冷たい冷たい土の上。男、ローマン・ティモフィーヴィク・ゲルツェンは倒れ伏していた。
掠れた低い呻き声が幾度となく乾いた唇から漏れ、肩でする浅い呼吸が空を切る。
黒い長手袋をはめた一方の手は患部である腹部を押さえ、他方は長い指先で倒れ伏す地面の柔らかくも冷たい土に爪を立てていた。
限界だ、とローマンは思う。
みっともない、なんてざまだ。こんなにも自分は非力であっただろうか。
友と呼ぶべきあの神経質な青年が今のローマンのていたらくを見たら、どんな顔をするだろうか。何と言うだろうか。
考えて、いや、と即座に先程までの考えを否定する。かぶりを振る力も残っていなかったが、示す相手も居ないので不動のまま。
彼はきっと、溜息をつくだけだろう。
倒れ伏したローマンを見下ろして短く溜め息をつき、そのまま黙って自室へと引きずっていく。
そして何も言わずに淹れたての紅茶を出すのがあの青年である。
困った奴だ、くらいの小言は言うだろうが、嫌な顔も少しだけするだろうが、本当に嫌ならばとっくに見捨てられているに違いない。
互いに言葉にはしない何かが確かにそこにあって、その事にローマンはうっすらと口元を緩めた。
誰にもわからない、それこそあの青年にしかわからないようなごく僅かな変化だ。
身分は違えど彼が友人で、本当に良かった。
いつだって世話を焼いてもらって、対等な関係と呼べるかどうかは分からないが。
彼の事を考えていたらだんだん走馬燈のようになってきた。
いつも唐突にふらりと訪れる自分を、眉根に皺を寄せ悪態を吐きながらも招き入れてくれる青年。
できた奴だとローマンは思った。いつも思っていた。
よく今まで友として付き合ってくれたものだな、と。
出来れば最後にもう一度、温かい紅茶の香りと共に迎え入れて欲しかった。
霞む視界に自分の手が宙を掴むのが見えてローマンは静かに意識を、
「って人の職場の前で行き倒れるなああああああ!!」
聞き覚えのある怒声と共に、ローマンの倒れ伏した体が引っ張りあげられる。
ついでに消え入りそうだった意識もふっと戻って来た。怒声に目が覚めたようだ。
勢い良く襟首を掴まれたので一瞬息が止まったが、片腕を肩に回す状態にされ、すぐに呼吸は帰って来た。
視線を彷徨わせれば見覚えのある制服のタイが揺れていた。一片の汚れもない白さは、彼の神経質を示すようだ。
良く知った紅茶の香り、安堵を込めて顔を上げる。
重く長い前髪の隙間から、今まさに脳裏をよぎっていた青年、フランクの顔が間近に見えた。
「フラ、ンク…か…?」
「俺以外に怪しさ全開のお前を拾う輩がいると思うのか」
そう言ってフランクは、力無く項垂れたローマンを職場の自室へと担ぎ込んだ。
フランク・バーネット・シェリーというこの青年は、ぱっと見は細く色白で、身長も北の出であるローマンを随分と下回る。
それでも日々鍛錬を怠らぬ肉体は、成人男性一人を担ぐ事ぐらいは容易いようであった。
客用らしき椅子にローマンの屈強な体を下ろしたフランクは、少し待っていろとだけ言い残して部屋を出て行った。
恐らく紅茶の準備だろう。彼に会いに来て、紅茶が出なかった日は一度だって無い。
どうやらローマンも全く気付かない内に、フランクの職場の前へと這いずってきたらしい。
頭が朦朧としていたせいか、辿り着くまでの経緯だとかの記憶は全くないが。
まぁつまり、無意識でここまで来てしまったのだ。
友情と呼んでも良いのか、彼に対する感情は自分が思っている以上に根深いようだった。
恐ろしいな、とローマンが零すのと同時、彼の押さえていた無傷の薄い腹が症状――空腹を訴えるべくぐおおと鳴った。
[紛らわしい男]
(ただの空腹…だと…)
(いや、本当に死ぬかと思ったんだ)
「ん?」
朝、執務室に入っていきなり、目に飛び込んできたのは黄色の花弁も鮮やかな大輪のひまわりの花束だった。
ひときわ異彩を放つそれに、フランクは目を見張る。
なんだこれは、クラウゼヴィッツ将軍から新手の嫌がらせか何かだろうか。
季節的にはあっても可笑しくない花だ。七月にひまわり、ごく自然である。
少なくともクラウゼヴィッツ将軍の悪趣味…もとい難解な研究の結果生み出された一年中咲く人喰いひまわりとかではないだろう。
…ただの人喰いひまわりの可能性は存分にあるが。考えるだけで背中が寒い。
慎重に、慎重にフランクは花束に手を伸ばす。
もしクラウゼヴィッツ将軍からならば、細心の注意を払って手に取る必要がある。
以前彼から貰った紅茶を飲んだら舌先が痺れじんましんが呪詛の如く体中に広がるという惨事になった。
勿論文句を言ったがクラウゼヴィッツは涼しい顔で
「対暗殺用の訓練ですよ。貰ったものを用心もせず口に入れるだなんて提督閣下が聞いて呆れますね。
大体、致死量の薬を入れなかっただけありがたく思いなさい」
とこの始末。
行き場のない怒りに固めた拳を壁に叩きつけたら打ち所が悪く手首が変な方向に曲がり指の骨が折れたのも懐かしい。
おそらくクラウゼヴィッツの薬の副作用だろうとフランクは思っている。
とにもかくにも気をつけるに越したことはない。
実は蜂が中に隠れていて指先を刺されスリーピングビューティーよろしく永眠だなんて笑えなさすぎる。
ていうかひまわりに囲まれて永眠だとかどんだけ陽気なスリーピングビューティーだ。ふざけてんのか。
キス一つで呪いも吹っ飛ぶような運命の相手もいないだろうしな…
虚しいことを考えながら虫の気配がないことを確認し、花束を手に取る。
見れば見るほどその鮮やかさは目に眩しい。
艶やかな花弁を用心深く撫でると、花束の包装された部分からぱさ、と紙が落ちた。
ほんの一切れの小さな紙。拾い上げて、フランクの紫陽花色の瞳が見開かれた。
見覚えのある、少し骨張った角のある字。名前はないが、誰かなんてすぐにわかる。
「…ふ、」
フランクの薄い唇が綻んだ。
他人に言われるまで気づかないなんて俺も随分忙しいもんだ、と。
「С Днём Рождения」と、一言だけのカードは、ひまわりよりも眩しかった。
[ 北国より愛を込めて ]
(そういえば彼なら、俺を永眠から救ってくれるかもしれない)
(きっと殴って叩き起こされるだろうけど)
「おや、また逢いましたね」
「貴様こそよくもまぁあちこちに出没するものだ」
感心するぞ、という声の波はごく平坦で、台詞の中身がないことを指し示している。
"剣聖"ローマン・ティモフィーヴィク・ゲルツェンと"海賊神父"オーギュスト・ルイス・ヴィヨン。
十海帝の中でも最も遭遇率が高いこの二人。
今回も例に漏れず、またもや適当に上陸した島で偶然に出くわしてしまったらしい。
「これも神の思し召しでしょうか…如何です?どこかで一杯」
「貴様はいつもそれだな…だが断る。大体神父が酒を飲んで良いのか」
「おや、またふられてしまいましたか。良いんです、私は神父だけど海賊ですから」
あなたは誰とも仲良くしませんよね、一人を除いては。
と、含みのある言葉を投げられると、ローマンは深い緑の瞳でオーギュストを睨みつけた。
硝子色の瞳を細め、オーギュストが咲う。
「そんな目で見ないで下さいよ」
「貴様は他人を詮索する趣味でもあるのか」
「おや、詮索とはまた人聞きの悪い。私は偶然面白いモノを見たものですから――十海帝の一人ともあろう人が、東方貿易会社ユーグランド支部提督と仲良しごっことは」
流石に怒られますよ、と云うオーギュストの目に、鋭い光が宿る。
十海帝という、それなりどころか海賊の最高位に君臨する者として、オーギュストの言い分は尤もであった。
東方貿易会社は各国お抱えの軍より厄介で、勢力範囲も広くその力の及びうる全てを支配しようとしている。
その包囲網を潜り抜けるスリルを楽しみつつも、海賊としては東方貿易会社など雨の様な落雷で本部ごと木っ端微塵になればよいと思っているし、あちらだって海賊なんぞ全部まとめて荒れ狂う嵐に転覆したあげく海の藻屑となればよいくらいには思っているであろう。
かような海賊と東方貿易会社の全面対立絶賛勃発中の今、東方貿易会社の人間と関わりを持つ海賊は当然良くは思われない。
「その座に着いた以上は、責任を持って頂きたい」
「責任か。そんな窮屈なものに縛られるのは海賊ではないだろう」
淡々と紡がれるローマンの言葉には嫌味も何もない。
いい意味でも悪い意味でも、何も感じ取れないのだ。
「何者にも縛られない貴方らしい台詞ですね。しかしそれで周囲が納得するとでも?」
「貴様こそ他の十海帝連中の機嫌取りでもしたいのか。流石に怒られるだの周囲が納得しないだの、怒るのも納得しないのも貴様の事だろう?」
「ただでさえ東方貿易会社や各国の軍の蠅どもが騒々しい時勢です、ジェーモンにも不穏な動きがあると聞きますし、貴方の祖国ルーシャだって国内の暴動の火花がいつこちらまで飛んでくるか。十海帝内部でのゴタゴタは避けるべきだと考える私は正しいと思いますが?」
「どいつもこいつも十海帝などという重い冠を乗せたとは言え所詮はたかが海賊だ。他人の事なんぞ歯牙にもかけない連中だということは、毎度の顔合わせで貴様も厭と云うほどにわかったであろう。俺がどんな動きをしようが奴らの反感を買うか否かは時の運次第だ。いい加減そんな小心で十海帝がつとまるのか、"海賊神父"?」
はあ、とオーギュストの薄い唇から溜息が流れた。
「貴方のそういう、無茶苦茶な正論は好きですよ。もう良いです、どんなに私が気を揉んだところで何が変わる訳でもありませんからね」
「何せ曲者揃いだからな、今更神父ぶっても疲れるだけだからやめておけ」
「神父ぶるも何も、私は神父ですから」
にこりと笑って、オーギュストは海を見遙かした。
ゆるりゆるりと寄る波が、静かな音色を響かせる。
オーギュストの金糸と黒髪、ローマンの長い茶髪が海風に遊ばれた。
「根回しせずとも、気を揉まずとも、やろうと思えば後からどうとでも処理できますし」
「ふ、あまり調子に乗った発言をするとどこぞのガリ痩せ凶相の恋する三十路に脳天ぶち抜かれるぞ」
「本人の前でそれを云ってご覧なさい、爬虫類顔の三十路に蜂の巣にされるのはそちらですよ」
「結構だ、謹んでお断り申し上げようーーーーーーまあ、その気になればどうとでもなるだろう」
「そうですね。まあ今回は見逃しておくといたしましょう。あまり提督ばかりに構うと、皆が妬きますよ?」
「気色の悪いことを云うな。貴様に妬かれても微塵も嬉しくない」
「私だって貴方に照れられても吐き気がするだけですよ…さて、では飲みに行くとしましょうか」
「結局行くのか」
「もちろん。飲まずして誰が海賊ですか」
強制連行です、と長い長いローマンの髪を引っ張り連れていこうとするオーギュストに、ローマンはこいつもう酔ってるのでは無かろうか、と少しだけそう思った。
[ 星の美しい夜の話 ]
(「奪え殺せ焼き払え!」)
(「俺たちこそ"自由"!」)
取引を持ち出したのは、向こうからだった。
現在勢力を伸ばしつつある北国の方へ商売の手を伸ばさないか、踏み入れたことのない土地だろうし仲介は自分がする。
だからそういう形で手を組もう、今あちらを商売先として押さえれば今後益々の利益に繋がる、軍ひいては国を差し置いての世界掌握も夢ではないと。
世界掌握というのは、中々に魅力ある話であった。
北国への進出は紛争中のリスクを伴うものの、利潤が回り出せばそんなもの遙かに上回るだろう。
実にうまい話だ、と我は相手方の船で勧められるまま酒を煽りながら耳を傾けていた。
ムシが、良すぎる話だと。
世界掌握は確かに面白そうではある。
渇く事のない欲は手に入れるものを常に求めていた。
こんなにも巨大な獲物を、狩る時を待っていたのかもしれない。
だが。
「して、終いに貴殿はいかがする?」
目の前で饒舌に話す男が、一泊おいて間抜けた声を出す。
「我は確かに商人だ、頼まれたのなら如何なる物も仕入れ、相応の値で売りさばく。
合法でも違法でも欲されるのならばそんな些細な事は気に止めんし、どのような手段でも使う。
貴殿は仲介と申したが我とて阿呆ではない、商売する内に仲介なぞ不要になろう。
その時、貴様は如何するや?」
我の質問に、男は答えない。
つまり、そういう事だ。
「頭の悪い男だ――我を他の能なしと同じようにあしらおうとした時点で、貴様に商才は欠片もない」
吐き捨て、笑い、席を立つ。
己の長身は自覚していたが、座す人間とはかように小さきものだったか。
決して小柄でないその男は、翻された我の態度に目尻を吊り上げる。
皮肉るように笑い、赤い顔でまくし立てた。
「流石は"蛮帝"、噂に違わぬ胸糞悪い高慢さだな!
その不遜さでよく今の地位につけたものだ!
…ならばこちらとて貴様等には組みせぬ」
言っている事が纏まっていないというか、図星を突かれて逆上したというか。
やれやれ全く…乗りかけた我も阿呆であったな。
溜息混じりにその場を去ろうとして、癪に障る言葉が耳についた。
「海賊紛いの狂れ頭なぞ、こちらから願い下げぞ!」
ふむ
言ってくれたな。
翻しかけた身を振り返らせ、相手の男を見る。
男は卑しく笑いながら指を鳴らした。部屋の四方八方からわらわらと沸いてくる男たち。
一瞥して、あざ笑ってやった。
「成る程、やっている事は我とさほど変わらんな」
「黙れ下衆が、貴様が口を開くことなぞ許可していない!」
「許可されずとも勝手に開くに決まっておろう」
男の席を囲う無意味に豪奢な飾りの柱を掴み、へし折る。
材質は悪くない、こんな悪趣味な男に買われたばかりに、可哀想なものだ。
朱に塗り上げられた柱に合掌しながら振るい、前方左右後方を囲う連中を、薙ぎ払った。
「此処では我が法、誰の指図も受けん」
本来丸腰の我に油断していたのか、周囲がどよめく。
薙ぎ払った連中は派手に壁へと激突、ずるりと厭な余韻を残しながら崩れ落ちた。
凍り付く空気を割るように男がわめきちらす。雑魚共が各々こちらに牙を向けた。
「頭の足らん…数が在れば敵うと思っているのか」
柱だったそれを手に馴染むよう振り回しながら皮肉を込め笑う。
刹那、視界を超速度で何かしら物体が通過した。いや吹き飛んだと言うべきか。
扉の一つが蹴破られたらしい。埃が舞い上がる。
何事か怪訝に思い事の流れを見ていれば、晴れてきた煙のような塵芥をくぐり、見知った姿が現れた。
「サルヴァドーレ様、前方にトランプ海賊団と思しきカラヴェル船を発見いたしました。如何なさいます?」
場の空気を何一つ読んでいないのか、はたまたあえて読んだところを無視したのか
秘書のバルトロームがさも当然の顔で報告してきた。
トランプ海賊団。二代目刀仙の乗る船だ。会うのも久しい事だし、挨拶がてら一戦交えたい。
さすれば一刻も早くこの五畜にも劣る能なしを始末せねば。
そんな我の心中を察したのか、バルトロームが無言で我に青龍刀を突き出してきた。
「呼び止めておきます故、手早くお済ませ下さい」
それだけ言ってきびすを返す。口五月蠅いが良い部下だ。
渡された青龍刀を抜き放ち、薙ぐ。
空を切っただけの一太刀だった。しかし連中を黙らせるには十分だったらしい。口ほどにもない。
逃げようとする男の眼前に青龍刀を突き出す。壁に突き刺さり男の進行を阻んだそれは、行灯の光に鋭く煌めいた。
「次にかような真似をして見せよ…などとは、我は言わん」
すっ、と壁から切っ先を抜く。
許されたと誤解したのか、止めていた息を吐く男の首を、はねた。
飛沫が壁を彩り、はねた首は放射線の赤い尾を引き飛んでゆく。
悲しい程に軽い音でもって、その終わりは告げられた。
「我に牙を剥いた輩に、生き長らえる権利なぞ呉れてはやらん」
土産代わりの青龍刀を床に突き立てて、今度こそ屑の巣箱を後にする。
詮無い輩に付き合ってやるほど、我も暇では無いという事ぞ。
[ 何だ…ただの蛮帝か。 ]