その日の舘貫咲黒はどこか不自然だった。
 クラウン社CEOである灘木あげはのスケジュール全てを管理し、無理難題にも眉一つ動かさず応え、客に向けては営業用の笑顔で対応し、それ以外は”節電モード”つまり無表情。
 美貌と頭脳と権力と金とを有し「完璧」と謳われるあげはと同等か、時には上回るほど”完璧”に仕事をこなす第一秘書(名目だけで第二以下は存在しない。何故ならそんなもの居なくとも一人で充分にその役目をこなせるからだ)、それが舘貫咲黒である。
 同じ屋根の下で寝食を共にしているが二人は恋人と言う訳ではなく、気が向いたら幾らか体温を分け合い同じシーツの中で冷えた爪先を擦り合う程度の関係で、行為自体は大体ゆっくりした休日(そんな休日は本当に稀だ)か食事とシャワーとを済ませた後にしか行わない。
 それが今日はどうだ。
 
 
 勤務時間内から既に若干小難しい顔をしていた咲黒の異変は、とうとう帰路の車内であげはの「あれ?何かおかしい」程度の疑問を「いや、やっぱりおかしい」と確信に変えさせた。
 王冠のトレードマークが飾られた、背後に忍び寄る暗殺者のように静かなハイブリッドカーはあげはがカウンターで「これオーダーメイド出来る?」とかいう無茶振りをかましたおかげでツー・シートっきりのスポーツカーのような出で立ちをしており、パトカーを引き連れるような速度を出さない限りは近隣住民の睡眠に優しく、酷く静かに走る。
 後々あげはの改造によってやれガトリングだの飛び出す座席だの要るのか要らないのかわからない機能が追加されたが(咲黒は英国諜報部映画の見過ぎだと苦言を呈したものの鼻歌によって無視された、無論鼻歌はその主題歌である)、今の所そんな機能を使う羽目にはなっていない。有難い話だ。
 この特別車はいつも一流ドライバーである咲黒によって流れるように操縦され、本社と自宅を10分と少しで移動できる。
 助手席のあげはがうたた寝できるほどの暇はなく、仕方が無いのでいつも仕事の退屈な資料をめくってその10分と少しを耐えていた。
 問題は今日の咲黒の運転だ。さっきから一体何人轢きそうになったことか。
 急ブレーキで背中をしこたま座席へと叩き付けられるのは随分と久しぶりで最初あげはは純粋にびっくりしたが、ニ度目三度目となってくると驚くより先に運転席の人間の精神面における安否を確認したくなってしまう。

「お前、人轢きたい気分だったりする?」
「違う、そうじゃない、大丈夫だ」

 咲黒は秀でた鼻梁の上の方を無骨な指の腹で抑えぐっと目を閉じると、かぶりを振ってまた車を走らせ始める。
 そして次の信号で止まり損ねて今度は老夫婦をあの世に送りそうになった。悪い、と咲黒は言うが謝るべき相手は目の前で死にそうな顔をしている老夫婦だ。
 大丈夫って何だっけ、と単語のゲシュタルト崩壊的なものを感じつつスムーズではない帰路をやや面白がる心持ちで過ごす。
 滑り出しては止まりを繰り返していた黒のツー・シートはようやく駐車場へと辿り着き、また一人轢きそうになりながらも所定の位置へと停車した。
 ドアをうっかり隣の車にぶつけた咲黒がまた悪い、と謝るが、相棒の失敗が物珍しいあげはは「気にすんな」と笑って返す。
 隣に停めてあった年代物のスポーツカーもどうせ自分のものだから、誰かに怒られる訳でもないし良いやと思っていたのでその言葉は本心だった。
 いつもは定規で測ったようにきっちりとした歩幅で歩くくせに、今日はえらく歩調が乱れている。
 地下駐車場から部屋まで直通のエレベーターに乗り23を押して手摺りに浅く腰掛けた。
 咲黒は背筋の伸びた”休め”の姿勢で居るのが常だったが、今日は早々にネクタイを緩めている。
「暑いのか?」と問うと「ああ、まぁ」と伏し目がちな彼は曖昧な言葉を返し、薄い唇の隙間から長く息を吐いた。
 疲れてるのかな、と自身もネクタイを緩めながらいつもの鉄面皮はどこへやらの第一秘書を眺めていると、不意に視線がぶつかった。
 形の良い頭部を守る頭髪たちはみな赤く、視線の出所はそれより少し暗い色をしている。
 ごく薄い茶色をした双眸で眼鏡越しに視線を返すと、また珍しい事に慌てて逸らされた。
 珍しい事尽くしで、逆に何が珍しいのかよくわからなくなってきた所でエレベーターの軽快なベルが到着を告げる。
 口を開けた密室からそそくさと抜け出した咲黒は不整脈のような足取りで自宅のドアの前まで行くと、冷たい色をしたドアノブの下部にカードキーを差し込んだ。
 ゆったりとした足取りで出て来たあげははドアを開けて待っている番犬の目の色をもう一度伺い――ここでようやく気付くなんて俺も鈍くなったなと呆れや自嘲やその他が混ざった気持ちに顔が歪んで――フェラガモの踵をぴたりと揃え咲黒のすぐ正面に立った。
 頭半分程高い秘書を近くで見上げるとその色は明白で、もっと早く気付くべきだったと苦笑を零し「誰も見てない」と口にして、餌を前に待てをさせられている犬と同じような顔でいる咲黒にもう半歩寄る。
 普段はきらめきもしない落ち着いた深い赤の双眸があげはを見下ろし、不穏な色が何度も瞬いた。
 それをじっと見詰め返すあげはにとうとう咲黒は睫毛を伏せて視界を一旦遮断する。
 それから「悪い」とまた謝る声がしたと同時、あげはの肩は咲黒の大きな手に掴まれ部屋の中へ引きずり込まれた。
 不満げな音で閉まるドアを見送る間もなく背中から壁に叩き付けられ、乱暴に唇が押し当てられる。
 すぐさま滑り込んで来た舌を甘受し、勢いに閉じた目を薄らと開けると、餌にありついた雄が必死にそれを貪る顔が間近にあって、彼の興奮がじわりと伝染してきた。
 脱がせてやるべきかと考えているあげはを余所に咲黒は自分が着ていたロングコートとスーツと、タイを引き抜いて襟が少しよれたシャツを煩わしそうに脱ぎ捨て、逃がすまいとでも言うようにあげはの両肩をぐっと押さえつける。
 角度を変える度に咲黒の首筋が隆起したり戻ったりするので、実際混じり合ってる部分とは全く関係のない所にエロティシズムを感じながらあげはは一度キリをつけるべく相手の薄く色も無い唇に吸い付き、音を立てて離した後控えめに舐めとった。
 唇が離れると今度は鼻先がすり寄せられ、額が触れる。
 は、は、と短い呼吸が二人分上がり、熱度にあげはの眼鏡は耐え切れず白く曇った。

「シャワー、」

 唇を離して開口一番ぼそ、と呟かれた咲黒の声は普段より低く掠れていて、たまらない気持ちになりながらあげはは自分のスーツのボタンに指をかける。
 しかしその手を掴むと咲黒はそのままあげはの細身をバスルームに投げ込んだ。
 捻った力加減と同等の水圧が勢い良く頭上から落ちて来て、あげははあっという間にスーツ丸ごとずぶ濡れにさせられる。
 微妙にぬるい水温と、宣伝文句だった肌触りの良さなど水流に消し飛ばされてしまった高級シャツの張り付く感触に不快感を覚えながらあげはは気の遠くなるようなキスを受け入れた。
 どうにも眼鏡がぶつかり邪魔で仕方ないなと思っていると、見透かしたかのようにすいと咲黒の手が伸びてきて外される。
 周囲の視線から己の美貌を守る為にかけているだけの防護装備でしかない眼鏡は、失したところで視界を煙らせる事はなかった。
 シャワーの水に叩かれている咲黒の上半身はジムとジョギングとあらゆる武術と実戦で鍛え上げられていて、同性の目から見ても魅力的に見えるのだから女性から見たらもっとだろう。
 どちらかというと痩せた体のあげはは自分が女にもてはやされるのは顔と金のお陰だろうと思っているし(一応テクニシャンであるとは思っているがそれは外側から見ても分からない事実であり知らない女に声を掛けられる理由にはならない)、自分が女なら咲黒のような男に抱かれる方が好ましいと考えていた。
 実際男である今でも抱かれているので男とか女とか言うのは最早関係がないのかもしれないが。
 濡れて随分と重くなったスーツを脱がせ、濃い色をしたシャツを引っぱり出して裾から手を忍ばせた。
 背骨をなぞる手には確かな熱があり、あげはが背中に穿った八つの戒めも至極丁寧に扱う。
 性急な割にそういう所はきちんとしていて、猟犬ではあっても決して野生の獣にはならないところが咲黒の美徳であったし、あげはもそれを愛していた。
 相手の腰を引き寄せ自分のそれを押し付け合いながら別の生物のように動き回る舌を互いに追いかける。
 もう充分と言った感じに突然雨は止み、ぬるいシャワーで微妙に体の冷えた男が二人バスルームに立っているだけとなった。
 栓を先程とは逆の向きへと捻った咲黒の手はすぐに持ち上がりあげはの薄い肩甲骨を控えめにさする。
 濡れそぼった金髪からぽたぽたと水滴が落ち、タイルに水たまりを作っては決壊して諦めたように排水溝へ走り去っていく一連の流れを見つめてから、咲黒は空いた方の手であげはの丸い額を撫で上げ前髪を後ろ向きに追いやった。
 眼鏡を外し前髪を全て掻き上げるとそこには目を疑うほど美しい癖に明白に毒をたたえて微笑む、作り物と見紛うような色白の男が現れる。
 咲黒は息を呑んで、十数年生死まで共にして来た相手の直視し難い美貌を目を細めながら見つめ、それから素直に「欲情した」と述べた。
 平素無感情に吐かれる言葉達とは違い明らかに色めいた声と息遣いとにあげはは「俺もだ」と返して大儀そうにネクタイを解きシャツを脱ぐ。
 べしゃり、と哀しい音でタイルに打ち捨てられたそれらは、多分二度と袖を通す事もないだろう。
 よく鍛えた腕はあげはを容易く抱え上げて寝室へと連れて行く。
 迷わず咲黒は自分の寝室に横たわる一人分にしては大きなベッドに上司を放ると、水浸しのフェラガモもトラウザーズも申し分程度の靴下も引き剥がすように脱がして、足の甲に口付けを落とした。
 そのまま唇は膝までをやや急ぎ足で辿って行き、仰向けに横たわるあげはの薄い腹へ急降下する。
 咲黒の鼻先が臍の上辺りをくすぐるのに身を捩り、薄く日に焼けた体が間接照明を遮って自分を見下ろして来るのを、あげはは両手で自身の髪を掻きあげ直しながら眺めた。
 白く細い女のようなその腕を伸ばして、咲黒の肩を引き寄せる。
 あげはの、金属と皮膚との比率が狂い始めているピアスだらけの耳に咲黒が噛み付き、じゅる、と唾液の音を立てて吸い上げた。
 金属と幾らかの樹脂ポストとを節操なくぶら下げておきながら耳が滅法弱い彼は「あ、」と喜色の滲む声をあげて腰をくねらせる。
 身を寄せるほど下肢の熱が如実に伝わってきてひどく興奮する。何より目の前の男の余裕の無い顔が一等破壊力の高い興奮材料だった。
 愛しいだとかそういう気持ちは一切無い。二人は恋人ではないのだ。溜まった分を発散するだけ。それでも二人は、恐らくお互いに誰より近い場所に存在していた。
 咲黒の大腿の裏側を真白い爪先で撫で上げながら、無骨な胸と腹とを這って降りていった両手がベルトを外す。
 地味すぎないかと散々あげはが言った黒の革ベルトは一応会社勤めである身分からすれば妥当な代物だが、派手好きで名を馳せるあげははお気に召さないと言った顔で、鈍く光るシルバーのバックルを掴んで引き抜いた。
 あげはの衣服はほとんど脱がせておいたくせに、咲黒当人はトラウザーズを纏ったままなのが気に食わない。
 ボタン、ジッパー。手順通り外して縁に指をかければトラウザーズは利口な顔でするりと膝まで下りていった。
 咲黒の秀でた鼻筋があげはの肩口に寄せられ、無骨な腕はミケランジェロの傑作にも似た白磁の肩甲骨を閉じ込めるようにして抱き寄せる。
 片手を二人の体の隙間に窮屈そうに滑り込ませると、さっきのスーツとは不釣り合いに安い手触りの下着越し、下肢を撫で上げた。

「手つきが変態じみてる」
「お前の教育の賜物だな?」

 そんな教育はした覚えねぇよ。歯列の隙間から零すように笑って、あげはは最後に残った一枚を自ら脱ぐ。
 下着から抜く為に上げた脚、膝の裏を掬い咲黒は今から潜り込むその中へ、雑に唾をひっかけただけの指を挿れた。
 いってぇ、と抗議の声があがるのもお構い無し。
 人様に見られたら叱られそうなレベルの適当極まりない指さばきで中を荒すと、体型からおよそ想像のつく程度のそれをさっさと下着から取り出して突き入れた。
 っあ!という衝撃に対してのごく正常な反応のあと、あげはは「殺す気か!」とクリアトーンの声を荒げる。
 不死身が何を言うんだと言わんばかりに咲黒は柳眉の右だけを器用に撥ね上げて主を一瞥した。
 この美貌ばかりが眩い青年の中に入るまでに費やす時間が本当は一秒でも惜しく、すぐにでも小憎たらしい飼い主を滅茶苦茶にしてみたかっただけ。
 嫌みなほど美しく笑う口元を。誰もが見蕩れずにはいられない一流の美貌を。押さえつけ、丸裸にして、身も世も無く啼かせて、台無しにする。
 咲黒の目的は今日一日の始まりから今に至るまでずっとそれだけだ。――あげはが気付く前から。

「そう怒るなよ、死んでないだろ」

 目的の達成には近付いたが、まだ道程は残っている。とりあえず色気の消え去った空気を元に戻すべく覆いかぶさって動き始めた。
 文句を言っていたのと同じ口がああ、と甘ったるい声を上げるようになるとますます咲黒の気持ちは昂って、額を擦り合わせる距離で奥まで押し入る。
 最後まで滞り無く行こうと思うと互いに協力が必要になった。彼らがそれを怠った事はない。
 粘膜をうねらせて抜かれようとする異物を引き止め、異物の方はそれに抗い、入り込もうとすれば内壁はまた抗い、異物は無理を押し通した。
 高級なベッドは下品な音で軋まないと言う事をきちんと実証してくれた咲黒の部屋のキングサイズは、二人分の体重を黙って支え、二人の動きに従って揺れる。
 あげはのだらしない声と咲黒の荒い呼吸とダークグレーのシーツに皺が波打つ音以外は何も無い。
 骨が押し上げる小さな肩に、汗の粒が浮く首筋に、はっきりと隆起した鎖骨に幾つも噛み付き赤い点線の楕円を引いて行く。
 咲黒の頑健で行儀良く並んだ歯列が石膏に良く似た色の肌を囲い分け、それが作り物ではない柔らかさと通う生き血を誰にでもなく証明した。

「っあ、あ、はぁ、うぅっ…っひ、あぁあ、ああ」

 何度か擦るとあげはは咲黒の肩甲骨を抱き寄せて震える。
 一声高く啼きチカチカと点滅する視界を味わうと、吐息も多分に混ぜ合わされた余韻を紡ぎ、僅かに浮いていた薄い上体を寝具に叩き付けた。
 細腕が咲黒の背中から滑り落ちる。夢の中を泳ぐようにふやけた薄茶色の双眸は半分ほど下ろされた瞼の下に佇んでいた。
 動きを失速させながらも、咲黒がそれを止める様子は無い。
 緩やかになった揺さぶりに乱れた呼吸を整えながら「まだイかねーのか」と残酷な暴言を投げる。

「そんな口をきく元気があるんだな」
「いや待て待て、元気ではないです死んでしまいます」

 ぐっ、と腰を掴む手に力が入った事に気付いてあげはは青ざめた。以前にもこういう事があったが、あの時は本当に死ぬかと思ったのだ。
 痛めつけられるのは慣れっこだし、複数人の相手も経験はある。体力に自信もあるが、こういう状態の咲黒は他のとは別枠だ。
 馬力も耐久力も桁外れの第一秘書に良いようにされても翌日知らん顔で出勤出来るほどではない。
 引け腰な上司に顔を顰めると、咲黒は態とらしい溜め息をついた。

「全部発散させてくれないと明日からの仕事に影響が出るぞ、俺の」
「…………小一時間ぐらいで終わるかね」
「努力するよ、サー。」

 冗談めかして言い、更に珍しいことに普段の無表情からは想像出来ないほど男臭く笑うと、咲黒はあげはの額に口付けを一つ落とす。
 夜はまだ長くかかりそうだと、二人とも予感していた。





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