃保護しているわ、じきにここに連れて来られるはずよ」

 事務的に説明するポーラに、リッヒテは言い様のない違和感を覚える。先程のレイチェルとのやり取りに嘘はないと思うが、今はどうだ。
 レイチェルに向けた真摯な灰色の双眸は、鋭利な煌めきが沈んでしまって死んでいるようだった。
 貿易会社に取り入ることが出来たのなら、ポーラが自分を捕らえた海賊を生かす理由は一つもない。彼女ほどの人間なら、利益について理解のある人間はまず手放さない筈だ。
 ポーラが銃撃を止めるよう提督を説得し、三人をここに座らせた理由が分からない。
 リッヒテは彼女がこちらに向けているのを悪意だと仮定していたが、今ではそれも揺らぎつつある。気まずい沈黙に彼女の悪意は上手く隠れているだけかもしれない。
 ヴァルツァも同じ考えなのかいつもの調子で話しつつ周囲を警戒しているが、レイチェルは目の前のポーラをただただ心配しているようで、邪悪な思惑があるやもなどとは考えもしていないに違いない。
 考えているだけでは埒があかないな。ヴァルツァは天井を仰いで息を吐くと、ポーラを真っ直ぐ見据えた。

「僕らを生かしておくメリットは?僕はあんたが協力してくれる理由もわからなければ、あんたを仲間にした覚えもない」

 言い切って、ヴァルツァは気紛れに視界を覆う銀糸越しにポーラをじっと見つめた。次にどう出るかは、彼女の返事次第だ。
 しかしポーラが口を開く前に、ヴァルツァの白い頬をレイチェルが張った。静謐な空気を壊すような渇いた音に、一瞬にして静寂の種類が変わる。
 予想外の自体にリッヒテは隻眼を見開いた。反論は予想していたものの、まさか手を出すとは。
 少微ではあるが驚愕の色を見せるヴァルツァをめいっぱいに睨みつけると、レイチェルは小さな体からは想像もできないような声で怒鳴った。

「黙りなさい!!これ以上言ったら許さないわよ!!!」

 震天動地の勢いで怒る声が室内に反響し、すぐ目の前にいたヴァルツァは身を竦める。今まで何度か彼女に叱られているが、こんな剣幕は初めてだ。
 髪を逆毛立てそうな勢いで怒鳴ったレイチェルは、興奮冷めやらず肩で息をしながらポーラに歩み寄ると謝罪の言葉を口にした。
 いいのよ、とポーラはかぶりを振りながらそう返し、嫋やかな手でレイチェルの頭を撫でる。
 その様子に悪意が潜んでいるようには見えず、リッヒテは己が邪推しすぎただけなのかと思い直した。
 しかし。

「わたしは恨まれて当然だわ」

 薄く微笑んだその顔に、違和感の正体が見えた。

「レイチェル!!!!」

 少女へと伸ばした右手、その指先を掠めてレイチェルの体はポーラに引き摺られるようにして無理矢理腕の中へ収められる。
 次いで無防備な首筋に鋭いものが当てられ、歴戦の海賊二人はその場から身動きが取れなくなってしまった。
 咲き乱れる花のように、ひどく鮮やかにポーラは微笑んだ。唇が奇麗な弧を描いて、リッヒテは嵌められたと今更のように歯噛みする。
 銃を手に手に、兵卒が侵入者を取り囲んだ。長椅子に腰掛け足を組んだままのヴァルツァが両手を上げながらポーラに笑いかける。

「なるほど。あんたのお願い通り銃殺は止めて、”良識的に”絞首刑に処すってか」
「いいえ、わたしの忠誠を提督に信じて頂くためよ」

 肩越しに振り返るレイチェルに、ポーラはそんな目で見ないでと言いたくなった。海賊相手に同情などしないが、彼女は別だ。
 雄弁に「どうして、」と訴えかけてくる栗色の瞳から目を逸らす。

「…ごめんなさいね」
「貴女が罪悪感を抱く必要などありません。彼らは捕らえられるべき罪人であり、貴女は危険を承知でその捕獲に協力した善良ないち文民なのですから」

 芝居がかった言葉と共に現れたのは、二本のサーベルを下げた男ーー”シュヴァリエ”フランク・バーネット・シェリー提督だった。
 ヴァルツァは気怠そうに目を眇めると、組んでいた足をおもむろに下ろす。
 フランクはヴァルツァに視線をくれると、神経質そうな薄い唇を笑みの形に歪めてみせた。
 
「東方貿易会社ユーグランド支部提督、フランク・バーネット・シェリー。君風に言うと「アルタエル海峡で一番偉いお方」というやつかな」
「僕の悪筆は届いたようだね」
「ああ、読めたのは奇跡だった」
 
 皮肉のついでのようにすらりと抜かれたサーベルがヴァルツァの白い喉元に当てられる。
 くい、と顎で示されたヴァルツァは嘆息すると上げた両手はそのままにして立ち上がった。
 
「腐れ軍人め」
「狂れ頭の小僧に言われる筋合いは無い。お喋りは仕舞いだ。君も言ったように海賊は吊るし首と、昔から相場が決まっている」
 
 側頭部に銃を突きつけられたリッヒテが悔しそうに唇を噛む。ポーラに羽交い締めにされたレイチェルは混迷を極めているのか微動だにしない。
 反抗的な目つきを寄越すヴァルツァを見下ろし、フランクは至極愉快そうに嗤った。
 
 
 
 
 マザーグースの卵人間だったなら、割れてもろに飛び散る大惨事だったに違いない。
 階段の途中、転がり続ける自分の体に何とか力をかけ、壁面に激突させることによって不本意ではあるがこれ以上転げ落ちる事を免れた俺は、軋む体――特に鈍痛甚だしい背中を優しくさすりながら、石積みの壁に手をついて力ない足で立ち上がる。
 痛む頭をおさえながらどのくらい自分が無様に転がって来たのか見ようと顎を上げた。

「う、わーーー…」
 
 そういえば螺旋階段なんだった。上を見ても階段の底面が影を作っているだけで、今更上る気力すら湧いて来ない。
 どうせ放っておいてもバケモノ並みの二人が何とかしてくれるだろうが、それでは俺の名目上に限りなく近いとはいえ戴いた”船長”のメンツに傷がつく。
 それでなくともヴァルツァからの仕返しを食らって俺のプライドはほんのささやかに、しかし鋭く傷つけられたばかりなのだから。
 出来るならこれ以上心身共に、されど心の方を少微ながら優先して、痛めつけられるような沙汰は全力でご勘弁願い倒したいところであった。
 まぁこんな事を言っていると白髪の糞餓鬼に腑抜けの腰抜けと罵られる事必至なので、それはそれでちょっと悔しい。
 そしてこんな所で一人問答をしていてもことは始まらないのだ。俺は酸欠と気上がる頭を振り、再び頂上を目指すべく右足を次の段へと差し出した――ところで反射的に足が止まる。
 空気が怪異なものに変化したのを感じ、正体を見つけようと耳を澄ました。
 さんざめく無数の足音が俺の鼓膜を蹴り上げるのを聞き、息を潜める。
 ヴァルツァたちでないのは明らかだ。とすれば俺を探しに来た敵に違いない。ならば逃げるが得策。
 見事な三段論法で結論を出し、渦巻く階段を一目散に駆け下りた。
 まさに腰抜けだと不快にも思ったが、足音からして俺一人では相手が務まらないとわかりきっていたので仕方が無い。
 闇雲に突っ込んで下手を打つのではさっきの二の舞もいいところ、賢くなれよと糞餓鬼の声が脳裏で嘲笑う。
 俺の足音に気付いたのか、足音の群れが快速調を帯びる。
 ひどく疲弊感に満ち溢れた上りと比べれば幾分か落ち着いた頭で周囲を見回しながら考える。
 よく見ると石詰みの壁にはまり込むような扉が十数段ごとに点在していて、ひとつの疑問が浮かんだ。
 何故こんなに扉が在るのに、誰もここから出入りしないのだろう。
 何故さっきは途中で誰にも会わず、頂上近くまで辿り着けたのだろう。
 しかし疑問を解決してくれる人間はここには居ないのでそこから発展するには至らなかった。
 暫く走って俺の息は再び上がり始め、頭に回せる酸素も減って来ている。
 足音の群れは疾足調で俺の背後を脅かし、負けじとスピードを上げたところで下りの方が実は膝に来るという事実を思い出した。
 途端、脱力する両足。再びの転倒、ついで暗転。

「うわァァァァァァァァーーーーー!!!」
 
 俺には何かそういう神でもお憑きあそばされているのだろうか。
 これだけあちこちにガンガンぶつけて、よくもまあ俺の細胞たちも死滅せずにいるものだと感心する。
 しかし思い返せば子供の頃も木から落ち塀から落ち崖からも落ちているので、その間に培われた特殊な順応性かもしれない。
 そんな事を考えている間も俺は転げ落ちている。
 既に痛いとかそういう次元ではなくなって来ているものの、そろそろ止まらなければ確実に骨とかが折れるし今度こそ重度の打撲でご臨終という薄ら寒い事態も起こりかねない。
 それは身体的にも絵面的にも教育上のアレ的にもよろしくないだろう。あとこんなところで一人でくたばるのもごめんだ。
 ふと、めちゃくちゃな回転を続ける視界の隅にあの扉が映った。俺の頭の中に、ぱっと一つの策が浮かぶ。
 やれるかどうか不安だがやるしかない。俺は頭を庇っていた両手を解き頭上の石段を掴む。
 全体重を両腕で支えると、それまで俺の体に呪いのように掛かっていた力を方向転換させ、扉を目一杯の力で蹴破ってその向こうへ転がり込んだ。
 向こうに開く扉で良かった。開きっぱなしの扉を押して閉めると、ぐらつく視界を落ち着かせるため一度目を閉じ大の字に寝転がる。
 このまま眠りたいところだが眠気を振り払って身を起こす。廊下だと思っていたが、どうやら物置のようだった。
 扉の向こうを、さっきの足音たちが通り過ぎていく。完全に行ってしまうまで聞き届けてから、俺はようやく詰めていた息を吐いた。
 ここに居ても仕方が無いので立ち上がる。歩き回って広い物置の中を物色すると、先程俺が転がり込んだのとは別の扉を発見した。
 質素なのは同じだが、こちらの方が幾分か小綺麗だ。もしかしたら誰かの執務室や客室に繋がっているのかもしれない。
 ふいに扉の向こうから声が聞こえ、俺は慎重に、足音を立てないよう扉に忍び寄り、木製のそれに耳をつけた。
 また息を止め、聴覚に全神経を集中させる。扉の向こうから聞こえて来たのは打音と罵声だった。
 
「この役立たずめ!仕事一つロクに出来んのか!恩知らずのクズが!恥を知れ!」
 
 これはそういう”趣味”だろうか。軍人には加虐・被虐趣味の人間も多いと聞くが、俺にはいまいち理解出来ない世界だ。
 痛めつけたり痛めつけられたりする事の一体何が楽しいのだろう。それも軍人同士となれば相手は男だ。
 無論俺に女性を痛めつける趣味などない(痛めつけられる事に関しては熟考させて欲しい)が、男を鞭で打つことの愉悦は心底理解出来ないしこれから先も理解したくない。
 まぁ本人たちがいいなら良いか。派手な鞭音にげっそりしながら扉を離れようとすると、弱々しい声が耳に飛び込んで来た。
 
「申し訳ございません…どうか、お許しを」
 
 蚊の鳴くような小さく弱い女性の声に足を止める。裸足の足裏が石畳を擦る音、次いで頬を張る平手打ちの音。
 心臓の音が段々うるさくなって、知らずの内に握っていた拳に、段々力が入っていく。
 同意の上なら俺の預かり知る所ではない。
 しかし虫の息に等しい彼女の声に喜悦の色は無かった、ならばそれの意味する所はひとつだ。
 俺は反射的に扉を蹴り開け、グランディオンを抜き放って踏み込んだ。

「だ、誰だ!?どうやってここに!?」 
 
 鞭を握ったまま狼狽える男と、その奥にぐったりとした裸の女性。
 怒りが湧き上がるままに早足で男に歩み寄ると、鞭を握った手をねじり上げてこめかみをグランディオンの柄で殴りつけた。
 
「嫌がる女性を虐待するとは頂けないな、恥を知るのはお前の方だ」
 
 冷静に言ったつもりだったが、怒気は隠し切れていなかったに違いない。構うものか。
 もんどりうって倒れ込んだ男の足の付け根を踏みつけて開かせ、急所を蹴飛ばすとあえなく白目を剥いて大人しくなる。
 ”悪友”に教わった方法だが意外と役に立つものだと口笛を吹きたい気持ちになった。
 アンタ軍人のくせして鍛え方が温いんじゃないのかとせせら笑ってやったが、多分聞こえていないだろう。
 剣を収めてせり出た腹を蹴飛ばして苛立ちを幾分か解消させると、手早く外套を脱いで女性にかける。
 枯れ枝のように細い手足も、そこかしこに刻まれた傷痕も、渇いて固まり始めた血も、全てが痛々しい。
 俺の外套だけでは傷だらけの体を守るに足りなかった。辺りを見回すが、どうも女性のものと思しき服は見当たらない。
 仕方が無いので気絶した男から服を剥ぎ取ると、それを抱えて女性の傍に膝をついた。
 
「もう大丈夫ですよ。ちょっと嫌かもしれませんが、ひとまずこれを着て頂けませんか」
 
 出来る限りの優しい声色で言って、俺は男の服を差し出した。
 俺の姿を確かめるようにして、彼女がゆっくりとおもてを上げる。
 
 ――――息が止まるかと思った。
 
 限りなく色素を取り除かれた金糸の隙間からのぞく淡雪のような透白の肌に、雨に濡れる紫陽花を思わせる瞳。
 卒倒しても良いほどに鍾美な女性が、そこにはいた。
 それなりに放蕩息子だったので遊んだ女性の数も結構な俺だが、こんなにも美しいひとを目にするのは初めてだ。
 人の美しさなんて結局は見る側の好みにすぎないし、美貌にはある程度の限界があると思っていたが、この人の美しさはその限界を軽々と超えてしまっている。
 絵画に登場する女神、まさにあれだ。
 痩せ細って血が滲んでいても尚、目の潰れそうな美貌のその人は、血の気の失せた薄い唇を震わせる。
 
「あの、あなた、は」
 
 紫陽花色の双眸に混じり込んでいるのは不安や怯えだ。
 あんな目に遭った挙句、突然やって来た俺は人一人殴り倒して服を剥ぎ取ったのだから当然の反応だろう。
 俺は彼女を怯えさせまいと男の服を彼女の膝に、そして鞘の飾り紐を解きグランディオンを石畳に置いて攻撃の意志がないことを示す。
 空になった両手を控えめに広げ友好的な笑顔を意識すると、緊張に震えるのを叱咤して目線をもう一度彼女に合わせた。
 
「ご心配なく。ただの、海賊です」 
 
 
 
 
「腹が減った」
 
 囚われた身のくせに全くその危機感を持っていないヴァルツァの口ぶりに、フランクは目眩を感じずにはいられなかった。
 ああ、何様だこの小さいの。
 先程その思いに限りなく近い形の質問を投げたところ、ごく当然の顔で海賊様だよという返事を寄越され非常に苛立ったのでこの手の質問は二度とすまいと心に決めたものの、一向にこの態度を変えないものだから平静を保つのが難しくなって来た。
 小さいくせに生意気だと思ったが、そういえば小さいからこそ生意気に感じるのだしこの少年が生意気なのは至極当然かと最後には諦観の姿勢で怒りを抑えようとする始末。
 五悪の限りを尽くしたような、されどまだ年端もゆかぬ子供に振り回されているのは心底納得が行かない。
 落ち着け。フランクは自分に言い聞かせる。自分は大人だ、こんな子供にいいようにされては仕方がない。
 大人の余裕を見せつけてやるのだ。冷静に、そう、冷静に。頭の中で繰り返すと、沸き立っていた血が段々冷えていくような感覚を覚える。
 いいぞ、それでいい。自分は分別のある大人なのだ、子供の戯れ言に耳を貸してはいけない。
 
「おいクソ提督、腹が減ったっつったろ。遠い耳だな切っちまえよ」
 
 よし、こいつ処刑の前に自分の手で斬り殺そう。
 あわやサーベルにかけそうになった右手を再び自制心で留めると、穏やかでない襟懐を覆い隠すように微笑んで処刑の準備を待つ。
 涼しい顔を取り返したフランクに対し、ヴァルツァは露骨につまらなそうな顔をして見せた。
 
「ルスタヴェリの叙事詩の如く、誰かが僕らを救い出してくれないものかな」
「君の何処が美女なのか皆目見当もつかないが、観念して素首を洗い待つのが賢明ではないかな」
「そんな髪型してるから視力が落ちてるんじゃないのか俗輩。ネクロフォビアごっことなんちゃって命乞いでひと芝居する暇ぐらいはあるけど」
「悪趣味な暇潰しだな、生憎私には子守りをしている暇がなくてね」

 ちらり、とフランクは視線を外へ向ける。重苦しい鉛色の雲が空を塞ぎ始め、その内雨が降りそうな空模様だった。
 
「全く、こんな子供まで海賊とはな。世も末だ」
「末にしたのは大人だよ、多いに反省してくれ」
 
 相も変わらず偉そうなヴァルツァに饒舌を抑える気は無いらしい。
 吊るし首を宣告されたなら慄然としてもよさそうなものの、この少年は涼しい顔で死への恐怖をネクロフォビアなどと言って退ける。
 沈黙したままの二人より俄然厄介だ。それも狂気故の饒舌ではなく、正気で尚饒舌と来れば尚更に。
 早く準備が整わないものだろうか。フランクは腕を組むと、気苦労を気体にしたような溜め息をついた。
 
 
 
 
 被虐の淫雨に打たれ萎れた清婉な紫陽花が飲泣するのを、ロベルトは黙って聴いていた。
 ぽつり、ぽつりと身の上話を紡ぐ言葉に耳を傾け、今は彼女と背中合わせに座り体温を分けている。
 彼女の経歴は悲劇としか言いようがなかった。
 弑逆の冤罪を着せられ、命からがらに亡命し、しかし差し伸べられた手を握り返せばそれは地獄への招待状と来た。
 挙句家族は皆死に、彼女は令嬢から奴隷になっただなんて。
 今まで生き続けた彼女に感心すると共に、ロベルトにとっては彼女曰くの旦那様の行いが許し難く、もう一度蹴りを入れたい気分になった。
 オリヴィア・ヴァービンスキー。それが彼女の名前。
 歴史に興味の薄いロベルトは北諸国の事情には明るくないが、彼女の家は代々王家に仕えていたらしい。
 王かその家族に仕える身だったのを、オリヴィアは何を間違ってこんな最低の男に虐げられているのだろう。
 王家が倒れたのと同時に、彼女の家も地位を失ったと言うが、それでも奴隷に成り下がる以外の道もあった筈だとロベルトは唇を噛む。
 こんなところで、不幸なまま、身をやつしたままでいい訳がない。
 少年は青い目を煌めかせると、オリヴィアの手をとり立ち上がった。
 
「行きましょう」
「えっ、どこに…」
「ここではないところです」
 
 オリヴィアはロベルトの言葉に顔を真っ青にして、ぶんぶんと首を横に振る。
 主を裏切れないと彼女は言うが、ロベルトにしてみれば理由はどうあれ家族を殺した人間に義理立てする必要は何処にも無いのだ。
 すっかり心が奴隷のそれになっている。逃げ出せないように長い時間をかけて縛り付けられた。
 だから強く、有無を言わせない力でロベルトは彼女の腕を引く。
 オリヴィアの白い頬には粗涙の落ちた痕がまだ残っていて、今にも再び涙が零れ落ちそうだ。
 そしてその一筋さえロベルトの心を徒に奪っていくのも、彼女はきっと知らないのだろう。
 自分に価値があるなんて全く信じていないような顔をして、それがひどく彼の心を締め付けた。
 ロベルトは未だに首が取れてしまいそうなほどにかぶりを振る彼女の名前を呼ぶ。
 
「オリヴィアさん」

 ロベルトの薄い手が冷たい頬を撫でる。
 
「サンドリヨンは御存知ですか?」
「?…はい」

 脈絡の無い話題にオリヴィアは首を傾げた。
 たとえ話で持ち出したものの、まさに彼女はぴったりだなと思いながら話を続ける。
 
「サンドリヨンはどんなに不幸な目に遭っても、最後には迎えが来るんです。そうして幸せになる。
 今から俺は貴女を攫います。貴女に幸せになって欲しいから、ここではない場所に連れて行きます。
 どうしても主に申し訳なく思うなら、俺のせいにしてくれていい。そう泣かないで下さい」
 
 言い終えるが早いか、ロベルトはオリヴィアを抱き上げた。驚くほど軽い彼女を抱え、扉を蹴り開けて廊下へと飛び出す。
 走りながら、自分でも恥ずかしい事を言ったと顔から火でも出そうな気持ちになった。
 恥ずかしさを紛らわそうとこの先の事を考えていると、ロベルトの腕の中でオリヴィアが鼻を啜った。
 
「王子様はこんなに強引でしたっけ」
 
 僅かに笑いを含んだ声はさっきよりずっと明るく、ロベルトは安堵する。
 そして彼女の疑問に答えるべく口を開いた。
 
「さっき言いましたよ、俺は海賊だって。目の前に宝があるのなら、頂戴していくのが筋でしょう」
 
 
 
 
「――いやはや、こうも退屈だといけませんねえ。シェリーくんからの連絡もないし、先生も篭ってしまわれたし。ジョヴァンニくん、チェスでも」
「仕事を済ませてからにして下さいますか、閣下。ハンコ待ちの書類で執務室が一杯になってしまいます」
 
 帝国建築らしい厳かな雰囲気の漂う一室。
 大木から削った太い柱と頑健な造りの壁、暗色の木材で組まれた壁一杯の本棚。
 この種の執務室にしては低い天井に、機能だけを追及した質素なシャンデリアが下がっている。
 控えめな銀装飾をあしらった物書き机にかけた黒髪の男は部下の小言も目の前の書類もどこ吹く風と言う顔で大儀そうに欠伸をした。
 部下、ジョヴァンニの額をにわかに青筋が走るのすらお構い無しに、机上に置かれた映日果にかじりつき、投げやりに咀嚼する。
 小さな丸眼鏡に果汁が飛んだことに眉を動かしたものの、あとはなすが侭といったていだ。
 高価な物に生まれつき囲まれた人間特有のだらしなさに、ジョヴァンニは黒い短髪を掻き聞こえないように溜め息をつく。
 果汁の垂れる映日果をそのまま投げていいような廉価の机ではないのだが、きっと本人は気にしていない、書類の催促もそうだ。
 化句の扱いに於いては天才的な上司に対していちいち苛立っているのでは彼の掌で踊らされている何よりの証である。
 こっそりついた溜め息が気付かれたらしい。絹のハンカチで適当に口許と手を拭うと、彼はジョヴァンニに嘘くさい微笑みを寄越した。
 
「書類ならシェリーくんに回して下さい、我輩が持つ案件ではないのでね――ああ、ニコライくん有り難う」
 
 給仕の少年が運んで来た紅茶を受け取り、完璧な仕草でカップを口許まで運ぶ。
 あの香りは件の提督、つまりフランクが嫌味や小言といった呪詛みたいなものと一緒に寄越した茶葉で淹れたものだろう。
 相当に熱いその液体を顔色一つ変えずに飲む上流階級の人間はどういう舌をしているのだろうとジョヴァンニは思ったことがあるが、未だその疑問は解明されていない。
 カップを置いた男は机の引き出しを開け、両手におさまる程度の小さな金匱を取り出す。
 部屋に不釣り合いな繊細極まる装飾を指で撫でると、鍵を差し込んで匣を開く。
 天鵞絨を纏った内壁。匣に横たわるのは一枚の黒い羽だった。艶やかな黒は彼の髪や睫毛や瞳の色とよく似ている。
 ジョヴァンニは羽の持ち主も、何故自分の主人がそれを大切にしまっているのかも知らない。
 しかしその羽を取り出して眺めている時、彼の尊い黒の双眸がいつもと違う色で輝いていることだけは知っていた。
 
「全く、何処へ飛んでいったのやら」
 
 男は窓の外を眺めそう呟くと、残りの紅茶を飲み干す。
 
 
 
 
「すげえ、海賊の処刑みたいだ」
「みたいじゃなくて海賊の処刑だからね。どうするんだよヴァルツァ」
 
 もうちょっと緊張感持ってくれよ。
 ぼやきながらリッヒテはレイチェルの方を見た。
 ポーラの裏切りに加えてじきに絞首刑という事実を突きつけられてすっかり放心してしまった彼女の静かさが痛々しかった。
 リッヒテをはじめ三人の両腕を捕らえる重厚な木の手枷と、そこから伸びる鎖。拘束された彼らの生殺与奪権は提督の掌中だ。
 海峡基地のただっ広い一室に通されて随分経つ。何も無かった室内に徐々に組み上がっていく木製の処刑台は命の刻限を知らせているようだった。
 本当にヴァルツァは何も考えていないのだろうかと、リッヒテは内心不安になる。
 孔雀色の双眸も今は色を濁らせて、心中をうかがうことさえ許さない。情けないなあ、とリッヒテは自嘲気味に笑った。彼の考えが全く読めない。
 ロベルトのことも気がかりだったし、ここから逃げ出すにしても解決しなければならない問題は山積みだ。
 二人の頃はもっと楽だったのに、とつい最近までの自分とヴァルツァの活躍を思い返す。無益なことだし現実逃避だ。
 現実を見れば手枷で無抵抗な三人にはそれでも兵士が刃を突きつけている。リッヒテから見た提督は中々に頭の切れる男のように思われた。
「兵に情勢なし」とはヴァルツァがよく口にする言い訳だが、言ってしまえば少年の考えるそれは行き当たりばったりであり、この提督にそれが通用して、ましてや出し抜けるだなんて思えない。
「俺とヴァルツァに勝てるやつなんていない」と思っていたが、それはあくまで二人だけだった時の話だ。
 やって来たばかりのロベルトとレイチェルがこれほどまでに足を引っ張るなんて思っていなかった。もっと考えるべきだったのだ。
 苛立ちが顔に顕著に出ていたのか、思考の螺旋に陥ったリッヒテの顔を覗き込んだヴァルツァがふいににたりと笑ってみせる。
 人を食ったような笑みにリッヒテは顔を顰めた。こんな時に何を笑っているんだと叫び散らしたくなる。
 不測の事態、特に劣勢への耐性が弱い自分を発見してしまい少なからずショックを受けているというのに。
 追い討ちをかけるように嘲笑うこいつは一体何なんだろう。この状態でどうして笑っていられるんだろう。
 
「!!」
 
 そこまで考えて、リッヒテの脳髄を一閃が駆け抜ける。黄金の隻眼が孔雀色の双眸に強く視線を返した。
 複雑に入り交じる蒼と碧の中にひっそりと佇む真意を掴むように、そしてリッヒテは口の端を吊り上げる。
 そうか、だからお前は。口を開こうとして、リッヒテの発言権は兵士に奪われた。
 
「処刑台、用意出来ました」
「宜しい――さて諸君、残酷にもその時が来てしまったようだな」
 
 追い立てる兵卒に対し、ヴァルツァはよっこらせと気の抜けた声と共に立ち上がる。
 青ざめた顔で震えるレイチェルを優しい声で促して、リッヒテも唇を引き結ぶと立ち上がった。
 自分の推測が正しければ、ヴァルツァは諦めても居ないし、自棄になっても居ない。
 そういう柄じゃないということは一番良く理解しているのに、どうして疑ってしまったのだろう。
 リッヒテは自由な左目で提督の後ろに控えるポーラを見た。
 
(きっと彼女が)
 
 木製の階段を一人ずつ上がる。うるさく軋むそれはやたらに不安と緊張を煽り、リッヒテを落ち着かない気持ちにさせた。
 レイチェルが躓くのを支え、大丈夫と耳元で囁く。泣き出しそうな両目を見つめて頷き、ヴァルツァとポーラを見る。
 出陣前にヴァルツァがポーラと何か言い交わしたことは知っていた。ならばこの場に於ける救世主は彼女以外有り得ない。
 
(そうだ、きっと彼女が)
 
 大掛かりな処刑台に、等間隔で並ばされる。床を見れば足元に正方形の切れ目が入っていて、リッヒテは息を飲んだ。
 ヴァルツァの目の前に立ったフランクが、少年の長い前髪を掴み上げて、唇を歪める。
 
「悔悛の秘跡でも、しておくか?」
「大袈裟に咨嗟してやりたくなるような社会への不満なら言ってやっても良いけど、生憎この世にもあの世にも神なんざいないし、ペニテンシャが必要な人生は送ってないよ」
 
 涼しい顔でヴァルツァが嘯く。リッヒテは無言でポーラを見つめているが、動きは無い。
 フランクはやれやれと肩を竦めると、鉄の仮面を被った屈強な処刑人に手で示して階段を降りてゆく。
 そして部屋の真ん中に置かれた椅子に腰掛けると、海賊たちの首に太い縄がかけられていくのを満足そうに見つめた。
 まだか。リッヒテは焦りを隠し切れずもう一度ポーラを見るが、視線が合うことは無い。
 ヴァルツァの風のようなアルトが世界をわらう。

「恨み骨髄に徹す、化けて出てやるから覚悟しろよ」
「おお怖い、それは用心しなければな――――では、」
 
 気取ったフィンガースナップと共に、処刑人の斧が振り下ろされる。
 リッヒテは酷く取り乱してポーラを見たが、今更なす術も無い。

(ああ、きっと彼女が!!)
 
 縄が切られ、仕掛け通りに床が抜ける。
 ヴァルツァの言う通り、確かに神はいなかった。
 
 
 
 
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