「ねぇヴァルツァ、そういえば昨日リッヒテと話していたのはどういう事?」
 
 舵へと上がる小さな階段に腰掛けたレイチェルが、ヴァルツァにそう尋ねた。
 当のヴァルツァは海図を眺めなら寛いだ姿勢で階段に腰を下ろし、どれの事だい?とラムを片手に問い返す。
 話を聞く気が無さそうな姿勢にむっとしながらも、レイチェルは重ねて訊いた。

「女を乗せていいのか、って」
「ああ、」
 
 アレね、と孔雀色の瞳が遠く海の方へ向けられる。
 正直、話した所でレイチェルの理解を得る事が出来るかは少々疑問だなあと思案しているのだが、この少年は口数の減らない秘密主義者であることを忘れてはならない。
 潮風と飛沫に濡れてぼろぼろになった海図をひとまず適当な所に放ると、以前どこぞかの宝物庫から頂戴して来た方位磁針を重石代わりに置く。
 それから舵の土台をぎしり、と軋ませ凭れ掛かった。
 生憎今は無風。どれだけ舵を取ろうとさして進まないのだから、気まぐれな風が再び吹き始めるまで副船長の箱に入った頭を目覚めさせてやるのも中々に有意義なのではなかろうか。色の無い唇を開き、ヴァルツァはこう切り出した。
 
「あのさ、海賊ってのは案外ロマンチストで、迷信深いんだ」
 
 ここで既にレイチェルが怪訝そうな顔をしているが、構わず続ける。
 
「穏やかに薙いでいたかと思えば、何の前触れも無く荒れ狂い命を攫う。
 風を止めては船を留まらせ、船乗り達に飢えと乾きを与えゆっくりと首を絞める。気まぐれな海を、愛やら皮肉やらを込めて彼らは「女」と称した。
 だから船乗りたちは女性を船に乗せる事を嫌がるんだ。嫉妬に狂った海の報復が怖いからね」
 
 再びラムを煽り、説明に乾いた口を湿らせる。
 レイチェルは呆気にとられたようで、ぽかんと口を開いたままでヴァルツァを見た。
 あまりにも明白に、その栗色の目千両が驚愕を訴えるものだから、耐え切れずヴァルツァは吹き出してしまう。

「そんなに呆れた?」
「…というより驚いたわ。そういうものは馬鹿にしているものだと」
「そこはまぁ、人によるね。とはいえ結局奴らは男で、己の自尊心や好奇心を満たしてくれる何かを欲し、海賊行為をする自分に酔いしれている手のつけられない餓鬼みたいなもんなんだ。
 だから”もっとロマンチックに”、”もっとエキサイティングに”生きるための、掟だったり迷信だったりはただの材料に過ぎないわけ」
「……理解に苦しむわ」
「ご尤も。何せレディは現実的だ。ロマンを語る男の言葉なんて、理解不能な言語としか捉えられないだろうよ」
 
 皮肉に笑って、また酒を煽る。
 成長中の体にとってそれは毒に過ぎないが、何となく口にしてしまうのもまた子供じみた好奇心から始まる自己陶酔の結果なのだろう。
 実際にまだ子供だが。
 
「貴族でも、紳士でもない男達だ。気にする程の体面も無い。
 なら一度きりの人生は全て棄てて海へ出ると言う最高な旅に全てをかけて、童心に返る様な航海の果てに撃ち合ってくたばってしまうのも中々に素敵ではないだろうか、なんて考えたんだろうね。
 ――反吐が出るかい?」

 最後の一節は目の前の箱入りお嬢さんに向けて、歌うように問いかけた。
 レイチェルはと言えば、難しい顔をして黙り込む。その様子を、ヴァルツァは楽しそうに眺めていた。
 重ねて、何故来てくれたんだ、と問えば約束してしまったから、とこちらは即答で返したレイチェル。
 こういう所で真面目な彼女は、ぼっちゃん船長を上手くサポートしてくれるだろう。
 自分の見込みに間違いは無いと信じている。今は喧嘩腰でも、いずれ誰も敵わない様なパートナーになる筈だ、そうヴァルツァは確信していた。

「それに、こうなればもう乗りかかった船よ」
「既に乗って出航してるけど」
「う…ま、まあいいわ!それに、途中で降りたらMr.ハワードに絶対鼻で笑われるもの、そんなの許せない!」
 
 興奮気味に、力の入った小さな拳が階段を殴る。古い木製のそれは情けない悲鳴を上げて少女の拳を受け止めた。
 ヴァルツァはハンドレールに頬杖をつき、不服そうに唇を尖らせるレイチェルを見下ろす。
 彼女の栗色の双眸に灯る鋭い光。美しく、強ささえ放つ光だ。
 言動は本当に、子供っぽい。実年齢よりもずっと。だが、そういう表情は悪くない。
 
「君って負けず嫌いなんだね。いつもそうなんだ?」
「相手がMr.ハワードだからよ。彼、私の事を見下してる気がする!」
「いやー…そいつは被害妄想…だと思うけど。まあそのままつっ走ってくれて結構だ、多いにぶつかってくれたまえ」

 からからと笑うヴァルツァに、レイチェルは怪訝そうな顔をして振り返った。
 見つめて来る双眸に対して肩を竦めわざとらしく尋ねたが、レイチェルはそれを見て諦めたように溜め息をつくだけだった。
 
「そういえば、ヴァルツァはどうして海賊に?何だかイメージじゃ、無いわ」
「そ?これでもロマンチストのつもりだぜ、少年の心は忘れていないし」
「現役で少年でしょ…」
「ハハ、違いないね…なに、大した事じゃない。ただ自由になりたかった、それだけだよ。
 海賊って道を選んだのはまあ、どっちかっていうと僕じゃなくてリッヒテなんだけど」
 
 もう一口酒を煽り、ぐらりと襲い来る目眩に目をつむる。
 あー、と低い声で発しふらつきながらレイチェルの所まで降りて隣に腰掛ければ、強い酒の匂いに彼女は顔をしかめるが構いはしない。
 海水を被った潮臭い床板に足を伸ばし寝転がるのに近い体勢になる。
 だらしない姿勢はレイチェルより幾分か目線が下がって、それはそれで珍しい眺めかもしれないな、と彼女を眺める。
 ふぅん、と小さく唸って、レイチェルは正面に向き直った。
 
「リッヒテって、貴方以上に海賊らしくないのにね」
 
 
「で、今は紅星に向かってるところだ。ルーシャの方から回ると寒さが厳しくて、とてもじゃあないけど今の装備と積み荷では対応しかねる」

 テーブルに海図と羊皮紙を広げ、鴉の羽根ペンを走らせながらリッヒテは今後の航路についてそう話す。
 ロベルトはそれを黙って聞きながら、忙しなく走るペンの先ではなく揺れる羽の方をまじまじと見ていた。美しい黒の羽根に興味が湧いているらしい。
 元々鳥類が好きで自分でも羽根ペンを集めているほどだ、揺れる大振りの羽根に目が奪われてしまっても仕方が無い。
 視線の宛てに気付いたリッヒテがこら、と苦笑気味に叱る。意識がこちらに返って来たロベルトに、リッヒテは説明を再開した。

「だからユーグランドをぐるりと迂回して翠海からセザン運河を通り赤海に出ようと思う。
 そこからキング大陸沿いにエンディアを通過して紅星に入るつもりだ」
 
 暫定的に作られた世界地図の中で一番大きな面積を占めるのがキング大陸だ。ユーグランドは地図上、その左に位置している。
 ルーシャは大陸の北側のほぼ全てを占める広い王国だが、その殆どを森が占める上に年中雪の降る極寒の地なので面積に対して国民は少なく、さほど栄えている訳ではない。
 紅星は大陸の東に位置する国で、珍しい文化を持った国であるため美術品や民芸品の貿易が盛んに行われている。
 そこを目指すと言う事はやはりひと暴れして何かしら”頂戴”するつもりなのだろうか。
 父親が土産で買って来た翡翠の置物を思い出しながらロベルトは静かに思案した。
 羽織った天鵞絨の外套が、装飾だけやたらと豪奢な古くぼろぼろのソファの上で衣擦れの悲鳴小さくを上げる。
 何か質問はあるかい、と親切に問う航海士に、ロベルトは気付いた事を素直に挙げた。

「なあ、セザン運河って今ユーグランドからファイランスに貿易会社の支配権が渡って警備かなり厳しくなってねえっけ。
 提督が部下引き連れて駐屯してるらしいじゃん、通れんの?」
 
 不安を孕む声に対しリッヒテは至極爽やかに笑い、中腰で立っていた体勢からロベルトの向かいのソファにどっかりと腰を下ろした。
 黄金に煌めく瞳は熟した毒林檎の蜜と同じ怪しい光をたたえながら、ロベルトをじっと捉える。
 身震いするほど美しく深い金の隻眼に頭が痺れそうで、ヴァルツァと言いこの人と言い、何て目をするんだと朧な思考でひっそりと怯えた。
 次いで、如何にも海賊的といった悪質な笑みを浮かべるものだから、あんまりだとぶっ倒れそうになる。
 彼もまた立派に悪役面が出来るらしい、ゆったりとしたサルエルとオフホワイトのムートンブーツを纏った足を海図の広げられた机にどんっと荒々しく乗せて、広い背もたれに体を預けた。
 綺麗な並びの白い歯が、薄い唇の影から獰猛に覗く。

「ロベルト、俺達は商船じゃあない、海賊船だ。正規の通行が出来ると思ってるのかい――俺達には俺達のやり方がある」
 
 に、と唇を歪めたリッヒテに、ロベルトは鼓動が加速していくのを感じた。
 体は焼けるように熱いのに握った指先は冷えて、熱を帯びた頬をやけに冷たい汗が流れ落ちていく。
 
「奪え、殺せ、全て焼き払え。力づくが俺達のやり方だ」
 
 伏せられた睫毛が毒々しい黄金を翳らせ、より一層毒を増す。ソファに放り出された天鵞絨の端を、思わず掴んだ。
 眼光紙背に徹す、紙どころか脳裏まで見透かされそうなその瞳に宿るただならぬ威圧感に、少なからず畏怖の念を抱く。
 が、リッヒテはすぐに相好を崩して「なんてね」と軽い調子で笑った。
 つられてロベルトも結んで固唾を飲んでいた口元を緩めたが、どうもぎこちなくなったのは彼の威圧感の残り香の所為だろう。
 天鵞絨を掴んだ手は汗ばんで、指先が白くなる程力が入っていた。


「そうだレイチェル、ひとつ聞きたいんだが君って料理とかできるかい?」
「仮にもタヴァンの娘よ、一通りは出来るわ」
「これは失礼、じゃあ暫く台所は君に預けてもいいかな?」

 肩を竦めてからヴァルツァは神妙な面持ちで声を潜め、「実は僕もリッヒテも料理苦手でさ、特にリッヒテの腕前はサイアク」と耳打ちしてきた。
 いわく、「さして知識も無いのにやたら難しい事をやろうとする」らしい。
 魚の生臭さを消そうとそのまま牛乳にぶち込んで煮込み始めた話を聞き、レイチェルは思わず吹き出した。
 さらりと何でもこなしてしまいそうな印象だったので、これは意外な話だ。
 頼むよ、と言われたレイチェルはいいわよ、と快諾する。牛乳浸しの魚を食べる羽目になっては自分だって困る。
 ヴァルツァも苦手なのね、と言えば、「ナイフは使えるけど火加減とか、分量とか、難しすぎ」としかめっ面の返事がきた。
 今まで大変だったのだろうと想像しながらハンドレールに寄りかかった所で、レイチェルはふと真剣な面持ちになる。
 
「…ヴァルツァ、この船にクルーは何人?」
「我らが副船長にご紹介していないクルーは一人も居ないが?」

 冗談めかしたヴァルツァの言葉にも、レイチェルの硬い表情は解れない。
 黙って立ち上がるとまるで足音を忍ばせるかのようにゆっくりと階段を降り、レイチェルは甲板に降り立った。
 不思議そうな顔のヴァルツァに、レイチェルは振り返らず質問を続ける。

「リッヒテとMr.ハワードは、まだ船長室にいるわよね?」
「船長室改め僕の自室な。扉はほら、あそこだ。もし二人が出て来ていたら、僕らの目に入らない訳が無い」

 ヴァルツァの指差す先には、甲板を挟んで船長室。唯一のドアもこちらから見える、確かに。
 蹲り、床板に耳を当てた。何処とも無く視線を泳がせ、それからゆっくり上体を起こし、再びヴァルツァへ向き直る。

「…下の貯蔵庫から、音がするわ。多分、足音」

 告げられた言葉に、孔雀色の瞳が跳ね上がるようにして見開かれた。
 投げ出された白磁の細足を引いてゆっくりと立ち上がり、ヴァルツァは黙ってラムを階段に置く。
 静かにレイチェルが座り込むそこまで歩み寄ると、逆光になって表情がよく見えない顔が向けられた。

「ついておいで」

 いつの間にか、彼の白い手には小さなナイフが握られている。
 顔が見えなくても、纏う空気が変わったのを感じないほど、彼女も鈍くない。
 レイチェルは恐る恐る頷くと、震える足で立ち上がった。
  
 階段裏のドアから中へ入り、注意を払いながら階段を下りると、途端に辺りは闇に包まれる。勘付かれる事を考慮して、灯りの類は置いて来た。
 大砲用の小窓は不要な時は閉めてあるが、それでも隙間から海の匂いが波の音と一緒に流れ込んで来る。
 甲板より海に近い分潮の匂いも強く、暗い事もあってより湿った感じがした。
 閉塞的な空間に響く二人の足音はあちこちに跳ね返り輪唱状態を引き起こして、気が変になりそうだ。
 床を叩くヴァルツァのピンヒールとレイチェルのプラットフォームが、静寂の闇をゆっくり浸食していく。
 こんなに足音を立てたのでは、灯りを置いて来た意味が無いのでは。
 レイチェルが不安に思った矢先、ヴァルツァの白い指先が彼女の唇の前に立ちはだかった。慌てて足を止める。
 小柄な副船長を後ろ手に庇いながら忙しなく周囲に視線を巡らせるヴァルツァの目は、先程ちらつかせたナイフよりずっと鋭利だ。
 私より年下の彼が纏う、この不思議な雰囲気の正体は一体何なのだろう。レイチェルは思った。
 出会った時感じたような冷たさは感じなくなったものの、彼の雰囲気はいつも何処か大人びている。
 あの背筋が凍る程に美しい孔雀色の双眸のせいだろうかと思ったが、どうにもそれだけではないように感じた。

「レイチェル」

 色の無い唇が、少女を呼ぶ。なに、と小声で返すと、動くなよという指示が下りた。
 途端に張りつめる空気に、一瞬呼吸を奪われそうになり、立ち眩む。
 かたん、と奥の積み荷の方から音がした。ヴァルツァはそのまま、と手で示すと、音も立てず積み荷の方へとにじり寄る。
 ボルドーのショートブーツが一歩進む度、レイチェルは口から心臓が出てしまいそうな気分だった。
 落ち着こうと押し殺していた息を一度深く吐き、吸って。顔を上げると、気付けば目は随分と暗闇に慣れていた。
 黒シャツにワインレッドのベストを纏う背中も、随分はっきりと見えるように思う。
 暗順応し始めた目を一度擦って、もう一度黒いシャツの華奢な背中を見る。そしてその肩越しに、人影が居るのを視認した。
 叫びそうになった口元を慌てて押さえ、事の結末を黙って見守るべく刮目する。
 こちらに背を向けているらしいその人物は、シーツのようなぼろ布を被っていてどんな姿なのかは全くわからない。
 そのすぐ背後に音も無く立つと、白銀髪の少年は屍蝋の唇をその耳元あたりにすいと寄せた。
 レイチェルの心臓が周りに聞こえそうなほど煩く叫ぶ。

「ご用件は何かな、密航者さん?」

 ガタタン!!

 一際大きな物音。密航者が慌てて立ち上がり、どこかぶつけたらしい木箱が揺れたのだ。
 当然ヴァルツァが逃がす筈も無く、襤褸布から現れた腕を取ると、あっさりと捻り上げる。暴れる勢いで布がずるりと床に落ちた。
 次いで上がった悲鳴に、ヴァルツァがえ、と小さく声を漏らす。
 きっと目を見開いて酷く驚いているに違いない、とレイチェルは思った。
 何故なら自分もそうだから、だ。

「お……んな……?」

 そう、密航者は事もあろうに丸眼鏡の、こんな場所には似つかわしくない、それは奥ゆかしげな女性だった。
 
 
「えー、と。とりあえず何がどうなっているのか説明してくれるかい?」
「そんなもん僕が彼女に訊きたい」
 
 船長室。
 寝そべっていたロベルトを蹴落としソファに倒れ込むように座ったヴァルツァは、だらしなく体勢を崩し背凭れに深く身を沈め、七分丈のボトムスを纏った細足を床に投げ出して、部屋の主然とした偉そうな態度でそう吐き捨てた。
(因みに哀れなロベルトはというと、ヴァルツァに殴り掛かろうとしたところをリッヒテに宥められ、今は彼の隣に大人しく座っている。
 更に余談を続けるのならば、レイチェルはリッヒテを挟んでロベルトの反対側に座っている)
 リッヒテも今は姿勢を正し、ムートンブーツを履いた足を組んでヴァルツァの方から”彼女”の方へと視線をずらした。
 二つのソファに挟まれたテーブル、その脇に。
 ”彼女”――密航者の女性は、可哀想ではあるが「女だからって容赦すんじゃねえ」と言わんばかりのヴァルツァの一睨みに負けたリッヒテに縄で大変しっかりと縛り上げられ、床に転がされていた。

「で、オネーサン、何者?女だからって優しくして貰えると思ったら大間違いだから生きていられる内に白状しちゃってくれよ」

 右手の扇状に広げた投擲ナイフを一本抜き、女性に向かって投げながらヴァルツァが皮肉っぽく言う。
 投げられたそれは頬すれすれの所で床につき刺さり、女性は眼鏡越しに灰色の瞳を見開いた。
 二本目を抜きながら、ヴァルツァは淡白な調子で続ける。

「で?」

 投擲。

「まず、名前から教えてもらおっか」

 投擲。

「偽名、名乗ろうなんて考えんなよ。嘘かどうかなんてすぐバレる」
 
 投擲。
 一定のペースで女性の方へナイフを投げて行くヴァルツァは退屈そうで、表情は変わらないままだ。
 憤慨したレイチェルが止めに入ろうとしたがここでも活躍したのはリッヒテで、暴れ出しそうな彼女を羽交い締めにした。
「君に怪我されちゃ困るんだ、ここで大人しくしてて、ね?」と小声で彼女を宥める。
 ソファに体を預け、冷たい目で床に倒れている女性を見下すヴァルツァは、あの冷たい声音で、更にその場の温度をぐっと下げるような言葉を放った。

「黙ってるのが好きみたいだけど、喋らざるを得なくしてやることだって出来るんだよ、僕は」

 上体を起こし、ナイフの先を白い喉元に向ける。不安定な灯りの下で、ちらちらと光る銀色。
 深い灰色の瞳が、銀に閃くそれを捉える。それから、不健康にかさついた唇が小さく弧を描いた。

「Jane Doe、って言ったら?」

 ヴァルツァの眉根にぐ、と皺が寄る。身元不明の女性、を指す名だ。
 
「名乗る名は無い、ってか」
  
 ぼろいソファをぎし、と揺らして立ち上がったヴァルツァの、尖った爪先が女性の頭を小突く。
 限りなくグレーに近い茶髪が爪先の下でぎし、と鳴いて、少年の真っ白い睫毛に孔雀色の瞳が翳る。
 次の瞬間、その靴底が容赦なく彼女の側頭部を踏みつけた。

「っあ…!」
「あ、痛い?仕方ないよ、あんたが悪いんだから」
 
 何でも無いような風に言って、ヴァルツァは踏みつける足に力を込め体重をかけていく。
 やめて、とレイチェルが制止に声を荒げるが聞いては居ないだろう。
 みし、と何かが軋む音。撓みかかった床の音かもしれないが、不吉な音にレイチェルは青ざめた。
 彼女を押さえたままのリッヒテでさえ、その音に嫌な汗が流れるのを感じているのだ。
 ヴァルツァはといえば止める気など全く無いようで、ただ惰性で力を加えて行く。
 流石にまずいと思ったリッヒテが口を開こうとした時、今まで黙っていたロベルトが制止の声をかけた。

「ヴァルツァ、もう止せ」

 沈黙。肩越しに、伏せ睫毛の目がロベルトを見遣る。
 ロベルトは険しい顔をして、沈黙を押し潰すように言った。

「船長命令だ、聞けないのか」

 低く響いたその一言に、ヴァルツァの目が見開かれる。
 視線が一瞬さまよい、しかしすぐにその目は三日月の形に細められ、色の無い唇はゆったりと弧を描いた。

「仰せのままに」

 冗談めかした言葉とともに、すっと足がどけられる。
 恐怖と痛みで蒼白だった女性は止めていた大きく息を吐くと、ずり下がった眼鏡を気にしながらロベルトを見上げた。
 ロベルトは厳しい表情をふいと解き、薄く微笑んで彼女の傍にしゃがむと、縄をほどいて抱き起こす。

「名前、伺っても?」
「……ポーラ・ブラッカイマー…です」

 小さな声でそう告げた彼女に礼を言い、ロベルトはにやりと笑った。勿論、ヴァルツァに向けて。

「お前、意外と女性の扱いヘタクソだな」


 今の自分が置かれている状況が、正直よく理解出来ない――ポーラ・ブラッカイマーは穏やかな顔立ちを歪めそう思った。
 学者だった父の遺志を継いで旅立とうとしたが、残念どころかいっそ清貧と胸を張りたいほど中身の無い財布の事情を考えて、近場の入江に侵入した。無論そこに自分の船なんて贅沢なものは無い。
 運良く一隻とまっていたキャラヴェルに、人目を盗んで乗り込んだのだ。
 無一文の女性を乗せてくれるような船員が居た訳では勿論無い。彼女は息を殺し、倉庫の隅でひたすらに出航を待った。
 船である以上何れ何処かに辿り着く。そうしたらまたこっそり船を降り、お世話になりましたと頭を下げるだけはしておこう。
 そう思っていた。完璧な計画だった筈なのに、何故今自分は船員達の白い目に晒されているのだろう。
 それが彼女の疑問だった。

「ポーラ…ブラッカイマー…ひょっとしてあのリチャード・ブラッカイマー氏の…」
「確かにわたしの父はリチャードですが…御存知で?」
「あの”ヒストーリア”の創設者、ですよね。うちも何度か資金援助させて貰ってて…いや、援助したのは親なんですけど。
 まあその、俺もリチャード氏とは一応面識が」

 この金髪の綺麗な青年は、きっと大変育ちの良い人なのだろう、と椅子に座り直したポーラは思う。
 彼の纏う雰囲気もそうだし、資金援助などという言葉まで出て来たのだから。
 身なりも小綺麗にしてあって、何故こんな物騒な船に乗っているのか不思議なくらいだ。
 微笑むロベルトに些か悪くない目眩を感じていたポーラは、ふと先程自分を足蹴にした少年がこちらを睨んでいるのに気付く。
 顔を覆うような白銀の髪と色白を通り越して蒼白にも近い肌色が、幽霊のようで不気味だ。

「何でそんなモノスゴイ学者サマんとこのご令嬢がこの船に密航なんかしてんの?倉庫に便所はねーけど」
「だっ、誰もお手洗いを借りに来た訳じゃないわよ!!」

 何とも皮肉で高飛車だ。反論の声を上げながらポーラは唇を噛んだ。
 髪の間から覗く孔雀色の双眸は冷徹にぎらついていて、まるで海賊。
 背筋の凍り付くような色はとてもじゃないが人とは思えない。童話に登場する魔女を思わせる。

「でも本当、何でこんなとこに?商船や軍艦ならまだしも、此処は海賊船だぜ?」

 え?
 ロベルトの言葉に、ポーラは耳を疑った。
 彼の金髪優男な風貌と、海賊と言う言葉が結びつかなくて、混乱する。
 こんなに誠実そうで、優しそうで、爽やかな雰囲気の青年が、海賊ですって?
 頭を金槌でがつんと打たれたような衝撃だった。

「ありえない…夢でも見ているのかしら…」
「悪夢のような現実ってやつさ。お望みなら永遠の夢見せてやろうか?今すぐこの大海原に沈めて」

 けたけたと笑うヴァルツァに、ポーラは恨めし気な視線を向ける。
 確かにこの少年は如何にも海賊という風貌だ。
  
「…何度も最初の問いに回帰して申し訳ないんだけど、そろそろここに居る理由を吐い…教えて貰えないかな」

 ヴァルツァと睨み合いを続けるポーラの肩に手を置くリッヒテ。
 爽やかに笑ってこそ居るが、滲み出る威圧感が隠し切れていない。
 それを感じ取ったらしいポーラは黙って頷き、からからになった口を開いた。
 ひゅ、と息が掠れて空を切る。

「わたし、研究で外に…出ようとしたんですが…お金が、その、大手を振って旅立つには心許なくて…それで…」

 もごもごと言い淀むポーラを見兼ねて、ヴァルツァが彼女の持っていたトランクを蹴り開けた。
 リッヒテの制止する声も無視して中身を次々と放り出し、本の下から財布と思しき革袋を引き摺り上げる。
 やけに年季が入っていて、口を締める紐はボロボロだ。破れないように丁寧な手つきで開ける。
 中身を確認して――ヴァルツァは此処では初めて見せる表情、哀れみの目で彼女を見た。

「…よくこんなゴミクズみたいな額で外に出る気になったな……艦隊相手に木の棒で戦いを挑むのと大して変わらないんだけど。見ろよリッヒテ」

 渡された革袋をリッヒテが見る横から、ロベルトも首を伸ばして覗き込む。
 顔を上げた二人の表情はやはり哀れみと驚きに変わっていた。

「恐喝した相手が平謝りして返して来そうな額だね…」
「これ全財産?こんなはした金で人間生きていけるもんなの?」
 
 好き勝手言い散らかす男子勢に、ポーラの額の青筋が増えていく。
 人の財布を勝手に覗いた上、ゴミクズだのはした金だの言われては堪忍袋の緒も切れると言うもので。
 膝に置いていた手に段々力が入っていく。耐えきれずソファから立ち上がった。

「いいかげんにして」

 低く発せられた声は抑えきれない怒りに震えていた。流石に男子勢の罵詈雑言も止まり、静寂が返って来る。

「学者の苦労がどんなものか、貴方たち知らないでしょう…貿易会社から依頼された調査で出る研究費だって全然足りないし、どんなに優秀でも家柄のせいで大半の人間は王室入りを諦めざるを得ないのよ…!学者の身で裕福に暮らせるのは元から裕福だったほんの一握りの人だけ…現に今ユーグランドやファイランスの王室顧問やってる学者だってわたしの父の足元にも及ばない脳味噌すっからかんの連中ばっかりなんだから!!
 父がどんなに素晴らしい本を書いて有名になったって、お金があったかと言われたらそんなもの!!全く!!無かったわよ!!!遺産らしい遺産は参考文献ばっかり!まぁわたしはそっちの方がいいけどね!?
 でもそれで、今日だってわたし、これだけのお金の為に家具をどれだけ売り払った事か!!
 安く買い叩かれた物書き机の恨みを今貴方たちで晴らしてやったって良いのよ!?分かったらその財布をさっさと返しなさい!!!」
 
 しん、と沈黙が辺りを支配する。ポーラは肩で息をしながら、乱れた前髪も気に留めず三人を睨みつけた。
 その気迫に、無数の針で肌を容赦なく刺されるような感覚を覚える。怒号が耳に痺れて痛い。
 毛を逆立てた獣のような怒りにヴァルツァも驚いたらしく、切れ長の目を泳がせて

「あー、えーと、うん」

 日頃の人をからかう色は一切無い声で歯切れの悪い発言をすると、丁寧に財布を締めて馬鹿叮嚀にトランクへと返した。
 呆然とした顔で立ち尽くすあとの二人にもふん!と鼻を鳴らした彼女に、脇からひょこひょこと近付く人物が居た。
 レイチェルだ。

「あの、ポーラさん…怪我は大丈夫ですか…」

 不安げな顔でヴァルツァに踏まれた所に触れ、「良かった、顔は怪我してないみたい」と安堵の息をついて目尻を下げる。
 しかしそれは一瞬で、眉根に皺が寄ったかと思うと鋭い眼光をたたえた双眸でヴァルツァを睨みつけた。結構な迫力だ。
 目千両にはメンチの切り方を教えなくても良さそうだな、とリッヒテは苦笑して成り行きを見守るように壁に背を預けた。

「あなたね、女性に何て事をするの!?顔に怪我したらお嫁に行きづらくなっちゃうじゃない!!」

 行けないとは断言しない所が彼女らしい。庇われるとは思っていなかったポーラは胡乱げにレイチェルを見た。
 ヴァルツァはと言うと既に平生の彼に戻っていて、人の神経を逆撫でする嘲笑で以てレイチェルに返事をする。
(しかも、一度鼻で笑う事も忘れない)

「こいつは失礼。手元が狂った上に、足が滑った」

 くるりと指先でナイフを回すその声色に反省の色は無い。
 ロベルトが憤慨するレイチェルを静かにさせると、ヴァルツァは非常にわざとらしく長い溜め息をついた。

「さて、ポーラ」
「気安く呼ばないで頂戴」
「チッ、まあいいMs.ブラッカイマー。僕の記憶が確かならば、君の父君は王室顧問ではないものの、ヒストーリア設立者として東方貿易会社ではいい待遇を受けていた筈だ、違うかい?」
「…そんな情報をどこから仕入れて来たのかは知らないけど、事実よ。認めるわ」

 頷いてみせるポーラにヴァルツァがにっ、と唇の両端を吊り上げる。
 よろしい、と屍蝋の唇が開いた。

「だったら亡き父親のコネで、貿易会社の船に乗せてもらえば良かったんじゃない?
 かのリチャード氏の娘とくれば、連中は手放しで喜ぶだろうに」

 盲点だったらしい。衝撃を受けた顔でポーラは固まった。
 貿易会社も上層部の人間は血統重視なきらいがある。よほど無能でない限りは彼女を受け入れる筈だ。
 
「そこまで頭が回らなかったようだね?」

 悔しそうに歯噛みするポーラの鼻先に、もう一度嘲笑を吹っかける。
 二人は鼻先を互いに突きつけるようにして火花を散らしていた。
 そろそろ止めに入るか。黙って見守っていたリッヒテが、引きはがすようにしてヴァルツァをポーラから離れたソファに引き摺る。抗議の声は無視だ。
 それからまだ険しい顔をしているポーラに向き直ると、人の好いお兄さんの笑顔になる。

「まぁ、今から俺達ユーグランドをぐるっと回って翠海へ向かうから。途中の海峡で貿易会社が検問やってるだろうし、適当な所で下ろして――」

 親切な彼が提案を言い終える前に、見慣れたナイフが頬を掠める。
 鈍い音でテーブルへ突き刺さったそれを一瞥して振り返ると、白銀髪の少年は悪辣な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 白い歯が剥き出しになるその笑い。リッヒテは大人しく両手を挙げる。

「その提案、却下な?」

 どうやら少年は、姦計をはかるつもりらしい。



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