長い時間をかけ、ようやくアルタエル海峡の手前に辿り着く。巨大な門を構えているのが東方貿易会社だ。
ジェーモン帝国がその建設に力を貸したという門は海峡の最も狭い所に位置し、キング大陸から南のフェート大陸までのおよそ15カルマーほどを繋ぐようにして建っていた。
西の海から入る船と翠海から出る船があるため、鉢合わせにならないよう数多くの水門が備え付けられている。
大陸側の岸にはユーグランド東方貿易会社のフリゲート艦が停泊しており、騒ぎが起これば門を挟んだ海峡のどちらに向けてもすぐ出動出来るようになっていた。
そして門の概ね中央に位置するのが、兵士たちの駐屯している拠点だ。いくらかの命知らずな海賊は拠点を落とす為に攻め込んだが、門上からの砲撃と迫る艦隊に勝利出来たものは誰一人居なかったと言う。
限界まで引き延ばした望遠鏡でジェーモン式の厳つい建造物を眺めていたヴァルツァは、用途の済んだそれを縮めて仕舞いながら、秀麗な鼻先に皺を寄せた。
「自己主張が過ぎるよな、あんな物々しくちゃ浪漫がないっていうか」
船首のハンドレールに腰掛けていたロベルトはその言い様に笑いながら「いや浪漫って何だよ」と返す。男なら解れよと無茶な事を言いながら少年は船長の金髪後頭部を軽く叩いた。
金糸の髪は緩い風に揺れて穏やかなリズムで波打つが、彼の纏う空気とはまたかけ離れている。
日本刀(五十嵐と言う名がついているらしい)を腰に携えたリッヒテも唇を堅く結んで門をじっと睨んでいた。
黒い鞘に納まったそれはごく緩いカーヴを描いており、それを初めて目にした時はロベルトもレイチェルも感嘆の声をあげたものだ。
西洋、それも狭い島国育ちの彼らには物珍しかったらしく、深い藍の紐を巻いた艶やかな鞘と鈍く銀色に光る刀身に興奮気味だった二人をヴァルツァは何となく思い出す。
リッヒテは五十嵐以外にも幾振りかの日本刀を所持しているが、似たようなそれらをヴァルツァはいまいち見分けられない。
艶消しの黒い鞘に、これも漆黒の紐で鞘と鍔とを堅く結んだ相当な年季の一振りだけは、絶対に触るな、抜くな、とだけ言われては居るが。
「あ、そうだ」
武器について色々考えていた所で、大事な事を思い出す。我らが船長様は、まだちゃんとした獲物を持っていないのだ。
脇に立て掛けていたロングソードを拾い上げると、ロベルトの方へと放る。
うわ、と驚嘆の声を上げながらもしっかりキャッチされたのを見て、ヴァルツァはいつものように口端を吊り上げた。
「船長就任祝いその2だ、大事に使えよ」
「お前が既に大事にしてねえんだけど」
「僕は良いんだよ、僕のじゃないんだから」
なんだよそれ、とぶつくさ言いながら二つの房が下がる柄を握って剣を抜く。
銀色に輝く美しい刃の刀身は半ばまで同じ幅をしており、中心は柄から切っ先までまっすぐ射抜いていた。
「名はグランディオン、まぁとある場所から頂戴したものだ。
正規の値段は知らないけど、出来映えは非常に良い。まさに船長が持つのに相応しい一本ってとこだね」
「…とある場所って……」
「伏せずに言うならば、お前んちに下見に行った際ちょっとな」
「……やっぱり…」
見覚えがあると思ったら案の定だ。街の鍛冶屋に父が作らせていたのを知っている。当人は隠していたつもりらしいが。
大方18になった祝いとか何とか、そういった類の贈り物だったのだろう。父親のはそれより少し前に新調したのも知っている。
何も言わずに家を出ては来たが、祝いの品は奇しくも自分の手中へと収まった訳だ。
口笛を吹きながら船長室へ降りていったヴァルツァは、恐らくそんなことなど知らないだろう。
何とも言えない複雑な気持ちになりながら、ロベルトは剣を鞘の中へと戻した。
あれから。
リッヒテの良心的な提案を却下したヴァルツァは前髪を鬱陶しそうに掻き上げ、お決まりの大袈裟な溜め息をついた。
それからついでのような感じでリッヒテの方にもう一本ナイフを放る。
憂さ晴らしと解っているリッヒテは、避けはしないものの眉を顰めてヴァルツァを見た。
強い眼光を放つ二人の瞳、にわかに視線がぶつかり合う。押し合いのような目配せ、先にヴァルツァが唇を歪めた。
再びソファに体を沈めショートブーツの足を机へと不遜に投げ出す。
孔雀色の瞳は挑発的にリッヒテを見据えた。
「リッヒテ、髑髏の旗を連中がタダで通すと思うかい」
「…無論、戦闘は避けて通れないと思っているよ」
「その通り。別にドンパチして力づくで通るのも悪くない、寧ろ実に海賊的だ。
でも乗組員の数はたったの4人。それに現状、船長も副船長も卵から孵ったばっかりの雛に等しい。
その後セザン運河でまた戦う必要があるだろう。それに食料が尽きて陸に上がったら、どこでだって僕らは”歓迎”される。
最初から全力で戦うのは、分が悪いと思わない?」
やけに優しい、諭すような口調でヴァルツァが言う。
それと何の関係があるんだ、とロベルトがぶっきらぼうに言えば、ヴァルツァは馬鹿にした顔で肩をすくめてみせた。
レイチェルはと言うと話が読めないようで、眉根に皺を寄せて二人を交互に見つめていた。
早くもヴァルツァの言いたい事を理解したらしいリッヒテがなるほどね、と呟く。その表情は明るくない。
ヴァルツァはポーラの方へと向き直る。
「Ms.ブラッカイマー、あんたの大好きなパパは死んでしまった。もしかしたら半ばで放り出された研究とかがあったかもね。
何にしろ貿易会社の連中がアンタを欲しがらないと、思うかい?たった一人の娘だ、勿論欲しいはずだよな。
つまりアンタが今この船にいる事はこの上なく幸運な状況と言う訳、理由は解るかな」
「…通行料代わりだなんて、随分安く見られたものね」
「ご名答。でもまぁ、正直引き渡す気なんか無いんだよ。連中が欲しがっているアンタを目の前でかっ攫う。
向こうは地団駄、僕は暫く優越感に浸れる訳だ。最高だろ」
満足そうに笑うヴァルツァにリッヒテはやっぱりか、と側頭部に手を遣った。
性格がねじ曲がったまままっすぐ育ったような彼の事だ、素直に取引なんてしないだろうとは思っていたが、案の定である。
俄に頭痛と目眩を感じていると、その裾をくいくいとレイチェルが引いた。
話がさっぱり解っていない栗色の瞳は、説明を催促していた。
「えー、と。つまり、ヴァルツァは彼女をダシに貿易会社を脅し、犠牲を払わずに海峡を突破する気なんだ。
表面上は取引を装うけれど、彼女は渡さないってこと。それもヴァルツァの自己満足の為にね」
「じゃあポーラさんは、まだ暫くこの船に…?」
「そう、安全に下ろしてあげられるのは随分先になってしまうだろうし、取引の際に危険な目に遭わせてしまう可能性は高い」
最後の一言に、双眸が見開かれる。そしてすぐさまヴァルツァを睨みつけた。
悪事の提案者である少年は一瞬リッヒテに「余計な事言いやがって」と言いたげな一睨みをよこしたが、後は涼しい顔をしてどこ吹く風だ。
レイチェルは小さな拳で机を殴りつける。
「最低!危ない事に巻き込まなくたって良いじゃない!ていうか何様のつもり!?」
「海賊様でーす副船長殿。そんでもってこれが僕らのやり方なの、良いだろロベルト」
話を振られたロベルトは、数度瞬いて目を細めた。なだらかな鼻梁の頭に、少しだけ寄る皺。
静かな碧い目が、目を細めて嗤うヴァルツァと怒りをあらわにして睨んで来るレイチェルとを見る。
それから首を傾けて長く嘆息すると、頷いた。
「まぁ、いいんじゃねえの」
「なっ…Mr.ハワード!?」
レイチェルは信じられないと言う顔で金切り声を上げる。
重ねて何か言おうとする彼女を遮って、ヴァルツァが指示を下した。
「海峡へは一週間もしない内に辿り着く。
ロベルトはリッヒテに実戦用の戦い方を教えて貰え、付け焼き刃でも出来ないよりマシだ。
レイチェルはまだ戦闘要員として参加はさせないから、飯でも作ってくれればいいよ。あとMs.ブラッカイマーの監視。
リッヒテは時間ある時に作戦立てとけ。僕は体力温存の為に寝るから。以上、解散、オヤスミ」
反論を挟ませる隙間もなく言い散らかし、ヴァルツァはソファに寝転んだ。二人がけのそれは小柄な彼にちょうど良いらしい。
片方の肘掛けを枕代わりに、もう片方の上でショートブーツを脱いだ足を組むと、すぐに規則的な寝息が聞こえて来た。
寝付きの良さに感心するロベルトとは逆に、レイチェルの拳は怒りで震えている。リッヒテが苦笑しながらその肩を叩いた。
「じゃあリッヒテ、ご指導よろしく」
「喜んで船長。といっても、家でいくらか稽古はしてるだろ?」
「型だけと変わんねーよあんなの。居酒屋で身に付けた喧嘩のやり方のがずっと実戦向けだ」
「ははは、坊っちゃんだって聞いてたけど結構な不良だな」
「おうち大好きな坊っちゃんだったら家出なんかしてこねえよ…あ、そうだレイチェル」
突然話題を振られたレイチェルはえっ、なに、と慌てて返す。
「お前まじで飯とか作れんの?」
「なっ…作れるわよ!!馬鹿にしないで!!」
興味なさそうにあっそー、とだけ言って去ったロベルトの後を、何故かリッヒテが謝りながら去る。
失礼にも程がある。溜まりに溜まった怒りをぶつけるように、レイチェルは壁を殴りつけた。じんじん痛む拳が哀しかった。
そんな経緯があって、話は冒頭へと戻るのだが。
「いやー、それにしても」とリッヒテが緊張の走り始めた空気にひびを入れるような気の抜けた声を出す。
「どうやって突破したものかな」
「エッまだ考えてなかった訳!?」
「いやぁ、だって初めて来たしなぁここ。偉そうな事言ってたけどヴァルツァもそうだと思うよ」
何だそれ。ロベルトは絶句した。ヴァルツァに常識が通用しないことはわかっていた。無茶をする奴だと言うことも。
しかし彼の一見考え無しな行動は全て計算ずくのことだと思っていたのだ。
あの意味深な笑みを浮かべる計算高そうな少年がここまで無謀である筈がない。少なくともそう思いたかった。
更に言葉を失うのは、この常識的で場数も踏んでいるであろう歴戦の相棒が、大人しくそれに振り回されている事だ。
先程まで不安に思っていたのは、自分が今日まで培って来た戦闘力で応戦出来るかどうかだけだ。
今になって不安要素が倍以上に増幅するなんて。
「突破出来て当然」というような彼らの口ぶりでは、内部構造にも幾らか通じているのだと思っていた。
とはいえ二人は海賊なのだし、中に入れる訳はないのだからこの場合落ち度があるのは自分の方か?と自問したところで答えが出る訳ではないのだが。
それを救うかのように、リッヒテは苦笑しながら言葉を続けた。
「ま、作戦といっても突入するタイミングとか交渉のざっくりした方法とか考えるだけだよ。いつもそうだった」
「アバウト極め過ぎじゃねえの…ジェーモン人は厳格、真面目、胃痛持ちって嘘なのか?」
「例外はどこにだっているさ。君だってユーグランド人の割には頭に来るような皮肉を言って来ないしね」
「いや、俺は」
本当はユーグランド人じゃないんだ、という言葉は喉の奥に沈んでいった。
正直出自を偽られた事については事実だと確認はしたが、まだ気持ちが上手く消化出来ていないのだ。
ハワード家への未練を綺麗さっぱり断ち切って出て来たかと言えば、時が経つにつれ胸が締め付けられていっている。
本当の自分の家族がどんな人達なのか、その不安も拭えていない。
そんな状態でこの事実を他人に話す事は憚られた。せめて自分の気持ちが落ち着いてから。
黙ってしまったロベルトにリッヒテは少し不思議そうな顔をしていたが、人の顔色をよく読めるこの航海士は決して深追いしなかった。
「ま、大丈夫だよ」年若い船長の肩に手を置いてにっこりと笑う。
きっちり結わえられた髪を風に遊ばせる彼の笑顔は穏やかな色で以てロベルトの心配を溶かしていった。
リッヒテがそう言うなら大丈夫な気がする。根拠は無いが、何故かそう思える笑顔だ。
彼の優しい所や穏やかな所を見る度にロベルトは「この人は本当に海賊なのか」と思って来た。
しかしそれは単なる表の顔であって、本当はこの男の中にも立派に海賊の血が滾っていると先日身を以て知らされたロベルトは、以前のようにリッヒテ・ヴィルヘルムを”善人”とは、とてもじゃないが見る事が出来なくなっている。
獲物を狙う猛禽類と同じ色の、身震いするほど深く毒をたたえたあの隻眼。
深く秘められているが故に、明るい場所では気がつかない。時が来れば毒は弾けて、彼は本当の海賊の顔を見せるのだろう。
既にその片鱗は立ち上っている。隻眼を腥い衝動に濁らせて、リッヒテは両の口の端を吊り上げた。
「俺とヴァルツァに勝てる奴なんて、何処にも居やしないさ」
曇天の空は、更に色濃く低く唸る。
希望は無かった。未来も無かった。世界は闇色に沈んでいくだけのもの。
祈りに組んだ両手は踏みにじられて血が滲む。目の前には息絶えた明日が、浅い呼吸さえ取り戻せずに転がっている。
恐らくワタシは今日と言う日が終わると同時にあの中へ飛び込んで行くのだろう。ただそれの繰り返し。
寒い寒い吹雪の夜、追われるように国から逃げ出したワタシに差し伸べられたその手は、吹雪よりも冷たかった。
こんなことなら亡命などせずに、祖国で北風にゆっくりと息絶えた方がどんなに楽だったろうと今では思われる。
しかしあの時はそうは思わなかった。振り返らず走る事だけに精一杯で、疲れてしまって、だからワタシは手を取ってしまった。
雪国の人間らしい白い手を容赦なく鞭打たれる。お屋敷に来て、まずワタシが最初に言われた言葉。
「お前のやる事は至極簡単さ。さぁ、働け、働け、働け!!」
共に逃げて来た家族はみな殺された。親と祖父母は高齢だから、兄は大病を患っていたから、妹は幼すぎたから。
役立たずのレッテルを貼られた家族の末路を、ワタシは知っている。奥深い地下牢で朽ちるようにひっそりと死を迎えた。
唯一マシだったワタシは家族と一緒に逝く事を許されず、生き残って奴隷となった。
塗れ雑巾にあかぎれる手、割れては生えて歪な爪、埃だらけの擦り剥けた膝に、煤を被って汚れた衣服。
撓る鞭に叩かれ、飽食の肥えた手に殴られ、神経質に磨かれたヒールに踏みつけられ、冷たい嘲笑に涙も涸れてしまった。
もう笑う事を忘れてどのくらい経つだろう。表情筋は無表情のまま硬直している。鏡など久しく見ていない。
鏡のあるような上等な部屋に住んでいる訳でもないし、ぼんやり眺めていればすぐさま誰かがワタシを殴るだろう。
何よりワタシ自身が、怖くて目を逸らしてしまうから。
「ぐずぐずするんじゃないよ!まだ仕事は残っているだろう!?さっさとしな!!」
ワタシは今、一体なんなのだろう。
名前を呼ばれることもなく、ただ奴隷としてひとり働き続けるだけの存在。
「――さて、作戦開始まであと30分だから腹括れよ」
「ちょっと待て、肝心の作戦とやらを聞いてない」
「…だそうだリッヒテ。説明を頼む」
時間がないにも関わらず緊張感皆無のヴァルツァがそう振る。本当に海峡突破する気があるのだろうかとロベルトは訝った。
甲板に集った4人の間に流れる空気は微妙だ。レイチェルとロベルトは落ち着かないが、ヴァルツァもリッヒテもそんな様子は微塵も無い。
場数を踏めばこうなるものかしら、とレイチェルは緩んだ二人の空気に余計落ち着かなくなる。
指名されたリッヒテははいはい、と返事をして切り出した。
「まず大砲が届くギリギリの距離まで近付いて何発か食らわせる。水門じゃなく要塞の方にね」
「門に穴あけた方があとで通りやすくならないか?」
「中途半端に壊すと逆に通れなくなる可能性がある。門の開閉をする場所が中央拠点下部にあるだろうから、そこは避けて撃つよ。
もっと言うと大陸側の岸の方を撃って、艦が出るのを食い止められたらベスト。駄目だったらまぁ、なんとかしよう。
攻撃を受けて艦も出撃不能になった場合、恐らく拠点前の浮き島になっている広場に兵士達が出て来るだろう。
そしたらそこに俺達で乗り込んで、暴れる。多少数を減らせばもっと偉い奴が出て来る筈だ、そしたら交渉に入れば良い。
その後はヴァルツァに任せる」
俺は控えめな性格だから交渉は不得手でね。
そう茶化したリッヒテは最後に「聞きたい事はあるかい?」と、新入り二人の方を改めて見た。
ロベルトとレイチェルは顔を見合わせ、まずロベルトが「じゃあ」と口を開く。
「中央拠点下部っていうのは確実なのか?」
「あの拠点も水門もジェーモン式の建築だ。構造についてはそこそこ勉強してるし、見れば大体どこに何があるかわかるよ」
「そ。じゃあもう一つ。突破はどの水門から?」
「拠点の左脇かな、レイチェルは今回戦闘に参加しないで、船の番とポーラの見張りをしていて欲しい。
一人でも操作出来るように俺達で準備しておいたから、拠点左脇まで船を進めてくれ。操舵については前に教えた通りだ、いいね?」
「……はい…」
浮かない表情ながらも頷いたレイチェルに、リッヒテは「よし」と破顔する。
とはいえまだ心配なのかいくつか留意点をあげ始めるのを見て、ヴァルツァはロベルトを振り返った。
「ああいうの、ゆくゆくはお前の仕事になっていくからな」
「突然プレッシャーかけてくるなよ…わかってる」
日に透ける金髪頭を掻きながらロベルト。本当に大雑把ではあったが、初心者の自分たちに優しい的確な指示だと思う。
あんな風に指示を下す日が自分に来るなんて、想像がつかない。
心配性のお説教が終わったらしいリッヒテがこちらにやって来る。ヴァルツァが懐中時計を開くと、そろそろといった頃合いだった。
撃ちに行こうか、とおよそ戦闘態勢とは思えない軽い調子で甲板中央部の梯子を下りていくリッヒテに、若干青ざめたロベルトが続く。
ハンドレールに凭れて其処を離れたくなさそうなレイチェルと、ヴァルツァの二人だけが甲板に残された。
納得できないまま下唇を噛んでいる彼女の、まだ幼さが残る頬を冷たい指先が滑る。
目を丸くしたレイチェルが顔を上げた。え、と驚いて口を開いたので、下唇に食い込んでいた歯が離れる。
薄く噛み痕が残るそこを、黒い爪の先端がつついた。何なの、と身を引きながら問いかける。
するとヴァルツァは短い白眉を八の字に垂らして、困ったように笑ってみせた。
初めてだ。
レイチェルは思う。初めて彼の、こんな表情を見た。それも、こんなにも間近で。
「あんま噛むと、切れるよ」
唇の事を言ったのだろうが、表情から読み取れるのはそれだけではないように思えた。
大体ね、とレイチェルは口を開く。暫く黙っていたせいか、少し声が掠れた。
「誰のせいでこんな」
「お前のせいだよ」
間髪入れず返すヴァルツァの顔からもうさっきの表情は消えていて、至極深刻な青緑の目がこちらを見ていた。
「僕らは海賊だ。僕だけじゃない、お前も海賊なんだ。傷つける事、奪う事、殺す事。そういうのが当たり前なんだよ。
出来ないのなら今すぐ帰れ、この海に飛び込んで海峡まで泳げば誰か引き上げてくれるだろ。
この間、お前の口から覚悟は聞いた、約束した以上は”やる”と。でも僕はまだそれを信じてないからな」
これから証明してみせろ。厳しい声でそう言いながら、ヴァルツァはレイチェルの髪に触れる。
言葉は何処までも鋭く突き刺さるのにその手だけは酷く柔らかく、冷たい手に一瞬だけ温度を感じた。
「だァいじょうぶ、彼女の事は悪いようにしないさ。基本淑女には優しい一番槍様だからな」
「貴方って本当にとんでもないわね……もう、いいわよ」
この少年の言う通りだ。どういった理由であれ、自分でここまで来たのだから。
それに、冗談のようなヴァルツァの言葉を信用して良い気がした。
単純と言われるかもしれないが、それだけでも胸のつかえが幾らか取れたのは事実だ。
ふ、と短く息を吐いて、レイチェルはヴァルツァの華奢な背中を叩いた。
「偉そうな事言ってさっさと死んじゃったら承知しないわよ――――頼んだからね、一番槍さん」
「勿論だとも、お任せを」
大仰に一礼してみせると、じゃあ僕もいってこよー、とヴァルツァは階下に降りていく。
幾分か落ち着きを取り戻したレイチェルはポーラのもとへと向かおうとした。その時。
轟音が天を突き、船体が大きく右へと揺れた。ハンドレールから離れていたレイチェルは掴む物も無く後ろに転倒する。
そして鈍い音と共に甲板に頭を打ち付ける羽目となった。強かに打ち付けた後頭部を涙目で擦りながら上体を起こす。
目の前で星が乱舞している。ちかちかするそれを振り払って海峡の水門に目をやると。
アルタエル海峡にそびえ立つ巨大な要塞の一部が音を立てて崩れ落ちていく様が目に映った。
堅牢に作られたであろうそれが崩落するさまは凄まじく、瓦礫が海に落ちるたび水飛沫が大きく上がる。
狙い通りの場所に撃つ事が出来たらしい、停泊していたフリゲートが崩落する塊を浴びてひしゃげていくのが見えた。
暫くその絶景を眺めていたが、ふと我に返り立ち上がった。ポーラの元に行かなくてはならない。
甲板を駆け抜けて船長室へ。古い木の扉を開きポーラに駆け寄ると、まず拘束を解いてやった。時間になるまで必要ない。
現れた少女に、ポーラは目許を和ませた。
「よかった、貴方が来てくれたのね」
「ええ、交渉までは傍に居られるわ」
安心させるように笑いかけて、隣に腰を下ろす。何だか妙な気分だった。それはきっとポーラも同じだ。
ふと船体が左に曲がるのを感じる。ヴァルツァが舵を取ったのだろう。レイチェルのやることは最小限に抑えると言っていた。
あまり色々任せるのは不安だと言われているようで少し不服だが、実際自分に出来る事はまだまだ少ない。彼らに任せた方が懸命だ。
しばらくは沈黙が続いたが、ポーラが再び口を開いたことでそれも破られる。
「始まったのね、戦いが」
静かに、それでいてはっきりとした声。丸眼鏡の奥で彼女のアッシュの瞳は何を考えているのだろう。
「…そう、ですね…あっでも大丈夫ですよ!ヴァルツァが、ポーラさんのこと悪いようにはしないって…」
「信じるの?」
こちらを見た双眸は猜疑心をたたえていた。畳み掛けるようにポーラは「彼の言う事、信用出来ると思う?」と問いかけて来る。
言葉につかえながらも「大丈夫です」と頷く。酷く胸が苦しい。そう、と呟いた学者の娘は目を伏せた。
「わたしは彼の事、あてにしてないわ。それに彼の策はきっと失敗する」
伏せた睫毛に翳る灰色の瞳は酷く静かで、呼吸をしていないもののようだ。
失敗する、と言う言葉の先を考えてみる。レイチェルは徐々に血の気が引いていくように感じた。
今頭の中に閃いた結果が、もし彼女の示すものと同じなら。嫌な予感を振り払いながら何故、と震える声でレイチェルは問うた。
「わたしの父は確かに、王室に入れなかった所を東方貿易会社に拾われたわ。
けれど貴方も知ってるでしょう?貿易会社の支部は三つ、それぞれが個々に別勢力だってことを。
父を拾ったのは祖国のユーグランドじゃなく、ファイランスの支部だった。この海峡に駐屯しているのはユーグランド支部よ。
この2国がどれだけ不仲か、世界中が知っているわ」
「……」
「きっとみんな捕まって吊るし首ね……わたしも、海賊に関わった罪で裁かれる」
とうとう涙をこぼし始めたポーラの隣で、レイチェルは鼻の奥がつんとするのを懸命に堪える。
私まで泣いてしまっては駄目だとまた唇を噛んだ。
成功する事ばかりが頭にあって、何故その逆は考えなかったのだろう。
頭の中が真っ白だ。泣いているポーラに気のきいた言葉はかけてあげられそうにないし、出来れば自分が欲しいくらいだった。
睫毛が震えて、ついに涙がこぼれかける。それと同時に船長室の扉が重く開き、外の光が二人を照らした。
「そいつは間違いだ、と断言してやるよ」
逆光に煌めく白貌が声高にそう告げる。
一層輝く白銀の髪を揺らしてつかつかと歩み寄るヴァルツァのショートブーツの音だけが響き、二人は顔を上げてその少年を見た。
「どうもお邪魔サマ。忘れ物があって戻って来たんだけど、縁起の悪いすすり泣きが聞こえて来たもんだから」
何故か楽しげに笑い、ヴァルツァは二人の座っている正面にしゃがみ込んだ。
膝の上に頬杖をつくと腕に嵌った銀環が光を弾く。レイチェルは眩しさに目を細めた。
「博識なご令嬢の仰る通り、ユーグランドのすかした連中とファイランスの色ボケ共は敵対してる。
しかしだ、だからこそユーグランドの連中はライバルが重宝していたブラッカイマーの一人娘を欲しがる筈なんだよ。
ムカつく相手のものっていうのは欲しいかどうかはさておき奪いたくなる、大切にされているものであればあるほどな」
少しは気楽になったかな?と言うとヴァルツァは片膝をついて身を乗り出し、ポーラの耳元に唇を寄せる。
それから二言三言囁いて、少年はすっと立ち上がった。
そしてソファにかけられたままのベストを羽織ると、ボタンを留めながら踵を返す。
「僕らは好き勝手やるから、あんたも大人しく出来ないなら好きにしたら良い。
結果には責任持てよ――じゃあレイチェル、留守番よろしく」
最後の一言を突然自分に振られたレイチェルが慌てている内に、血管の浮くような薄い手をひらりと振って少年は出て行ってしまう。
次いで閉じられた扉を、ポーラはただぼんやりと見つめていた。
「やぁお帰り、出撃準備は出来てるかい?」
「勿論。今すぐアッチに飛んでってもいいくらいだ」
「ロベルトは?」と問われた声に、近付きつつある浮き島の広場を見下ろすと、兵士達が既に拠点から出撃し始めていた。
胃の中の物がせり上がって来そうな気分だが、正直にそう白状する気にはなれなかった。
グランディオンを目線の高さまでかざし、緊張の解れきれない顔を隠すように笑う。
「自分の腕とこのお宝を貿易会社様相手に試せる良い機会だ」
意気込み頂きましたァ、と茶化すヴァルツァはロベルトの肩を肘でつつき、小声で「リッヒテに尻拭いさせんなよ船長」。
ロベルトが反論しようと口を開くが、リッヒテのごく和やかな「じゃ、出撃」という言葉に封じられてしまった。
ヴァルツァは気怠さの極みと言わんばかりの返事でもって了解の意を示し、ハンドレールに立て掛けた獲物を手に取る。
禍々しい白刃は三日月型に歪曲し、柄は持ち主の背丈を越える長さがあった。
巣をつつかれた蟻よろしくわらわらと湧いて出て来る兵卒達を孔雀色の瞳が見下ろす。
一瞥しただけでも結構な人数だ。しかし頭数を揃えただけの端役になど、とてもじゃないが負けてやれる気がしない。
紺と白の隊服がひしめくそこへ、少年はハンドレールを強く蹴って、迷いも何も無く飛び込んだ。
小柄で軽い体が兵卒たちを踏み台に着地、勢いよく横に薙いだ一撃でまずは辺りを一掃する。
花が咲くように飛び散る赤は、あっというまに散って消えた。生温いそれはヴァルツァの髪を、頬を濡らしていく。
たまらない心地良さに口端が吊り上がってしまうのは悪い癖だ。自覚はあるがやめられるものではない。
重心を低くして、向かって来る連中の足元を刃で掬う。酷い悲鳴があがるが、それに快楽を見出す質ではない。
二度の斬撃とはいえ、周囲が随分とすっきりした。同じ鉄を踏まないよう用心しているのが手に取るようにわかる。
スペースは十分だしそろそろ二人を呼んでも良いだろう、と船に向かって合図。
すると、合図に挙げた手を取られ後ろに捻り上げられる。まだいたのか、そして地味に痛い。
ミシミシ言う腕を掴む相手にありったけの憎悪を向ける。肩から切り落としてやる、と思ったが。
振り返ると相手は既に血飛沫を上げていて、鋭く光る名刀五十嵐は激しい赤に塗れていた。
おや、僕の出る幕じゃなかったな。瞬きをして視線を上げると、毒々しくぎらついた黄金の隻眼が在る。
やぁ、と笑いかけるとリッヒテは日頃見せる人の好い笑みとは程遠い、華々しくも悪辣な笑みを浮かべていて。
スイッチ入るの早くないか、と茶化し気味に思いつつもリッヒテの”それ”が楽しみでもあるヴァルツァは笑みを崩さなかった。
こちらの数が増えたことに慌てたのかばらばらと襲い掛かって来る連中を容赦なく斬り伏せながら、リッヒテはにっこりと笑みを見せる。
「先陣お疲れ様。あとは俺が代わろうか?」
「は、冗談。何なら残りも全部僕に寄越せよ」
軽口を叩き合いながらも攻撃の手は休めない。
右から来た兵卒の額を柄で殴るリッヒテにヴァルツァがいってぇ、とありもしない痛みを訴える。
そういえば相方のぎらつく隻眼で忘れていたが、今回は新入りも一緒に居たのだった。
見回してみるが近くにあの華やかな金髪と青いコートは見当たらない。
鎌を振り回しながら空いた手でちょいちょいとリッヒテの背中をつついた。
「ところで相棒、あのお坊ちゃんは野放しで大丈夫なのか?知らない間にオダブツしてたら笑えなくね」
「こんな所でくたばる奴に用は無い…と言いたい所だけど今回は如何せん準備時間が短かったし正直少し心配だ。行こうか」
ごく軽い口調でヴァルツァの問いに返したリッヒテは、今しがた刺し貫いた相手の胴を足蹴にして五十嵐を引き抜く。
刀を振って血を払うリッヒテにヴァルツァも頷き、二人は若き船長が着地した方へと駆け出した。
「くっ!!」
剣の腹で受け止めたら、相手の力を流しバランスを崩す。そこを叩くと効果的。
リッヒテの言葉を反芻しながら叩き付けられたカットラスが切っ先に流れるよう剣を傾ける。
言われた通り、一点に押し付けられていた相手の力が流れた。
バランスを崩した腹部に靴底を押し付けるようにして蹴り飛ばす。まとめて後ろの数人も倒れたので儲け物だ。
レイチェルは留守番に回して正解だったな、とロベルトは肩で息をしながら構え直す。
剣術の腕自体は多少あがったものの、手加減してくれるリッヒテと実戦の相手とでは間に流れる空気が全くの別物だ。
周囲を囲む兵卒たちから湧き上がる緊張感と殺気は水底のようにロベルトの息を詰まらせる。
この空気に飲まれれば最後、手足は鉛のように動かなくなるだろう。己を叱咤するものの、早くも疲労を感じているのも事実だ。
上がる息を整える努力だけしながら周囲を睨みつける。剣を振り上げ、急所を外して切りつける。
手を、足を、背中を。だが痛み程度で兵卒達は足を止めてくれない。
歯噛みし、脂汗を浮かべ、目を真っ赤にしてでも向かって来るのだ。
いくら切りつけても立ち上がって来る彼らに、自分はもしかして今酷く残酷な事をしているのではないかと混乱した。
ふと目眩を覚え足元がふらつく。神経がすり減っていってるのが自分でもわかる。
精神がやられかけてる今、体も随分と力を奪われてしまっていた。
「くそ、」
取り囲み、迫って来る敵を、確かにロベルトの蒼い双眸はとらえている。しかし体がそれに反応してくれない。
思考が止まってしまって、体に指示が出せない。体中の力が急速に抜けていくように感じた。
――もう駄目だ。
諦めの声が脳内に響いた次の瞬間、目の前を白い背中が覆った。
銀色の刃が閃き、血飛沫が曇天の下に散る様を死にかけの意識で見つめていると、ぐらついたその肩を誰かが力強く受け止める。
雲の隙間を縫って漏れて来る光を跳ね返す眩い白銀髪。秘色めいたピーコックアイが自分を映していた。
「どうした船長、生理か」
「貧血じゃない上にそのジョーク全然わらえねー」
「それは失礼した。ときに初実戦はどうですかね、やっぱちっとキツいか」
「まあ、ちょっとだけ、な。つかキリなくねえ?ドーンと吹き飛ばしちゃ駄目な訳」
二人が会話するその向こうで、リッヒテが快刀乱麻を断つが如く五十嵐を閃かせ猛進している。
やや遠目なため実直であろう彼の太刀筋を視認する事は出来ないが、方々で腕や足が飛んでいるから絶好調なのだろうということはわかった。
ヴァルツァはロベルトを担ぎ上げ――この細腕の一体何処からこんな力が出ているのかは皆目見当もつかないが――壁際まで軽々と運び、ここだけわざとらしく雑に下ろす。
文句を言う元気も無い船長は後で仕返ししてやろうとだけ誓って黙った。ヴァルツァの視線がリッヒテの方へと移る。
「お前は違っても、僕らは暴れたくて仕方ないの。それに単純な腕っ節で強さを見せつけた方がハクがつく。お疲れな少年には悪いけどここは僕らで片付けるから休んでな」
「お前が”少年”とか言うな。さっさと行け糞餓鬼」
吐き捨てるよう言うとヴァルツァは「おうよ」と返し、鎌を手に駆け出した。
元気だなあいつ、とロベルトが遠い目で見送る間に白銀髪を翻してリッヒテの背後をとろうとした男の喉笛を掻き切り、屈強な体躯をショートブーツで蹴り飛ばす。
やはりあの体の一体何処からあの怪力が生まれるのか、謎だ。
じりじりと詰め寄る周囲に押されたヴァルツァとリッヒテは互いに背中を任せる形になる。
次第に包囲は厚くなっていき、二人の姿がすっかり見えなくなってしまった。
あれは大丈夫なのか、と腰を浮かせるロベルトの心配など他所に、突如訪れたのは何故か沈黙。
小さなどよめきがざわざわと散る不純物混じりな静寂だ。益々展開が見えて来ず、ロベルトは少し苛立ちを覚える。
しかし次の瞬間、何の前触れも無く包囲網が一気に吹き飛んだ。
竜巻でも生じたかのように、一人残らず。
ロベルトは自分の目を疑った。
方々に吹き飛んだ兵士達は強かに地面へと叩き付けられていく。あの二人は一体何をしたのだろう。
いやに時間がゆっくり流れているように感じた。兵士達の悲鳴も何故だかやけに遠く聞こえる。
包囲網が崩れたその中心、リッヒテが膝をついて刀を構えている姿がようやく見えた。
隻眼の剣士は衝動の蹲る黄金の目を開くと、結い上げた黒髪を揺らして地面を蹴る。
恐ろしく小回りを利かせた彼は起き上がろうとする兵卒たちを次々に斬り捨てた。靴底が悲鳴を上げているのが聞こえて来そうだ。
最後の一人の息の根を止めた所で、囲まれた位置そのままの場所に座り込んでいたヴァルツァが気の無い拍手を送る。
「お見事、流石は”刀仙”だ」
「”二代目”な。お褒めに預かりどうも。さて、あと何人残ってるかな」
追加、と言わんばかりに踊り場に出て来た兵士達を、黒く塗り込めた爪がひーふーみー、と数える。
正直ロベルトが聞きたい事は山のようにあったが、質問を許される空気ではなかった。
数える事を早々に諦めたヴァルツァは首の後ろに手をやりゴキリと鳴らすと一つ息をつく。
孔雀色の瞳に宿る、鬱屈な光。
「突如襲い来るめんどくささってやつか…」
「そこは打ち勝って頂きたいな是非とも」
「何だっけ、”兵は神速を尊ぶ”だっけ。それでいこうか」
「明断だけど神速で遂行出来るかはちょっと微妙だね」
リッヒテがそう言って顎で示す先。先程出て来た兵卒たちは盾を手に手に防御壁を築いていた。
そしてその上からこちらに口を向けるマスケットの列。カットラスを構えた兵も居る。
ヴァルツァが短い白眉を器用に片方だけ撥ね上げる。一瞥は値踏みするような目線を呉れて、「っは、」と乾いた声を上げた。
「めんどくさいっての、撤回」
にそりと笑うヴァルツァは首を擡げた鎌を拙い防御壁へと向ける。目を細めた横顔は捕食者のそれだった。
ヴァルツァは飛び交う弾丸をものともせず、驚くべき速さで防壁への距離を詰めた。
ピンヒールが泣き声を上げるのも細足が軋むのも厭わずに直前で急ブレーキをかけ、振りかぶった大鎌を反動で前へ。
三日月刃の切っ先が木製の盾を牙のように食い破る。
遠心力に任せて振られた刃に、盾の残骸も貫かれた死骸も隊列から奪われていった。
並びに一つ穴が空いたのをリッヒテは勿論見逃さず、低く唸りを上げて切り込んでいく。
オフホワイトのムートンブーツが兵卒の群れを蹴破り、マスケットの銃身を掴み上げて奪い取る。
グリップの底で相手の顔を数度殴打し、へし曲がったそれが用済みになれば投げ捨てた。
固まっていた一同が混乱に散り散りになれば、あとは二人の独壇場だ。
流れるような動きで敵を圧倒していく二人を、ロベルトは息を呑んで見詰めていた。
足捌きも軽快に刀を操るリッヒテ。彼と背を分けるヴァルツァは風を纏うように軽い動きで相手を翻弄している。
遠目に座り込んだロベルトでさえ、彼らが放つ空気に鳥肌が立つ。
血にまみれて尚足を止めない二人は、確かに残虐な海賊だった。白い歯を剥き出しにして笑う彼らは、別世界の人間にさえ感じる。
リッヒテは袈裟懸けに斬り下ろした刃を返し他方の敵を斜め下から斬り上げる。更に一歩踏み出してもう一人、二人。
ヴァルツァも負けじと敵を薙ぎ伏せ、後方からの刃を躱すと顎を的確に踵で捉えて蹴り上げた。
二人の刃が幾度も交差する。幾つも刃がぶつかり合う音が響いて、残響だけが緩やかに尾を引く。
彼らの異常なまでの強さで以て場はあっという間に片付いた。長いようで短い大活躍を終えた二人は、各々の武器から血を払う。
夥しい数の兵が死屍累々と積み上がったその中心で、二人は長く息を吐いた。
「ああ、片付いた片付いた。数ばっかぞろぞろ湧いてきやがって」
「大いに同感だ。さァて、生きてる奴がいると良いんだけど」
きょろきょろと周囲を見回したヴァルツァは、すっかり腰を抜かしてしまった一人の男に目を留める。
孔雀色の瞳が細められ、少年はそちらにすいと足を向けた。
可哀想に彼は怯えて逃げようと縺れる足に力を入れたのだが足は一向に動かないし、そもそもこの白銀髪の少年がそれを許す筈は無く。
すぐさま懐からナイフを取り出し哀れな兵士に向かって投げつける。
ひ、と上がる情けない悲鳴。
小さな銀色の刃によって完全に退路を断たれた男は泣きそうな顔をしてこちらを見るものだから、少年は華奢な肩を竦めて
「いいこにしてりゃ殺さないよ」
噛み合わない歯を鳴らして怯えたままの兵卒は先程までの凄まじい戦闘を思い返したのか力無く首を振り尚も後ずさる。
往生際が悪いな、と喉まで出かけたが「往生際」なんて言ってしまったらますます冷静さを失いそうな目の前の男を見て言葉を呑む。
やや早足に目の前まで歩み寄って膝をつくと、一息。
それから少年は少し乱れた白銀髪を幾らか手で整え、もったいぶった意味深な笑みを浮かべた。
「ね、アンタらのお偉いさんに伝えてくれる?」