うずたかく積まれた書類を片付けながら考える。一体何だこの仕事量は。
 恐らくは何処ぞの愉快犯な上司――便宜上そう呼んでおくが実際彼は役職にのみおいて言えば上司でも何でも無い――がろくに読みもせず「シェリー君に回して下さい」などとのたまったのが理由だろうが。
 それとは別に、左脇にまとめて積んである「手を付けたくても付けられない書類」に目を遣る。
 すぐに脳裏に浮かび上がったのは気楽そうな面構えをした他所の支部の提督、ジュリアン・ティエールの顔だ。

「全く。曠職だぞ、ファイランスの痴話狂いめ」

 敢えてジェーモンに居るであろう名目上の上司に対して暴言は慎む。
 化物的な男だ、執務室で呟くだけの独り言でさえ拾われる気がした。彼の”使い”はこのフォートレスに幾らでも居る。
 俺の憂いを非現実的だと笑う輩はあの丸眼鏡が何でもこなせる事を知らないだけだ。
 人の心を見透かすあの男の、わざわざ餌食になりにいく必要は無い。

 そう、明達な俺は上司の世辞にも諧謔とは言えない皮肉を混ぜ込んだ嫌味をわざわざ受けるような真似はしない。
 ”我、文民で在るからには慎ましく明達であれ”、我ながら名言だ。
 諸事情で今は貿易会社の提督なんて俗な仕事についてはいるが、本来俺は清く正しく美しい心を持ったシビリアンなのである。
 勤務し始めてから無遅刻無欠勤を貫き、規則正しい生活(残業で夜は遅くなるが、それでも朝は必ず早起きしている)と質素な食事と清潔な身だしなみ、職場での爽やかな挨拶を常に心がける模範的な人間であるこの俺を、あの愉快(褒めてはいない)に思考回路がぶっ飛んだ糞眼鏡の、とんだ変態野郎と出会う運命に仕立て上げたのは一体何処の神だろうか。
 もし会う機会があるのならば開口一番「この野郎!!」とでも叫び拳の骨が砕け散るまでのべつまくなし殴り倒したいとさえ思う。
 因みに俺は模範的で善良だが神を尊ぶ者ではない。なので善良な市民に手を上げる事は絶対にしないが、神を殴ろうが別段心は傷まないし神の方も一度殴られて多いに反省すべきだと思っている。
 噫無情かなこのさだめ、清廉潔白極まりないこの俺が一体何をしたと言うのか。
 身を粉にして日夜職務に取り組み、他所の提督やたまにやって来る眼鏡野郎に神経を擦り減らされそれでも頑張っていると言うのに、この、目の前にある他人が置いていった俺には全く関係ない書類の山。最高に非道い仕打ちだ。
 挙句上司の方から回って来た書類には幾つか赤で「極秘」としたためられていてあの男絶対頭がどうかしている。
 普通こんなもの部下に回さないだろうと思ったがそう言えばあの眼鏡は”普通”とは海を渡るよりも遥かな単位でかけ離れているのだから通用する訳ないのだ。
 大きな、それはもう態とらしいとさえとれるような大きな溜め息を一つつく。
 どこぞの輩が「溜め息をつくと幸せが逃げる」などと抜かしたらしいが、果たして俺にまだ逃げるほどの幸せが残っているのか甚だ疑問であった。
 
「ああ、いますぐ何もかも投げ捨て手足を千切れんばかりに伸ばして休息をとりたいものだな」
「シェリー提督!」
 
 言うだけ虚しい願望を呟きながら渋々と次の書類に手を伸ばしたまさにその時。
 息も絶え絶えに一人の兵が執務室へと飛び込んで来た。
 派手な音を立てて開け放たれた扉に壊れてないか心配になるが、飛び込んで来た彼の酷い顔をしている理由が気になる。
「何だ」と静かに返すと、兵卒は荒い息を整えながら

「か、海賊です、提督!!」
「貴様は入りたての新兵か?海賊如きで狼狽えるんじゃない。今まで何度このフォートレスに海賊が襲撃して来たと…」
「違います…海賊がこのフォートレスに乗り込んできました!踊り場は制圧され……連中は、提督との交渉を求めております…!」
 
 兵卒の口から飛び出た言葉は弾丸のように俺の脳髄を貫いて、俺の頭から用意していた先の言葉を奪う。
 今まで何度も襲撃されたこのアルタエル海峡基地。しかし踊り場まで進み出て来たという輩は、恐らくこれが初めてだ。

「突破されたというのか…!?他の兵達はどうした!!」
「第一から第四部隊はやられました、それもたった三人の海賊に…!提督への言伝の為に私だけが死を免れた状況です、それに」
「まだ何かあるのか」
「大陸側につけてあったフリゲート艦も全滅しました」
「…悪夢の如き話だな。それで連中の要望については聞いているのか?
 悪党を通す訳にはいかない、通行許可だけは断固下ろさないぞ」

 こんな非常事態になるまで俺の所に話が来なかった事実に苛立つが、書類を片付けるから暫く入るなという俺の言葉にきっと部下達は気遣ったのだろう。
 何よりジェーモン式の堅牢な造りが今ばかりは憎かった。
 こと俺の執務室は落ち着いて職務に取り組めるよう音や衝撃が限りなく届かないように造られている。
 俺の問いに、兵卒は視線を幾らか彷徨わせてから切り出した。

「そ、それが、ある人物を引き渡す代わりにこの海峡を通らせろと」
「取引しろと言う事か…ある人物というのは一体…」

 そこで兵卒が思い出したように。握り締めていたらしくぐしゃぐしゃになった一枚の紙を差し出して来た。
 元は二つ折りだったらしいそれを破かないよう開くと、そこには子供が書いたような汚い字がつらつらと並べられている。
「拝啓 アルタエル海峡で一番偉いお方へ」、書き出しからふざけているその手紙にあったのは、リチャード・ブラッカイマーという男の事、娘の、これまた学者であるポーラ・ブラッカイマーの身柄を現在拘束していると言う事、優秀な学者である為是非東方貿易会社に献上したい(ものは言いようだな)と言う事、引き換えにこの海峡を無傷で通らせろという事。
 糞汚い字の割に内容は莫迦みたいに叮嚀で笑ってしまうのだが、リチャード・ブラッカイマーの名には聞き覚えがあった。
 ”ヒストーリア”創設者という、ファイランス支部が抱えていた大物学者だ。奇しくも王室入りは出来なかったが、それでも学者としての優秀さは国随一とまことしやかに囁かれていた。
 出版物をいくつ読んだ記憶があるが、地理や歴史に疎かった俺でもひどく興味を惹かれた覚えがある。堅実な文体も好ましかった。
 その娘というのならば、彼の持っていた物を幾つも引き継いでいる筈だ。
 王室入りした学者ほどではなくとも、貿易会社の学者となればそこいらの三流学者では手に入らないような物も持っているもの。
 何より、あのファイランス支部、つまり俺が嫌いで堪らないティエール提督の抱え込んでいた男、その娘だ。
 もし我々の物とする事が出来たのなら、と考えるだけでも口元がだらしなく緩んだ。
 地団駄を踏む奴を見るためなら、成る程多少人道から外れようとも咎められはしまい。というか俺が赦す。
 締めてあったカーテンを開け、望遠鏡で踊り場の様子を窺う。件の三人の海賊は視認出来た。
 視点をずらしていくと、フォートレスのすぐ左脇の水門付近に見慣れないキャラヴェルが一隻。あれが連中の船だろう。
 倍率を上げて船をじっくりと見る。甲板に人影はなかった。もしかすると、これはチャンスかもしれない。

「船に乗り込むぞ」
「はい……はっ!?」

 勢いで返事をしたらしい兵卒は、言葉の意味を理解し素っ頓狂な声で了解の意を塗り替える。
 
「あの船は甲板が無人だ、それに帆も何もかも準備が整えられている。
 となると今あの船の中に居るのは拘束されているブラッカイマーの娘だけか、居ても船の扱いが出来ない程度の者だ」
「しかし、隠れているか砲列について準備をしている可能性も」
「隠れているメリットがあるとは思えない。それにあそこから撃てば踊り場の三人は間違いなく死ぬ。
 学者の娘など、縛り上げて一人見張りを付けておけば充分だ」

 望遠鏡を仕舞い、ベストのボタンとタイを直して外套を羽織る。
 提督就任の際にあの眼鏡が寄越して来た二本のサーベル。
 贈り主には多いに不満だが美しい姿をそれを腰に差し、最後に手袋を嵌めた。

「三人であれだけの数とやりあうような化物と真っ向勝負をするより、ひとけの無い船から娘を保護する方が簡単だ」

 そこでようやく俺の意図を理解したらしい兵卒は得心いったと言う顔になる。
 もう下す指示に首を傾げられる事も無いだろう。
 
「第五から第九部隊を呼び、踊り場の連中を食い止めるよう指示しろ。奴らも消耗している、止めるだけなら不可能ではない。
 ニクソンに指示をさせろ。それからカーライルを呼んで来い」
「はっ」
「この”シュヴァリエ”、フランク・バーネット・シェリー自らが出向こう。敵に拘束されし人質を救出するぞ、着いて来い!」
 
 
 
 
 背中がひりひりと灼けるように痛い。先程の大きな揺れで転んでしまって、水桶を派手にひっくり返してしまった。
 蚯蚓腫れで済めば良いけど。水桶をひっくり返したのは、事もあろうに旦那様の椅子の上。殺されなかっただけましかもしれない。
 それにしてもさっきの揺れは一体なんだったのだろう。
 旦那様の昇進に伴う異動でこのアルタエル海峡拠点にやってきてから、何かと騒がしい日々が続いているように思う。
 五畜にも劣るワタシなどでは到底お会い出来ないだろうと言われていたこのフォートレスの最高責任者である提督は、眼鏡をかけた博士風のジェントリとデッドレースを繰り広げながらワタシが雑巾掛けをしていた長い廊下を埃を舞い上げながら駆け抜けていったし、その翌日には逆にファイランスからいらした提督殿をサーベル両手に鬼の形相で追いかけていた(尤も、追われる方は余裕綽々といった顔でワタシにウインクと投げキスを寄越して走り去っていったけど)。
 その二日で五つの花瓶が割れ、七つの置物が破壊され、その他にも様々なものが使い物にならなくなった。無論その片付けをするのはワタシだ。
 徐々に皹の酷くなる手は痛々しい見た目通りに過敏になっていて、ワタシは風の流れをぴりぴりとした痛みで感じるようになっていた。
 水桶を片付け、次の掃除場所である長い廊下を見据える。箒と塵取りを両手に持つものの、終着点の見えない廊下は気が遠くなった。
 観念して箒を動かす。舞い上がる埃を箒の先で捕まえながら廊下を進んでいると、ばたばたと廊下を駆ける足音が二つ聞こえて来た。
 この慌ただしい足音の持ち主を、ワタシは一人しか知らない。
 黒い鞘に納めた二本のサーベルを腰に下げ、バーネット・シェリー提督閣下がすごい勢いで走って来た。
 こうしてはいられない。掃除の手を止め素早く廊下の隅の隅まで下がって膝をつく。それから頭を床まで下げて深々と礼。
 屋敷に居た頃から旦那様にそうしろと教えられたことで、ワタシにとっては当然の行為だったけれど、何故か提督閣下は慌ただしい足をワタシの前で止めた。
 何か粗相があったかしら、と不安で一杯になるまま頭を下げ続け言葉を待っていると

「どうした、具合が悪いのか」

 ワタシはとうとう耳が可笑しくなってしまったのだろうか。幻聴だ、幻聴に違いない。
 そのまま固まっていると今度は「大丈夫か」と聞こえて来た。可笑しい、幻聴じゃない。
 焦ったような早口でもう一度繰り返され、ワタシはうっかり「え?」と聞き返しあろう事か顔を上げてしまった。
 綺麗な菫色の瞳がすぐそこにあって、閣下がワタシの顔を覗き込んでいた事に気付くのにたっぷり三秒はかかっただろう。何にしろ、言葉が出なかった。
 
「そんなところで蹲って、どこか悪いのかと」
「い、いえ…こちらを人がお通りになる際はこのように礼をしなさいと、その、旦那様からの申し付けでして」

 赦しも頂かず顔を上げてしまった申し訳なさに目線を外し、下げる。
 ふいに提督閣下の声に不穏な色が差した。

「…お前の主人は誰だ?」
「チャーリー・ゲンズブール様でございます」
「あの新入りか…下女苛めとは悪趣味な…。宜しい、彼には私から言っておく。これからは立ったまま一礼、それでいい。
 ああ、私が通りかかった時には構うな、何もせず仕事を続けたまえ」
 
 そんな!思わずワタシは叫んでしまった。そして学習能力の無い事にまた顔をあげてしまう。
 このフォートレスで最も高い地位に座している方に頭を下げない訳にはいかない。
 莫迦のようにそんな、駄目で御座います、閣下と繰り返すワタシに、閣下は困ったように笑った。

「ならば好きにしろ。仕事の邪魔をしてすまなかったな」
「いえ、ワタシこそお引き止めしてしまって申し訳ございません…」
「気にするな、最初に声をかけたのはこちらだ。では失礼」
 
 そう言って提督閣下は再び走っていってしまう。
 その背中を見えなくなるまで見送って暫くぼんやりしていたけど、不意に肩を強く掴まれ床に頭を叩き付けられた。
 振り返らなくても誰なのかは明白だが、一応振り返る。
 そこには旦那様が、冷酷な目でワタシを見下ろしていた。
 
 
 
 これじゃあ一体どっちが人質なのかわからない。止まらない涙に、レイチェルはそう思った。
 ヴァルツァの自信たっぷりな言葉を反芻しても、不安で仕方が無いのだ。
 捕まる、吊るし首、死。ネガティブな言葉が浮かんでは消えていった。
 二人だけの船は不気味な静けさに支配されている。泣きじゃくるレイチェルの頭を撫でるポーラは落ち着いていて、可笑しい、これでは立場が逆だ。
 
「ごめんなさいね」

 謝罪の言葉に顔を上げると、ポーラと視線がぶつかった。
 何故、と言うレイチェルの問いに、学者の娘は静かに灰色の目を伏せた。
 
「わたしが取り乱したせいで、あなたのことまで不安にさせてしまったわ。あなたは何も悪くないのに」
「私も海賊の一人ですよ…ポーラさんが罪悪感に苛まれる必要なんて、」
「でも、あなたはわたしの事を守って、庇ってくれたじゃない。驚いたけど、とても嬉しかったのよ?
 それなのにわたしは、あなたを泣かせてしまったわ」
 
 いつのまにかレイチェルの小さな背中にはポーラの手が置かれていて。
 白い嫋やかな手は温かく、レイチェルはさっき以上に涙が溢れて来るのを止められなかった。
 泣いている所を母親に抱き上げられてそうされた、随分昔の事を思い出す。
 似ている温度に哀しみを感じるのは、何も言わず出て来てしまったことへの罪悪感がまだ胸の内に巣食っているからだ。
 向こうの壁に、針の進まない古時計が滲んで見える。零した言葉は鼻声で、静かな空気を幾らか震わせた。

「ポーラさんはもう、平気なんですか」
「まさか。でもそうね、あまりに怖くて麻痺し始めているかもしれないわ。あなたから見たら平気そうに見えるんでしょ、わたし」
 
 はい、とは言えない。代わりに肯定とも否定ともとれるよう曖昧に首を振った。
 悲しみに支配された静寂が二人を包んで浸食してゆく。広い部屋だというのに、いやに息苦しくて仕方がない。
 レイチェルはポーラの肩へ、自分の頭をことり、と預けた。
 誰よりも不安であろう人間に甘えようだなんて無神経にも程がある。わかっていても、そうせずにはいられなかった。
 薄暗い部屋も、外で繰り広げられているであろう戦いも怖い。
 だがそれ以上にレイチェルはポーラが去ってしまうことを恐れていた。
 戦いを恐れているからこそ、彼女に傍にいて欲しいと思っているのかもしれない。
 抱き締められた体に伝わる温かさが消え失せることが今は何より恐ろしく、レイチェルはただただ小さな手をかたく握ることしか出来なかった。
 そんな気持ちに気付かれたのか、ポーラがふ、と吐息混じりに笑う。

「なんだか、妹でも出来た気分だわ。こんな時に不謹慎だけど、あなたに捕らえられてるんじゃなくて、あなたと一緒に捕らえられているみたい」

 なんですかそれ、と目を擦りながらレイチェルは反論した。
 ポーラが今度はさっきよりも幾らかわかりやすく笑い、張りつめていた空気に少しだけ余裕が生まれる。
 
「親しみやすいってこと。褒めてるのよ?」

 ここの人たちはあんまり”らしく”ないのね。灰色の目を細めて言うポーラのそれも”褒めてる”のだろうか。
 考えながらレイチェルは否定は出来ません、と至極真面目な返答をした。ポーラが笑う声に涙が乾いていくのを自覚する。
 締め付けるような閉塞感がゆるめられていく。ポーラは笑ったせいでずれた眼鏡を直し、ふいに家と身の上の話を始めた。
 両親のこと。たまに家に来る父親の仕事仲間のこと。家がぼろで冬が寒く、暖炉に近付きすぎて火傷しそうになったこと。
 彼女の口から溢れるのは、温かく美しい思い出だった。苦労はしたけれど、それは望みを叶えるために必要だとポーラは言う。
 
「思うに父にはそれが足りなかったのよ。何としてでも叶えたいという意思が。わたしは望みのためなら何だってするわ」

 先程までの儚さは一体何処へやら。ポーラの瞳には強い光が宿っていて、レイチェルはその輝きが失われないことを密かに祈る。
 そして自分はどうなんだと突きつけられたような気分にもなった。なりゆきで出て来た身だ、強い意志はまだこの胸に宿っていない。
 ふいに生まれた沈黙にレイチェルが何を言おうか迷っていると、
 がたん
 と外から音がした。
 ポーラの肩がにわかに揺れ、つられてレイチェルも体を硬くする。
 ヴァルツァかリッヒテか、それともロベルトか。
 もう片がついてしまったのだろうかと考えていたレイチェルの緩んだ頭は、次いで窓の外に過った影に思考を止める。
 あの色の外套。見覚えがある、東方貿易会社のものだ。何故ここに。いや今はそれより、どうするかだ。といっても何が出来る訳でもない。
 どうしたらいい。
 敵が乗り込んで来たという事実を処理出来ないでいると、突然腕を強く引かれソファの裏に押し込められた。
 ポーラは「絶対に出て来ては駄目よ」と厳しい声で言うと、解かれていたロープを拾い上げる。
 後ろに回した両手を自分で縛っていく器用さに感心していられる余裕はなかった。
 何がどうなっているのか分からなくてレイチェルは混乱から抜け出せないでいる。
 自分の両手を縛り終えたポーラはソファの前に倒れ込む。それとほぼ同時に船長室の扉が開け放たれた。
 
「見ろ、囚われの姫だ」

 貿易会社の外套を翻して船長室に乗り込んで来た男は芝居がかった声で高らかに宣言する。
 鮮やかな菫色の双眸をきゅ、と細めた彼にはどうやらポーラしか見えていないようで、ソファの後ろで縮こまるレイチェルには気付いていない。
 男が恭しく膝をつくと、腰に下がった二振りのサーベルがかしゃん、と音を立て床に触れる。
 横たわったポーラは灰色の目でそれを眺めると、億劫そうに上体を起こす。
 まるで今しがた目覚めたような顔の女に、彼は己が信用に足る人間だと言うことを証明すべく口を開いた。

「突然の非礼を詫びさせて頂きたい、レディ。私は東方貿易会社ユーグランド支部提督のフランク・バーネット・シェリー。
 海峡基地の管理を任されている者です。貴方を拉致した不届き者どもは私の部下たちと交戦中ですが、すぐに連中の身柄も拘束出来ましょう」

 この海峡基地の、提督。レイチェルの頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。
 ぐらつく脳にとどめを刺したのは他でもないポーラの希望に満ちた声だった。

「ああ!わたしを助けに来て下さったのですね!!」

 その場に倒れてしまわないよう、踏みとどまるのが精一杯だった。
 床に手をついてバランスを保つが頭がぐらついて平衡感覚が狂いそうになる。
 吐き気を催したがそれも耐える。口元を押さえて耐え続ける。
 レイチェルの気持ちを踏みにじるように、フランクと名乗った提督はポーラの縄を解き彼女を立ち上がらせる。
 お怪我はありませんか。あなたを保護します。ご安心下さい。
 耳に言葉は入って来ているのに、頭がそれを分解しない。異様に震えているのが自分でも分かって、レイチェルは更に恐怖した。
 ポーラと部下を連れ立って、フランクが船長室を出て行く。緊張の糸が切れたレイチェルはとうとうその場に倒れ込んだ。
 ――至極当然だ。ポーラ・ブラッカイマーの幸せはこれで約束される。どのみちいずれ別れは来ていた。早いか遅いか、それだけ。
 それなのにレイチェルは、震えて吐き気を催し力無くその場に倒れても尚、彼女を連れ戻したいと願っていた。
 本当は行ってしまう前に引き止めたかった。
 提督という権力の恐ろしさ以上に、引き止める権利など自分には無いのだと思い口を塞いだのだ。
 助けに来て下さったのですね。そう叫んだ彼女のはずんだ声がこびり付いて離れない。
 安全と幸福とを手に入れる事が出来るのだ、その反応が普通だ。それでも傷ついた自分の身勝手さに、ひどく涙が溢れた。
 妹みたいだと笑ってくれた優しく聡明な女性など、もしかしたら始めから居なかったのかもしれない。

「ヴァルツァ、私どうすればよかったの……」

 ついててやって、という曖昧に下された命令は、それでも守れなかったことなど容易に理解出来る。
 彼女は攫われた。ヴァルツァの作戦は失敗だ。自分のせいで。自分に力が無かったせいで。
 その場に蹲って嗚咽を漏らす。どうにもならないとわかっていながら追いかけるだけの気概は残っていなかった。
 
 
 
「見ろよリッヒテ、おいでなさったぜ」
「そうだね、薄々勘づいてはいたけど埒があかないよ」
「馬鹿の一つ覚えの如く人海戦術で来やがって」
「でも確実に体力を削られてるよ、俺たち」
「…そりゃまあ、」

 そこで一旦言葉を切ったヴァルツァが背後を振り返る。
 剣を構えながらも足元が覚束なくなって来たロベルトが、言外に含まれた皮肉に舌打ちをした。

「庇って頂いてどーも!悪かったなぁ体力なくてよ」

 剣に体重をかけ体を支える。敵はといえば先程から小隊を組んで武器を手に手に切れ間の無い攻撃を仕掛けてきていた。
 反撃のいとまを許さない攻撃にまず膝を折ったのがロベルトだ。
 彼を庇うように前へ出たリッヒテとヴァルツァも慣れない戦い方に少しずつではあるが消耗の兆しを見せている。
 申し訳なさを感じながらもロベルトは「最初調子に乗って飛ばしすぎた二人にも非はあるよな」などと考えていたのだが、いかんせん今は庇って頂いているご身分だ。
 文句でも言おうものなら二人の狙いがこちらに向くのは火を見るより明らかなので、我が身可愛さに口を噤んでおく。
 兔にも角にも劣勢だが、ロベルトは自分の右手をぐっと握ってみる。幾らか体力が戻って来ているように感じた。
 体格もシャツの色も正反対の二つの背中が矢継ぎ早に降る攻撃の雨を凌いでいくのを黙って見ているのも、そろそろ終わりにしなければ。
 空元気なのは百も承知だ。”気がする”程度の回復に過ぎない。それでも船長の名を頂く以上果たすべき責務が彼にはあった。
 剣にかかっていた体重が両足に帰ってくる。膝が軋んだような気もするが、それもまた”気がする”程度の問題だ。
 一歩、二歩と進み、自分より低い位置にある白銀髪の後頭部をがっしと掴み、それはもう禿げろと言わんばかりの力でこちらへ引く。
 その際にえらく悪罵を浴びせられたが、いちいち気にしていてはそれこそ禿げ上がるしそもそもそんな繊細な精神は有難くも持ち合わせていないため気に留めようもない。
 利剣の如く鋭い、人を何人かは射殺せそうな殺意の眼光をたたえた孔雀色の双眸が「何しやがる」と言わんばかりに向けられる。
 全く持って雄弁な目を持っているなと感心するし呆れもした。

「選手交代といこうぜ、おちびさんよ」
「てめ、かっこつけてんじゃねえよ」

 まだ戦える、と半ばムキになるヴァルツァがやたらと年相応に見えてロベルトは笑ってしまう。
 ついでだとリッヒテもからかおうとしたが、何か発した瞬間に悪質な笑顔を満面にたたえて斬り掛かられそうだったため断念した。
 ロベルトにもはっきりとわかるくらい、リッヒテのフラストレーションがたまっている。
 表情こそいつもの涼しげな色を浮かべてはいるものの、滲み出る苛立ちがまず隠し切れていない。
 それに毒めいた蜜の色が沈む隻眼がこれまた人を何人か射殺せそうな光を昏く放っていた。
 付き合いの長いヴァルツァはとうに慣れたのか、彼から醸し出されるどす黒い殺気の塊など意にも介さずリッヒテの肩に病人と見紛う白い手を置く。

「面構えが物騒極まりないぞリッヒテ。船長が腰抜かしそうだからやめてやれ」
「…まったく、端武者風情が雁首揃えて何様の了見だろうね」
「シカトかな?しかも口まで物騒だな?」

 ヴァルツァの声すら耳に届いているか怪しい様子のリッヒテはとうとう座った目で物騒な言葉を並べ立て始める。
 様子を見ていたロベルトは今すぐ回れ右をして帰りたい気持ちに襲われながら漠然とした嫌な予感が的中しないよう祈る。
 吹っ切れてしまったリッヒテは雑に拭った返り血が飛ぶ頬を緩め、唇を歪に吊り上げた。

「まとめて荒血の海に沈めて呉れる」

 刀を振るうリッヒテの背に、ぎらつく目をした真っ黒い猛獣が唸り声を上げているように見えたのは気のせいだと思いたい。
 ゾウという生き物は平生温和に歩いているものの、怒り狂うとそれは恐ろしい。それに似た変貌がリッヒテに見えた。
 腥く笑う彼に船で見た”優しく頼れるお兄さん”の顔は微塵も残っていない。
 この場が誠に多様な意味でいよいよ危険になって来た事実を肌に突き刺さるような凍り付いた空気がロベルトへと伝えた。
 巻き込まれてしまったら最後、ただでは済まないだろう。だが立ち上がってしまった以上ここで引き下がるのは格好がつかないのだ。
 屍蝋の唇に弧を描かせ「楽しくなってきやがった」などとのたまうヴァルツァのような心持ちになれれば苦労も無いのだが、この場を楽しむ狂気と人間性とを天秤にかけるとどうしても人間性の方へと傾くので諦める。
 
「ロベルトも顔が辛気くさいよ。そんなんじゃすぐくたばっちまうぜ」
「は、死んで花実がなるものかってんだ。返り討ちにしてやる」

 足が震えていない訳じゃない。
 息が上がっていない訳じゃない。
 こみ上げる目眩もまた膝を折ってしまいそうな足も途切れ気味の呼吸も全部日頃の運動不足のせいにでもしておこうとロベルトは自身に念じた。
 ”船長らしくなる”とヴァルツァが寄越した、天鵞絨の外套。
 金の刺繍が施された裾を強く握り締めると、うっすらと滲んだ汗が上がり始めた熱と共にその中へ吸い込まれていくような気持ちになる。
 綺羅の限りを磨いたそれはヴァルツァが頂戴して来たものの中でも一級品で、多少古いことにはロベルトも頓着しなかった。
 これを受け取り羽織った以上、自分は船長だ。小さく頷いてみれば、決意と不安の入り交じった奇妙な興奮が胸の内をふわふわと漂う。
 張りつめた糸が切れぬよう深く息を吸い、緩めるようにして吐き出した。凝り固まった口元に自由が帰還し、ロベルトは笑ってみせる。

「リッヒテが修羅と化す前に片をつけよう。とっととお偉いさんを引き摺り出すぞ!」

 振り翳した刃が曇天の隙間から降り注ぐ一条の光を凛と弾き返し輝いた。
 了解の意を示す声が二人から上がる。
 三足の色も形も大きさも違うブーツが、一斉に強く地面を蹴った。



 淡く漂う安息香。ポーラは少し痕の残る手首を擦りながら息をつく。満開のトケイソウが巻き付いたバルコニー、開いた窓から心地良い風が吹き込んでいた。
 シンプルで趣味の良い部屋だ、とポーラは周囲を見回す。血生臭い仕事に従事する男の物々しい空気が感じられず、不思議と居心地が良い。
 片目を隠しそうなほど長い前髪を掻きあげながら、フランクは窓の外へと視線を投げる。
 広場の戦況は相変わらず劣勢だが、兵士たちも相手の勢いを殺すくらいの働きはしているようだった。
 胸ポケットにしまっておいたヴァルツァからの手紙を取り出すと、ポーラへと差し出す。

「この悪筆極まりない手紙は、先ほど貴女を監禁していた海賊が寄越して来たものです。この手紙の存在は?」
「…いいえ、存じませんでした」
「左様で」
「もしよろしければ、読ませて頂いても?」

 ポーラは首肯したフランクから手紙を受け取り、折り畳まれただけのそれを開いた。
 一瞬顔を顰めた辺り、悪筆という点においてポーラとフランクの見解は一致したらしい。
 長細い生物がのたうち回ったような筆跡で綴られた文面に一頻り眼を通し、皺だらけの紙を丁寧に畳み直してフランクへと返す。
 わざわざありがとうございます、と嫌味でも何でもなく彼は返し、彼はそれを再び胸ポケットへ。

「手紙に書いてあるようなことを聞かされていましたか」

 少し考えるそぶりを見せて、ポーラは頷く。
 睫毛をひと往復させてから落としていた視線をフランクに戻し「でも」と続けた。

「わたしを手放すつもりはないと言っていました。渡すと言うのはあくまでふりだと。
 わたしがここにいると知れば、彼らはきっと取り返しにくるでしょう」

 あとに控える窮地でもわたしは利用出来ますから。
 はっきり答えたポーラにフランクは顔色こそ変えないものの内心驚きを隠せなかった。
 穏やかに見えた灰色の瞳が、今は鋭い意志をたたえている。

「あとに控える窮地、とは…?」
「彼らはセザンをも突破するつもりでいるようです」
「無礼な質問だとは承知していますが、ただの人質の貴女がどうしてそこまで」

 至極真っ当な若き提督の問い。人質など捨て駒に等しい。
 必ず取り返しにくるという断言も、彼には不思議でならなかった。
 疑問に答えるべく、ポーラは前置きの長い呼吸を済ませる。

「彼らはみな若く、己の力を過信しているように見えました。わたしに何を教えても支障はないとも言っていたように記憶しています。
 或いは、わたしが力を貸すと思っているのやもしれません。天地がひっくり返っても有り得ませんが、あんな無法者に」
「そうですか…となると、つくづく私は運が良い」
 
 手袋をはめた両手を摺り合わせ、フランクは目を細めて笑う。どこかの丸眼鏡の癖なのだが自覚はしていないだろう。
 世界でニ番目に悲惨な死を願っているティエール提督の管轄下がどうなろうと知った事ではないが、これは紛れもないチャンスだ。
 売られた喧嘩は買ってやろうではないか。
 心中は血に滾っているのを隠し、フランクは真面目な顔をして職務に真面目な軍人の言葉を発する。

「悪を罰し、善き者弱き者を守るのが私の使命です。悪逆非道の海賊共から市民を守るため、何としてでも奴らをここで捕らえたい。
 つきましてはMs.ブラッカイマー、貴女の協力を求めたい。危険には晒しませんし、貴女の今後は私がお約束します」

 言葉に偽りはない。善良な市民を守りたい気持ちは確かだった。別の目的が占める割合が大きいだけの話だ。
 差し出された右手を見つめ、ポーラは両手でそれを握ると柔らかくも冷たい微笑みを浮かべた。

「ええ、勿論よろこんで」



 「わぁ、何このインフェルノ。視界の右半分が赤いんだけど」
 
 気の抜けた声でヴァルツァ。振り抜いた鎌の刃から長く血の尾が引く。前髪の隙間からのぞく左目、厳密にはその瞼から血が滴っていた。
 黒い爪でその鮮やかな赤を掬いながら目を擦っていると、死角となった左から槍兵が突撃してくる。
 タッチの差で防御が間に合わないところを、割り入ったリッヒテが一太刀に斬り伏せた。
 槍が折れ腕が落ちるのを理解の追いつかない顔で見ている槍兵の額に、ヴァルツァが腰から引き抜いた銃の弾丸が突き刺さる。

「悪いね、助かったよ」
「いいってことさ。お前それ止血しろよ」
「っはは、暇が、あれば、ねっ」

 ヴァルツァは軽やかに地面を蹴り、階上からこちらに向かって構えている弓兵隊の頭上へ恐るべき脚力で跳び上がった。
 懐に忍ばせていた小さなナイフたちを手の内で扇状に広げる。下で困惑する兵士達に向け、ナイフを投げつけた。
 あちこちから大小の血飛沫、赤い甚雨の中へと着地した少年は矢を握り襲い掛かって来た弓兵の丹田にかためた拳を叩き込みナイフでとどめをさす。
 追ってあがって来たロベルトのグランディオンが現場指揮を執っていた男の肩口を貫いた所で、決着はどうやらついたらしい。
 呻く男に頭突きをかまして気絶させている間に、兵士達は負けを悟ったのか列を崩された蟻のように慌てふためき散り始めた。
 逃がすかよ、と引き抜いた剣を翻すロベルトを諌めたのは、血塗れで見た目がえぐい割に表情は爽やかさを取り戻しつつあるリッヒテだった。
 何で止めるんだ、と不服そうな声で漏らす少年を見て、彼より幾らか年を積んだ航海士は彼の肩を宥めるように小さく揺する。

「消耗している身で深追いは良くないな。ただでさえ君は初めての実戦なんだし無駄死にしたくないだろ?俺達も無傷という訳じゃない。
 それに君は目の当たりにした筈だ、”頭が無くなれば体は動かない”」
 
 リッヒテの隻眼が、温い血を纏ったグランディオンを見る。
 ヴァルツァが瞼の傷口をやる気の無い指先でグイグイと押さえていた。止血のつもりだろうかとロベルトは顔をしかめる。
 指先に絡み付いた血をズボンで雑に拭うと、ヴァルツァは孔雀色の目をこちらに向けて胡乱げな船長に言葉を砕いてやった。

「要は司令塔叩いて戦線抜けた方が無駄に消耗せずに済むって話」

 明快な答えにロベルトはなるほどね、と頷く。冷蒼の瞳をそっと伏せたかと思えば、薄い唇が吊り上がった。
 振り仰げば陥落させるべき楼閣が憎らしいほど高く聳え、彼らを見下ろしている。
 爪先をそちらへと向けたロベルトに二人が続こうとした、その時だった。

「ヴァルツァ、」

 決して大きな声ではなかったが、にわかに静寂を取り戻した広場にその声は響き、呼ばれた少年は声の方へと振り返る。
 そこには船にいるはずのレイチェルが、いた。血塗れた屍の積み重なる広場に不釣り合いな傷一つない姿で立ち尽くしていた。
 どこも怪我をしていないのに、彼女はひどく傷ついているように見えた。
 よほど懸命に走って来たのだろう、彼女の目には周囲の惨状が映っていないようだ。
 すぐそこに腕が一本落ちている事にさえ気付いていないに違いない。ヴァルツァはレイチェルと目を合わせたまま足早に歩み寄る。

「どうしたの」
 
 その言葉が今彼の心に渦巻く全てだった。リッヒテは細かく聞きたいことが山程あったがただならぬ空気に口を噤むしかない。ロベルトも同じだ。
 色々ききたいことはあるが、ものごとには順序がある。何よりひどく混乱した様子の彼女を質問攻めには出来ない。
 どうしたの。出来る限りの柔らかい声でそう問うと、レイチェルは小さな手でヴァルツァの袖を力無く掴む。

「ごめ、ごめんなさ…私っ、なにも、できなかっ、た」
「なにがあったの」
「そばに、いるって言った、いったのに…でき、なかっ、た!ポーラ、さん、っ…ていと、くに、つれて、つれ、て、いかれ…う、うう」

 嗚咽混じりの断片的な言葉は、それでも意味がはっきり伝わった。レイチェルの頭をぎこちなく撫で、そう、とヴァルツァは呟く。
 提督が乗り込んで来るのは計算外だった。レイチェルにはなるべく楽な仕事をさせてやるつもりだったのに。
 同じように意味を理解したロベルトが困惑した顔で切り出す。

「ど、どうすんだよ…作戦失敗じゃねえの…」

 彼の言葉はレイチェルに追い打ちをかけた。堰を切ったように溢れ出す涙の雨に、リッヒテも狼狽える。
 ヴァルツァ一人がひどく冷静で、平生の彼からは想像がつかないほど優しい手つきで静かにレイチェルを抱き寄せた。

「大丈夫だよ、なにも心配しなくていい。嫌な仕事させちゃって悪かったな。よく無事だった」

 子供をあやすように、いいきかせるようにゆっくりと話すヴァルツァの言葉が、レイチェルの胸にゆっくりと沁み込んでいく。
 嗚咽に被せるようにしてヴァルツァは大丈夫、大丈夫と子守唄のように繰り返した。
 レイチェルは嗚咽を殺してはうん、うんと返事をする。
 それにしても、と急に調子を変えたヴァルツァがレイチェルの背をさすりながらロベルトの方へと振り返った。
 その目は悪戯とかいう毒を山盛りに含んでいて、ロベルトは嫌な予感とそれが的中するであろう予感とを同時に頭に浮かべる。

「お前も中々に女心がわかってないようだね」

 いつぞやの仕返しは、ロベルトのさして硝子でもないハートにクリティカルヒットをぶちこんだ。
 
 
 
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