突然だが街にゾンビが現れた。
 いや、現れたと言う表現は正しくないのかもしれない。
 というのも彼らは元々この街に住んでいた者たちで、いつのまにかゾンビになり、まだ正常に生きている人間に「噛み付く」事によってその数を爆発的に増やしたのだ。
 噛まれた方もまた街の人々。つまりゾンビが現れたと言うよりは、住人達がゾンビになってしまったと言う方が正しい。
 無論全員がそうなった訳ではないが、既に半数以上が虚ろな顔をしてあらぬ場所から血を流し呻き声を上げて獲物を求め彷徨う姿と成り果てているのが現状だ。
 あんまりに突然な話で読者の皆様は「何故またゾンビに?」と問う事だろう。だがあまり深く突っ込むとそれなりに設定しておいた尺が足りなくなるのだ。
 そんな訳で、少々強引だが「街の住人がゾンビになった上着々と増殖中である」という前提で読んで頂けると作者も登場人物達も助かる。
 
 
 くああ、と佐々木裕介が硬いソファからようやく起き上がったのが朝もやや遅い午前八時。
 ローテーブルには昨晩貪ったシーザーサラダの残骸がレタスを方々に散らして佇んでいる。寂しくなりつつあるバイト先の店長の頭を髣髴とさせた。
 容器に半分ほど残っていたが、一晩を常温で過ごし抜いたそれを今更口に入れる気にはならない。それに向ける目も自然と白けた。
 透明のぺらぺらしたプラ容器の中身と散らかったレタスをゴミ袋に放り込み、シンクの蛇口を捻って顔を洗い口をゆすぐ。
 フローリングに裸足で立っていると冷たさがじわじわ侵略して来る。もう秋も半ばだと言うのに、佐々木の格好はまだ七分袖にハーフパンツだ。
 同居人の村井喜一が居れば「そろそろ変えないと風邪引くぜ」とやる気の無い説教を投げるだろうが、佐々木より幾分か真面目な彼は既に起きて仕事へ向かうべく家を出ていた。
 しがないレジ打ち、それも週三勤務で今日は休みという佐々木だけがシェアハウスのソファで寝こけていた訳である。
 本当は薬の売人もしているが、顔とか言動とかが怖い連中にしつこく追い回されてからは売りに出掛けていない。
 それこそ村井ならあんな薬中は撃退してくれただろうが、元ヤンのくせに高校を卒業したらさっさと身綺麗になってしまった彼はもう暴力を振るう事もないのだろう。
 そう言えば薬や煙草にも手を出さない男だった。クリーンな生き方で素晴らしいね、と独り言を零してポケットからひしゃげた箱を、その中から煙草を一本。
 兄が吸っているのを見て何となく吸い始めた赤マル(律儀に二十歳までは我慢を通した)は、六年経っても佐々木の手元から離れなかった。自覚は無いが依存症である。

 もう一度ローテーブルに目をやると、昨日村井が飲み干した酒の瓶が一つ、缶が二つ、転がっていた。
 あのくらいは片付けてやらないと殴られるな、と察した佐々木はそそくさとそれを片付け、灰皿を机上から避難させてガラス製のそれを台拭きで拭いた。
 ガラスのローテーブルだなんて小洒落たものは、佐々木の趣味でも村井の趣味でもない。元々もう一人居た同居人のものだ。
 ある日突然姿を眩ましたと思ったら、その数日後に近場の池に浮いているのが見つかった。
 白のような青のような顔色で変わり果てた姿になった元同居人から村井はつらそうに目を逸らしたが、佐々木はずっとその顔を見つめていた。
 平気だった訳ではない。ただ、その青白い塊が彼だとはついぞ思えなかっただけだ。

 何か食べるか、と冷蔵庫を漁ると、運良くローストビーフなんてものが出て来た。平らげたら怒られるだろうから二、三切れだけ貰おう。
 箸を出すのさえ面倒なのでひょいぱく、と指先で摘んで口に放る。それを二度繰り返してまた冷蔵庫へとそのスチロールパックを返した。
 それから二階に上がってシャワーを浴び、着替える。黒の七分袖、ワインレッドのジーンズ。どちらもそろそろ三年ぐらい着ている見慣れた顔だ。
 左耳のピアスを一度外して汚れを拭き取り、また付ける。以前怠ったら酷い目に遭った、もう同じ思いはしたくない。
 右側だけ前髪の長い金髪をドライヤーの風に暫く遊ばせてから、今度は靴下とスリッパを履いて階下へ戻る。
 するとそこで玄関が軋み、扉が開いた。
 
 
 内側から鍵をかけバリケードを築いた扉の外はまだ静かだ。だからといって油断は出来ない、彼らは生者の匂いを嗅ぎ分ける。
 嗅ぎ分け、嗅ぎ付けて、いずれはここにもやってくるだろう。
 それでも、小柄な親友が侵入者撃退用の刺股を構え扉を注視している内は安全なように思えた。
 
「なぁやっぱり僕らも逃げるべきじゃないか、リョウ」
 
 身の丈などとうに越えた刺股を握る内田村長の言葉は、決して怯えから来るものではない。
 彼が気にかけているのは今自分が背中越しに守っている色白の美青年、内海リョウの体調だけだ。
 
「大丈夫だよ、村長が生きている内は安心してていい」
「僕だって10や20のゾンビ相手じゃ太刀打ち出来ないぞ。大体お前、そんな急拵えで連中への対抗薬が出来るのか?」
「君の助手も協力的だし不可能ではないね」
 
 そういう内海の向こうには、ステンレス台に縛り付けられた、どう見てもゾンビが呻いている。
 呻いていると言う事はまだ生きていると言う事だ。その証拠に時折牙を剥いて内海の細腕に噛み付こうとしている。
 これは小手川という男で、医者である内田の助手をしていた。だが今回の騒ぎで噛まれ、惜しくもゾンビとなってしまったようだ。
 白目を剥いて手足をばたつかせるそれにもう小手川の意識は無い。
 内海もそれがわかっているから、先程から彼の体に容赦なくメスを入れている。私怨がないと言えば嘘になるが、とにかく世のため人のためだ。

 がた、と不穏な音が扉の方からした。そろそろ来るかもしれない。内田はごくりと息を呑んで己の武器を握り直す。手汗で少し滑るのを不快に思った。
 ゾンビ一体一体に大した力は無い。動きは生者より遅いし、生者を嗅ぎ分ける事と食う事以外は特別脅威では無いと言える。
 しかしこの街は今大勢がゾンビ化している。一体では大した事が無くても、それが10、100と増えれば話は別だ。
 年齢も性別も体格も様々なゾンビ達の中には、内田を縦横それぞれ倍ぐらいに膨らませたような巨漢も居る。
 この狭い場所に大挙して来られては、太刀打ちするのは不可能に近いという訳だ。

「窓に影が…くそ、このまま部屋の前を通り過ぎてくれねえかな…」
「し、村長。音にも反応するんだからね、あいつら」

 どのくらいの数が来ているかさえ把握出来ていないが、匂いがすればそれに惹かれて大勢寄って来る。
 がたがた、と扉を揺らす音。内側のバリケードは理科室用の机を積んであるからかなり頑丈だ。
 このまま通り過ぎろ、行ってしまえ。内心そう強く念じる内田。襲われたらひとたまりも無い。
 自分一人なら逃げる事も可能だが、体が丈夫ではない内海は同じようにはいかない。

 扉の音が不意に止む。影がすいと揺れて、扉への興味を失った事がわかった。
 やった!と無言のまま内田がガッツポーズをしようとした、その時。突然小手川(だったゾンビ)の唸り声が大きくなった。
 ぴた、と影が止まる。仲間を呼ぶ声に気付いたようだ。まずい、これは非常にまずい。
 次いで、扉に備え付けられた磨りガラスの窓が派手に割れ、大きな手がこちらに伸ばされた。
 窓に嵌ってしまったらしい太い腕が揺すられ、扉も悲鳴を上げている。そしてとうとう、向こう側に倒れるようにして扉が外れてしまった。

「こってっがっわァァァァァ!!!!てめえ死んでもお荷物かクソ!!!!」

 我慢していた声をとうとう張り上げた内田は、罵倒を一つ投げて扉へ向き直る。向こうの数は七体、倒すことが出来るかもしれない。
 乾いた唇を舐め上げる。刺股を振りかぶり、二股に分かれた方――では無い方、つまり柄の最後の方、ようはただの金属の棒を突き出した。
 その先端が一体目の額を貫く。元からこうするつもりで刺股を持っていたらしい、幸先の良いクリティカルヒットに内田が唇を歪め笑った。
 二体、三体と順調に倒していって、最後に先程の扉を壊した巨体ゾンビだけが残る。これをどう倒すか、それが一番の課題だ。
 じりじりと、武器を持ったまま内田の足が徐々に後退していく。彼の顔より大きな手が振り翳され――――そこに鋭利な何かが突き刺さった。

「…あ?」
 
 内田が呆気にとられている間にそれは引き抜かれ、どぶしゅ!という何とも聞くには堪え難い感じの音がして巨体のゾンビが膝から崩れ落ちる。
 そこでようやく、額に大穴の空いたその巨体の向こうに見知った顔がいた事を視認した内田は、先程よりも素っ頓狂な声を上げた。

「な、なんでお前らここに居るんだ!?」
 
 驚愕に見開かれる内田の藍の瞳に映っていたのは高校では同志として三年間駆け抜けた相手である長髪眼鏡と、そいつに肩車をされて血と脳漿に塗れた洗濯竿(何故か両端が尖っている)を握って尚微笑みを浮かべる女神のような美女だった。
 
 
 村井喜一の朝は早い。休日は人並みに眠ることもあるが、基本的に睡眠時間が人より短い。
 学生の頃からしていた朝のランニングに、社会人になってからは精神統一が加わり、一時期はどうしても早朝に目が覚めてしまうおじいちゃんのようなサイクルで一日を送っていた。
 仕事前にあまり消耗するなという先輩のお叱りによって朝のランニングを短くし起きる時間を遅くするまで、朝の四時にはぱっちり爽快だったのだ。
 まあその結果寝る時間が遅くなったため、プラスマイナスゼロな気もするが本人は気にしていなかった。
 遅く起きていられる分は積みっぱなしだったゲームの消費や翌朝の弁当の準備に費やされているためマイナスになったという事はない。

 そんな村井は現在五時起き七時半出勤なのだが、いつもならもっと早い先輩達によって開けられているジムの赤い扉は、その日に限って硬く閉ざされていた。
 縦に三本入った細い窓から中を覗くものの、明かりがついている様子は無い。今日は鍵当番ではないし困ったな、とひとまずその場に座り込む。
 その内誰か来るだろう。真面目だが楽観的でストレスフリーな彼は適当な期待を持ってジャージのポケットからスマホを引っ張り出した。ゲームの続きだ。
 村井喜一という男はWEBサイトの広告や知らないアドレスからのメッセージは一切読まない。そして毎朝早いしそこそこに忙しい為ニュースも新聞も目を呉れない。
 だから彼は当然のようにゾンビ発生に関するあれやこれを見逃したのだ。一方佐々木は寝坊によって同じ結果を叩き出しているがこちらは自業自得である。

 座り込んで三十分が経過した。八時を回ってしまった腕時計を見下ろし、もしかして今日は自分が知らないだけで休みの日なのかと思い至る。
 そうと思えば行動は早かった。適当にゲームを切り上げスマホを仕舞うと、村井喜一は心持ち爽やかな顔でジムを後にした。
 一切の未練も無いため振り返る事も無かったし、細い窓ガラスの向こうから血塗れの手が叩き付けられ赤い手形を残した事も気付く訳が無かった。

 突然舞い込んで来た休日に口元を緩めながら、いつもならば仕事の帰りに寄るコンビニへと足を向ける。
 随分冷えたし温かいコーヒーが欲しい、ついでに佐々木に何か買って行くかと生クリームプリンを手に取った。
 商品を置いて会計を待つが一向に店員が来ない。店を見回すが店内は村井以外誰も居なかった。
 ショクムタイマンだな、と漢字が思い出せない事については見ないフリをしながら財布を出す。常連な上に同校卒生ということでここの店員とは親しい。
 運良くちょうどの金額が中にあったので、それを勝手にレジスターの所に置くと、
「246円、ここに置いとくぞー!」と恐らく店員が居るであろうバックヤードに向かって叫び、店を出た。
 バックヤードの戸が緩慢に押し開けられ白目を剥いた血塗れの店員がようやくヨタヨタと出て来たが、これも颯爽と出て行った村井が気付く筈は無い。

 朝八時を回って随分になるというのに、通りは随分閑散としていた。コーヒーを飲みながらさみいなぁと呟く青年の視界には誰も見当たらない。
 村井は辺りを見回す。違法駐車が心持ち多い通りを、冷たい風が抜けるだけの光景。
 
「なんでまたこう閑散としてるかね…」

 寒さに首を竦めながら、足早に家へと向かう。早く帰ってゆっくりする以外の事が今は頭に無いため、多少の異変にも視線が滑っていくだけだ。
 切り時を随分と逃した伸び放題の生け垣、見通しの悪い角を曲がると肩に衝撃を感じ視線を上げる。
 いつもの物乞いが行き場も無さそうにふらついている。ようやく通行人らしき人に巡り会ったは良いが、こいつか。そんな気持ちで村井は物乞いの肩を叩いた。
「今日は恵んでやれねえぞ」、それだけ言って再び緩めた歩調を早めれば、物乞いからどんどん遠ざかっていく。
 賢明な読者諸君は既にお気付きであろうこの襤褸フードを被った物乞いも既に白目を剥きに剥いてどこの言語ともつかぬ声を漏らしていた訳だが、帰宅することしか頭に無い村井の目にはいつもの襤褸を着た物乞いにしか映らない。

 それ以外に道中何人かのゾンビとすれ違いながらも、それらに一切気付かず村井は帰路を幾らか駆け足で急いだ。
 ゾンビはと言えば村井の早足に着いて来られる訳も無く、ただただ呻きを上げながら置いてけぼりを食らうばかりである。
 佐々木と村井の暮らす白いフラットが見えて来た。帰ったら熱いカプチーノを淹れて、溜めていた連続ドラマを順番に見ていこう。
 古めかしい申し分程度の木戸を押し開け、閑散とした短い石畳を歩き、鍵を差し込んで扉を開ける。

「あ?」

 村井が扉を引いたその先、そこには何故か佐々木が倒れていた。
 
 
 フレームがひしゃげてしまった眼鏡を投げ捨てた秋雨荒はスーツの内ポケットから予備を出してかけると、とりあえず肩車をしていた美女を下ろしてやる。
「お前達が無事で良かった」。淡々とした声色でそう告げると、内田は半分泣きそうな顔で「それはこっちの台詞だ」と返した。
 美女の方、秋雨美琴――旧姓でいうところの吉田美琴つまり吉田さんである――は洗濯竿を壁に立て掛けると「久しぶりね」とさも当然のように微笑んでいる。
 相変わらず謎の多い女性だが、結婚式からこちら暫く見ない間にまた美しくなったように思う。
 結婚が決まった日に莫迦のように泣いていた同級生を思い出し苦笑いを浮かべながら「どうしてここに?」と重ねて問いかけた。

「佐々木は村井と一緒だから大丈夫そうだし、まず助けにいくならお前達からだなという結論に至った」
「助けにって…ニュースちゃんと見たか?家から出ないようにって言ってただろ」
「そうだったか?」
「記憶に無いわ」

 顔を見合わせて首を傾げる秋雨夫婦にとって家から出るなという警告は大した興味の的では無いらしい。
 それにしたって助けにいくならもっとこう、美琴の女子校時代の友達とかいたんじゃないのか。
 内田の疑問が顔に出ていたらしい、美琴は「内田君は心配性ね」と眉尻を下げる。

「棗さんは今フランス、神谷さんはご主人の仕事に付いて少し前に遠くへ越したわ。
 長谷部には電話が繋がらなかったけどいつもの事だし彼女なら大丈夫。
 玄木先輩と白河先輩もこの辺りにはもう住んでいないし無事はさっき確認出来たから。
 そうなると一番心配なのは内田君と内海君だったの」
「被害範囲はこの一帯だもんな…そうか、女子校の子達は遠くに居るのか。良かった」

 学生時代に割と仲良くしていた人々だ、気付いたらゾンビになっていたなんて事態にはあまり遭遇したくない。
 安堵した顔の内田に秋雨が更に続けた。

「磯尾も出張で遠くに居るようだし、三国くんと蟹江くんは旅行で北海道だそうだ。
 他の後輩にも何人か連絡を取って、既に遠方の知人の所に避難している」
「行動が早いな」
「俺が警告したからな、噛まれる前に逃げとけと――で、”それ”は小手川か?」

 秋雨の静かな視線が奥のステンレス台の方へと移る。
 いつの間にか内海によって麻酔を打たれ口にありったけの雑巾を詰められた元・小手川は今は視線を動かす程度しか出来なくなっていた。
 秋雨の問いに、内海が新しい紙マスクを付けながら「そうだよ」と残念そうな声で返す。
 既に血液らしき粘着質な黒い液体でしとどに塗れてぬるつく手袋を脇に放られた布巾で雑に拭い、ピンセットを拾い上げて開かれた胸部から腹部を探る。
 
「内海君はどういう薬を作っているの?」
「ゾンビを”もう一度殺す”薬だ。ニュースで聞いた通りあいつらは首を切断するか頭部の破壊をしないと止まらない。
 だけどこの薬を打てば完全に全ての機能を停止することが出来る、どこに打ってもその効果は変わらない」
「だが”打つ”となると接近戦だ、危険すぎないか?」
「だから散布型を作る。普通の人体には無害だから問題ない。ただ量が限られてるから、出来る限り一所に集めて撒かないと」

 内田の説明に秋雨も美琴もそうかそうかと頷いた。それから二人で顔を見合わせる。
 秋雨がスーツを脱ぐ。その下にはホルスターが二丁分、肩のベルトに下げられていた。
 どこからそんな、という内田と内海の驚愕を遮るように、美琴が肩から下げていた長細いバッグを下ろす。やけに重い音がするそれを開けると、

「え、AK…?」

 一度それの玩具を手にした事はある。だがこれは恐らく本物だ。入手方法等は聞くな、と秋雨は低い声で牽制し、
「これで連中をある程度仕留められる筈だ」と日頃は眠たげな目を一瞬鋭く光らせた。
 三年間同じ高校で過ごして来たが、彼のこんな顔を蟹江君関連以外で見たのは初めてかもしれない。
 物騒な弁護士様だな、と硬い笑みを零す内田に、懐かしの学友ほどじゃないと返して秋雨はネクタイを解いた。
 
 
 さてそのころ”懐かしの学友”はというと、目の前に倒れている同居人に対して流石に少し青ざめた顔をして後ずさっていた。
 俺が居ない間に一体何があったのだろうか。逡巡してはみるもののこの場に居なかった人間に推し量れるような事情は無さそうに思える。
 池に浮かんだ元同居人の顔がちらついて背筋を冷たいものが駆け上がって来た。あんな思いをまたするなんてのは御免だ。

 恐る恐るしゃがみ込んだ村井は「おーい」と控えめに声をかけてみた。ドッキリ番組の物真似と同じ調子で声を出してはみたが、心持ちは全然愉快ではない。
 うつ伏せで倒れているそれは無反応で、本当に佐々木裕介なのか少々疑わしいが着ている衣服も見慣れたそれなので多分本人だ、そのはずだ。
 肝は座っている方だと自分でも思っているが、この状況は幾ら何でも恐怖を禁じ得ない。
 とはいえ真面目に死んでいたら困るので(家賃とか)勇気を出して肩を掴み、同居人の名を叫びながら床からひっぺがすようにしてひっくり返した。

「ぅおらァ佐ッ々木ィ!!」
「うぉあアアアアアアアアアア!!!?」

 行動に驚いたのか声に驚いたのかはわからないが、とにかくそれは佐々木裕介当人だしどうやら元気に生きているようだったので安心する。
 何してたんだよとまだガタガタ震えている佐々木の肩を押さえ込んで尋ねると、「押し込み強盗かと思って死んだフリしてた」とかいう返答がなされて脱力した。
 お前こそなんでこんなに早ぇんだよ!という佐々木に「何か今日休業日だったわ」と適当極まりない言葉を返して村井はリビングへ向かう。
 マシンを起動させカプチーノのポーションをセットしてから、買った事を忘れていたプリンを佐々木に投げて寄越す。
 まじかやったー!とプリンを手に喜ぶ佐々木をよそ目にテレビの電源を入れると、さして画面も見ずチャンネルを雑に回し始めた。
 それぞれのチャンネルでそれぞれの番組が発する言葉が、断片的に村井の耳へと入ってくる。

「…によりますと…」
「大量発生を防ぐコツをお教え…」
「ほんと部分的だよねって」
「何故この街だけが被害にあったのか?我々はそれを…」
「死者が蘇るだァ?」
「…で、噛み付かれたらお終いだ!」
「避難を呼びかけ…」
「外出は大変危険ですので絶対に家から出ないで下さい」
 
 最後の言葉にリモコンのボタンを連打する手を止めて画面を見るが、ニュースは既に大統領の訪問が延期になったとかいう話題へと切り替えられていた。
 出来上がったカプチーノを啜りながらリビングのソファに腰掛けると、座面が幾分か沈む。
 何となくドラマの気分ではなくなってしまった。ゲームでもするかな、と画面切り替えをしながら「お前もやるか?」と佐々木に言葉を投げるが、返事は来ない。

「おい佐々木?」
 
 振り向くと佐々木はプリンとスプーンとをそれぞれ手に持って、キッチン脇の窓から外を見ている。
 どうしたんだよ、と再度声をかけると彼は弾かれたようにこちらを向いて「何でもない」とそそくさソファの方へ戻って来た。
 三人掛けのソファの左側に腰を下ろすと、切り替えられた画面に気付いた佐々木はローテーブルの足元に放り出されたコントローラーを手に取る。

「プリンで汚すなよ」
「しねーよガキかよ。で、どこやる」
「んあーそうだな〜」
 
 半分だけ蓋の開いたプリンをローテーブルに置きその上にスプーンを乗せた佐々木は意味も無くスティックをぐるぐるさせながら村井のステージ選択を待った。
 だがふいに手を止めると、先程立ち尽くしていた窓の方にちらりと視線をやる。
 ―――やっぱり見間違いじゃない。
 そう確信した佐々木は静かにコントローラーを置き、村井のジャージの裾を静かに引いた。当の村井はゲームの方から目を離さず、「なんだよ」と気のない言葉で問う。
 佐々木は元々血色の良くない顔を更に青冷めさせながら、震える唇を開いた。

「……裏庭に誰かいる」
 




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