目の下を縁取る濃い隈は、最早年中無休のトレードマークになってしまった。
 冷たい階段、冷たい廊下、冷たいダイニング。
 真っ白を通り越して青白い裸足が、冷えたフローリングに透明な足跡すら残さずに進んでいく。
 吐き出せば景色を白く霞ませる吐息に、もうそんな季節かと目を細めた。
 テーブルには相変わらず誰も居ないし、何も無い。
 クロスがかけられたその上、数少ないカトラリーが箸立てに突き刺さっているだけだ。
 キッチン、蛇口を捻り、水をコップに。冷蔵庫を開けて、ゼリーを引っ張り出す。他の場所はあけてもよく分からないので放置。
 「イタダキマス」は、言わない。相手が居ない。

 

 

 のそのそと着替えて、鞄を大儀そうに背負う。今度は靴下を履いた足で階段を下りて、草臥れた靴を履く。
 いい加減に新しいのを買った方が良いのだろうが、あまり頓着しないのですぐにまぁいいか、という気になった。
 壊れたら新しいのを買えば良い。きっとほっといても、誰も気付きはしない。
 戸を開けて、寒々とした空気を吸い込みながら家を出た。
 読みかけの本を開き、続きを追いながら学校へ向かう。いつもの事だ、危ないと言われるが気に留めない。
 何もせずに学校まで向かうのは苦痛でしかない。せめて本でも読んで気を紛らわせた方が良いのだ。
 そうでなくとも、他の作者の本を追っている内に随分と新刊が出て取り残されてしまっている。
 時間が惜しい。でも読む楽しみは棄てたくない。そういう訳でこうして登校の時間まで読書に勤しんでいる。
 真剣に物語の世界に入り込んでいればあっという間に学校に着いた。
 読む手を止めないまま下足箱の前で内履きに履き替えて教室へ向かう。
 机につき、荷物を降ろしてそのまま読み進めていく。挨拶をする相手は居ない。気を使わなくていいのだから、快適だ。
 相変わらず集中していると、急に教室が騒がしくなった。朝練に出ていた運動部の連中が戻って来たらしい。
 ここでようやく吉田は読んでいた京極夏彦を静かに閉じた。

「きちさん、おはよ!」

 犬が尻尾を振っているのと同じ様なのが見える奴が居るという話を時々聞くが、目の前の幼馴染みがまさにそれだ。
 奥田健吾。吉田勘三郎の幼馴染み。
 犬なら尻尾が千切れんばかりに振られていることだろう。にこにこと上機嫌な笑顔を吉田は飽きるほど見てきた。そう、毎朝。
 学校屈指のスポーツ系イケメンと名高い彼がここまでなついているのは、吉田だけだ。
 もし吉田が女子だったのなら、他の女子から散々な嫌がらせに遭う事だろう。

「朝から騒々し、黙り」

 眉根に皺を寄せてぴしゃりと言えば、奥田は「ん、」とだけ返して教室を出て行った。
 吉田と奥田は違うクラスだ。それなのに毎朝、わざわざ窓際の自分の所まで声をかけに来る。
 晴れだろうと雨だろうと雪だろうと朝練が長引こうと早く終わろうと関係なく、絶対に。
 昔から彼に懐いてはいたが、徐々にその度合いが深刻化していると思う。
 とはいえ自分に害はないので、吉田としてはそんな事一向に構わなかった。
 チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。吉田は閉じた京極を再び開いた。


「今日は部活無いんか」
「おん、昨日さんざやって倒れた奴出たから今日は休み」
「ささせんは加減っちゅうもんを知らんな…」
 
 そういう訳で珍しく帰り道が一緒になる。とはいえ小学校の頃はいつもそうだったのだが。
 奥田は学内でも特に練習熱心な野球部のレギュラーだ。
 高校生になってから登下校で一緒になる事は極端に減り、自然と吉田の読書登下校は増えた。
 それでも部活が終わるとほぼ必ず吉田の家に尋ねて来るので、まあ毎日会っているのだが。
 鞄にしまった京極が重い。荷物にするとこんなに重いものなのかと、改めて実感する。

「きちさん、今日の夕飯どないする?うちくる?」
「あー……」

 久々に帰宅が重なったからどこかに行こうか、という言葉は、奥田の口からは絶対に出て来ない。
 吉田がインドア派な事は充分に知っている。吉田の自宅と奥田の自宅、そこだけが二人のテリトリーだった。
 それ以外の場所には、二人とも関心が無い。というより、吉田の関心が無いものには、奥田も関心を示さない。

「じゃあうち来て、おまえが作り」

 どうせ両親は日付が変わるまで帰って来る事は無い。スーパーで適当なものを買ってそれなりに何か作って食べれば良いだろう。
 奥田は了解、と笑って返すと、カーディガンとブレザーの奥に埋まった吉田の小さな手を握った。
 誰が許可した、と言おうとしたが、睨み上げたその先で照れた笑顔を浮かべるものだから馬鹿馬鹿しくなって黙る。
 体温が高い飼い犬の手は、寒さにはちょうど良かったので放っておくことにした。

「あっ」

 静寂に耳を傾けようとした所で、奥田が声を上げる。
 何や、と煩わしそうに言うと、奥田は吉田の靴を指差して「きちさんもうこれ靴あかんやん!」。
 まだ履けるわ、と呆れ顔で吉田は言うが、奥田は「あかんて、買いにいこ?な?」と、手を繋いでいるのを良い事にぐいぐいと引っ張って行く。
 商店街まで行けば学生用の靴が売っている店がある、大方向かっているのは其処だろう。
 吉田は大仰に溜め息をついて、そのまま引っ張られていった。
 

「ほい、きちさん」

 サイズも何も訊かずに、奥田は棚から迷わず25cmの黒いローファーを引っ張り出して会計し、ベンチに据わった吉田の所へ戻って来た。
 華奢な足元に奥田がしゃがみ込む。箱を開けると新品らしい、黒く艶のあるそれが薄紙に包まれて二つ横たわっていた。
 それに視線をやってから、奥田の涼しげな目が少しだけ異様な熱を孕んで吉田を見上げる。
 黙って右足をすっと差し出せば、奥田は草臥れた靴を脱がせて箱から出したローファーを恭しく履かせた。
 次いで左も同じように。制服が汚れる事なんて微塵も気にせず、吉田の足を自分の膝に置く。
 お前らな!人が見てたらどないすんねん!というツッコミをかましてくれる北里は残念ながらここには居ない。
 草臥れた方の靴を空っぽになった箱に入れ、買い物袋に入れると奥田は

「具合ええなら行こか」

 とにっこり笑って手を差し出した。
 吉田は黙ってそれを払いのけると立ち上がる。
 それから自分と同じ色の、しかし自分よりも随分と大きなローファーを履いた奥田の足を思い切り踏んだ。
 ギャッ、と短い悲鳴。

「ああ、悪ぅないな」

 口元を歪め、何も無かったかのように吉田はすたすたと歩き出した。 
 涙目の奥田が酷いわぁ、と笑いながらそのあとを着いて来る。吉田へのしぶとさは雑草やらゴキブリやらの比ではない。
 吉田もそれは分かっているので無視してスーパーへ足を向けた。


 帰宅してまずは荷物を部屋に放り込む。あとは頼むで、と読みかけの京極を再び開いて待つ事約一時間半。
 二人分というには結構な量が出来上がってしまった事を詫びられつつ食卓につく。
 確かにもう一人二人欲しいくらいの皿が机にあった。
 彩りに関しては文句無しだが、二人で平らげられる量ではない。ましてや小食の吉田の胃袋には絶対に収まらない。
 あまりの多さにお前なんでこんなに作った…という言葉すら喉の奥に帰って行ってしまう。
 いや、ほんと何でだよという気持ちで一杯ではあるのだが、追求するのが億劫だ。
 しかし聞いても居ないのにこの忠犬は口を開くものだから。

「買うた分全部使お思たら何か…ぎょうさん出来てしもたわ…」
「全部て…お前何の為の冷蔵庫か判っとるか?」
「やって……きちさん料理でけへんやん…」
「うっさい」

 全く以てその通りだが、指摘されるのは気に障る。まぁ最悪残りはラップをかけて冷蔵庫か、奥田に全部持たせよう。
 元より小食の自分にどれだけ食べられるかはわからないが、ひとまず目の前の焼き魚をつつこうとして、ふと手を止めた。
 箸を一度置くと、ぎこちなく両手をあわせる。言い慣れない言葉だが、礼儀だ。

「…い、ただきます」
「はは、ドウゾ」

 嬉しそうな奥田を横目に今度こそ魚をつつく。
 それから一言しょっぱ、と呟いた。


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